goo blog サービス終了のお知らせ 

浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

【本】吉見俊哉『アメリカ・イン・ジャパン』(岩波新書)

2025-03-29 20:39:22 | 

 アメリカと日本との関係を歴史的に考えようとしているわたしにとっては、なかなか刺激的かつ衝撃的な本であった。

 最後の第九講「アメリカに包まれた日常」は、とりわけ衝撃的であった。わたしは脱アメリカを志向しているのだが、ディズニーランドに関する記述を読んで、「はしがき」に書かれていた「近現代の日本人は、そのようなアメリカに全力で一体化しようとしてきた」が、今も続いているのだと思わざるをえなかった。

 第九講は、星条旗、「自由の女神」、「ディズニーランド」をとりあげて、日本がいかにアメリカに「包まれ」ているかを論じていくのだが、星条旗についてはふむふむと読み進んで、「自由の女神」については、う~んと唸ってしまった。

 「自由の女神」像は、言うまでもなくニューヨークにある。そのもともとのモデルは、フランスの画家ドラクロワの「民衆を導く自由の女神」である。この絵が東京国立博物館に来たときは、朝早くから上野に行って、博物館のまわりに並んだ記憶がある。

 そして「自由の女神」は、フランスの自由の象徴であり、それがフランスの市民により、1886年、アメリカに贈られた。

 ところで、その「自由の女神」像、日本の各地で見られる。今あるかどうかはわからないが、浜松インターの近くにあるホテルの屋根にそれがあった。それだけではなく、静岡県の静波海岸にも、そして観光地として有名な奥入瀬(おいらせ)にも、そこには巨大な「自由の女神」像があるという。近隣に米軍三沢基地があるからだという。

 日本に於ける「自由の女神」像は、「自由」という理念とはおそらく無関係に建てられている。

 吉見はこう書く。

 日本では戦後、国内各地に「自由の女神」が設置されてきたのですが、その背景は諸外国と大きく異なりました。日本以外の多くの国で、自由の女神像の建設は、「自由」「共和国」「独立」「革命」といった観念と結び付けられていました。ところが日本では、自由の女神像の建設でそのような観念上のことが問われたことはなく、むしろ日本にある自由の女神は、アメリカ的な豊かさやギャンブルやセックスの自由奔放、さらには流暢な英語や米軍文化との結びつきを示す記号として受け入れられてきたのです。日本人にとって自由の女神はとてつもなく通俗的な記号なのです。(253)

 そしてディズニーランド。30年ほど前だったか、ロサンゼルスのディズニーランドには一度だけ行ったことはあるが、浦安のそれには一度も行ったことはない。だからディズニーランドの内部がどうなっているのかまったく記憶がない。

 そのディズニーランドについて、吉見はこう書いている。

 東京ディズニーランドを訪れる入園者たちは、19世紀の北米大陸に入植して先住民たちを駆逐し、虐殺し、記憶から抹消してきた白人プロテスタントのアメリカ人たちのふるまいに自らを重ね、さらにはハワイや南太平洋も支配下に収めていった蒸気船の乗員を再演しているのです。(264)

 白人プロテスタントのアメリカ人は、自分たちの祖先が犯した犯罪的な行為を反省することなく生きている。アメリカは、他国に対しておこなった非道な行為を謝罪したことはない。たとえばベトナム、アメリカ軍によって大量の枯葉剤を撒布されたベトナムの民衆には、いまも様々な障がいがあるどころか、新たに生まれ出る子どもにも回復不可能な障害を伴う。ベトナムの民衆に、アメリカ政府は謝罪し、補償したか。ノーである。アフガニスタンに、高空から爆弾を落として無辜の民を殺傷したことに、謝罪したか。ノーである。

 吉見はこう書く。

 ディズニーランドに入った人びとは、「例えばベトナムやアフガニスタンを空爆し、パレスチナを徹底的に痛めつけるイスラエルを支援し続けるアメリカに寄り添い、「日米同盟」が自らのアイデンティティの支えであると信じる現代日本人の心理において上演され続けるでしょう。」と。

 ディズニーランドで楽しんでいる人びとは、アメリカがおこなってきたことを、みずからがアメリカ人であるかのように体験する。アメリカと「一体化」するのである。

 日本人は、脱アメリカより、アメリカの51番目の州になることの方を選ぶのだろうか。

 

 本書は、たいへん有意義な内容を持っている。教えられたことは数限りない。もっともっと勉強しなければならないことを教えられた。

 


ストライキが足りない

2025-03-29 09:11:45 | 社会

 『女性セブン』という雑誌がある。そこに斎藤幸平が「夜明けのコモン」と題する連載を持っている。4月10日号の標題が、「ストライキが足りない」である。

 斎藤は今、ドイツにいるようだ。ある朝、フィンランドに行くことになっていたところ、空港のストライキでキャンセルとなった。ドイツのその労働組合は8%の賃上げ、ボーナス増額、休暇の拡大を要求していた。

 斎藤は、「マルクス主義者として、労働者たちのストライキを支持しないわけにはいかない」と書く。

 「ドイツ社会はストライキに寛容だ」と斎藤は書くが、ドイツ社会だけではなく、ヨーロッパはほとんどそうだろう。日本のように、ストライキを毛嫌いすることこそおかしい。

 だいたい、関西生コン労働組合のように、労働者として、労働組合として、日本国憲法や労働組合法に準拠して組合活動を行うと、政治権力(検察、警察)が大挙して襲いかかるのが、この日本という国の特徴だ。

 わたしが学生の頃、国鉄や私鉄など、ストライキがしばしば行われていた。ところが、国鉄の分割民営化、連合の創設により、労働組合の力は奪われた。今では、ストライキが行われることはほとんどなくなっている。

 在職中、わたしも何度かストライキを行ったが、その度に処分をくらい、そのため同期より給料が下げられ、それは退職金にまで反映されている。損をしても、すべきことをすることが、権利を守ることになる。

 さて斎藤のこの文の最後の方に、「政府に消費税減税や103万円の壁撤廃を求めて、必要な社会保障までも削ってしまう羽目になる前に、もっと金をよこせと会社に強気に出る労働者をみんなで応援する社会の方が、明るい未来を開くだろう。」とある。

 残念ながら、日本の組合は、ほとんどが「御用組合」で、組合は会社側と協調し、組合幹部が社内で昇進していく。それは多くの公務員職場でも同様だ。労働者諸君は、「出た杭は打たれる」ということばにあるように、目立たないように仕事に励んでいる。

 斎藤の文の末尾は、「万国の労働者よ、団結せよ!」である。労働者は、経営者と団結するのではなく、あくまで労働者同士が手を組まなければならない。それが万国の労働者の鉄則である。