浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

島崎こま子のこと

2023-04-15 15:57:59 | 歴史

 『逍遥通信』第八号の目次をみていたら、「島崎藤村とその周辺」(北村厳)という、かなり長い文が目に留まった。読み始めたらなかなか面白く、最後まで読んでしまった。

 藤村の『破戒』、『夜明け前』は読んだことはあるが、それ以外はない。しかし『新生』という小説は、読んだことはないがその内容は知っている。この文には、藤村の文学とその生が書かれているが、「その周辺」と銘打っているだけあって「周辺」のことも過去こまれている。

 藤村の妻の冬が亡くなったことから、幼い子どもたちの世話をするということから、姪(藤村の兄の子ども)の久子とこま子が藤村家にやってきた。久子はしばらくして結婚のために出ていき、こま子が残った。そのこま子と叔父である藤村とが結ばれて子までもうけてしまう。藤村は、兄に後事を託してフランスに逃亡する。それらのことを、藤村は『新生』という小説に書いた。こま子にとっては、その事実と、それが公にされたことから、この後数奇な人生を歩む。

 この文には、こま子のその後のことが詳しく書かれている。こま子は伯父が住む台湾に行ったり、自由学園で働いたり、さらに京都に行き、京大の洛水寮、その後京大社研の合宿所の賄い婦として働く。その間、学生運動で逮捕された学生たちの救援活動に入りこむ。そして10歳年下の京大生・長谷川博と同棲、そして一女をもうける。紅子である。紅子を私生児としたくない、ということから、長谷川と結婚する(1932年12月4日、1948年正式に離婚)。しかし何と、長谷川は別の女性と駆け落ちをしていった。

 こま子は、貧困の中、紅子を育て、同時に解放運動犠牲者救援会(現在の国民救援会)の活動を継続し、何度も逮捕されるが非転向で生き抜いた。しかし1937年3月、行き倒れ同然となり、「養育院」に収容される。退院後、こま子は木曽妻籠に。紅子は研究者となり、母・こま子を東京に呼び寄せた。

 さて、島崎藤村について、戦争協力の問題など言いたいことはたくさんあるが、ここでは長谷川博について書く。

 長谷川博は、『日本社会運動人名辞典』にでている。しかし、こま子はでていない。1903年に生まれた長谷川は、二高を経て京都帝大へ。河上肇、山田盛太郎らとの研究会を通してマスクス主義者となる。京大社研書記長、学連委員として学生運動のリーダーとなる。その後共産党に入党、何度か逮捕される。戦後は共産党再建幹部団の一員となり、党再建に従事。1951年から法政大学の教員となる。米騒動やパリ・コミューンなどの研究を行う。マルクスの『フランスの内乱』などを翻訳。

 長谷川博の法政大学時代のことを、政治学者増島宏が書いている。面倒見の良い学者であったようだ。その時の長谷川の伴侶は、章子という。平凡社につとめていたようだ。

 長谷川章子は、往年の学生運動の闘士で、戦後は京都大学人文科学研究所の図書係をしていて、その後岩波書店、平凡社の編集者となった。

 長谷川章子は、1960年に刊行された『戦後婦人運動史』Ⅳ(大月書店)の共著者でもある。長谷川章子「戦後日本の婦人運動」はその本に書かれているようだ。浦田大奨は「占領期における女性労働者問題と歴史把握」(熊本大学社会文化研究13 別刷 2015)で、長谷川をこう記している。

占領期が女性たちにとってどのような時代だったか。これまでもたびたび言及がなされているが、
女性史研究会(元、民科婦人問題部会)に所属し、出版社に勤務しながら女性労働運動研究をおこなっ
ていた長谷川章子は、女性たちのおかれた状況を女性労働者と女性団体に即しながら次のように区分
して説明している。
(1) 敗戦直後、「婦人の解放」「労働組合の団結権」指令の直後から、四六年末の「女性を守る会」
結成、二・一ストにいたる時期。
(2) 二・一スト禁止後、四七年三月、戦後第一回国際婦人デーから、四八年八月、平和確立婦人
大会をへてその年の末までの時期。
(3) 四九年はじめから、五〇年七月、婦団協(婦人団体協議会―註)結成、無期休会後まで
長谷川の区分を参照してみると、女性の解放が声高に叫ばれ、参政権の獲得や女性団体の結成が目
覚ましい(1)の時期から、レッドパージをはじめ、企業整備にともなう労働者の馘首や配置転換など、
(2)(3)にいたる逆コースへの転換の時期であることが指摘できる。長谷川は論考のなかで、この時期の
政治と「婦人運動」の動向をていねいに追っているが、概説論文という性格上、個々の女性たちの声
を拾いあげて論を展開するまでにはいたっていない。

 ここでは長谷川章子について言及することではないので、これ以上探索はしないが、この女性は、長谷川博と駆け落ちをした女性(当時21歳)であるかどうかはわからない。

 いずれにしても、藤村にしても、長谷川博にしても、こま子を踏み台にしたような気がする。踏み台にした者たちは、成功の階段をのぼる。無情である。

 この長い文を読んで、藤村よりもこま子に関心をもった。

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 自治体史の著作権 | トップ | 【映画】「善き人のためのソ... »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

歴史」カテゴリの最新記事