図書館でふと借りた本である。内田の本は、とにかくどんどん読ませる。ふむふむ・・・、なるほど・・・・と読んでいくのだが、しかし読み終えてしばらく経つとどんなことが書かれていたのかほとんど記憶にないのだ。
今日『昭和のエートス』を読み終えて、そうか内田は教養主義的な啓蒙的な文を書いているのだと思い当たった。読む際に大脳を駆使しなければならないような本もあるのだろうが、それは知らない。
内田の言うことは、ほとんど正しい。納得しながら読むことが出来る。だがその先がない。この本に「人の知的な深みは、その人が抱え込んだ葛藤の深さと相関する」(26)とあった。つまり内田の本を読んでいても、葛藤が生じないのである。
おそらく私が内田とほぼ同時代を生きてきたこと、問題意識に於いてそんなに変わらないからだと思う。
しかし時になるほど!という指摘に出会うことがある。同じようなことは考えているのだが、その考えてることを的確に表現しているのだ。安倍晋三という人物が「戦後レジームからの脱却」を訴えていた。それについて「「戦後レジームからの脱却」というのは言い換えれば敗戦を「断絶」として受け容れることを拒否するということである」(30)と内田は書く。その通りだと思う。しかしこういう簡潔な表現はしてこなかった。
長いのでここでは引用しないが、84~5頁に記された神についての議論、なるほどそういうように考えるのかと、ここではじめて印象的な葛藤を得た。でもレヴィナスの論理なら、神はやはりいなくてもよい、ということになる。
最近の若者の労働の仕方についての議論も参考になる。「バイト労働に慣れた若者には「ジョブ・デスクリプション」に規定された以外の労働をする理由がわからない」(121)そうか、若者がやるアルバイトの仕事の内容は、「誰でもできるマニュアル化された労働」で、その「互換性の高さ」により評価され、「余人をもって」自由に変えられるところにある(120)。与えられた仕事だけをやり、それ以上、それ以下の仕事をしない。そういうディシプリンを受けた人びとが労働現場に入ってくると、「与えられた仕事」しかしない、のである。
教育や学校について書かれていることも、ほぼ同意出来る。
私は、高等学校に選択科目が存在するが、そんなものはなくせばよいと思ってきた。芸術科目はそれぞれ内容が明確であるから選択でよいが、私が受けてきた教育のように、とにかくすべてを学ぶということが最善であるということだ。物理も化学も生物も地学も学ぶ、日本史、世界史、倫社、政経、地理・・・とにかくすべてを学ぶのだ。そしてそれを学ぶ意味は問う必要はない。教養として、森羅万象を理解する前提として、知っておいた方がよいものはすべて学ぶのである。
学校教育に「消費者」という概念が入り込んできてから、学校はおかしくなってきた。市場原理とは、まったくなじまないのである。
しかし、日本政府は、アメリカ的な思考を執拗に導入してくる。まさに「属国」としての面目躍如である。
この本、教養を得るための導入として読んでも良いのではないかと思った。
今日『昭和のエートス』を読み終えて、そうか内田は教養主義的な啓蒙的な文を書いているのだと思い当たった。読む際に大脳を駆使しなければならないような本もあるのだろうが、それは知らない。
内田の言うことは、ほとんど正しい。納得しながら読むことが出来る。だがその先がない。この本に「人の知的な深みは、その人が抱え込んだ葛藤の深さと相関する」(26)とあった。つまり内田の本を読んでいても、葛藤が生じないのである。
おそらく私が内田とほぼ同時代を生きてきたこと、問題意識に於いてそんなに変わらないからだと思う。
しかし時になるほど!という指摘に出会うことがある。同じようなことは考えているのだが、その考えてることを的確に表現しているのだ。安倍晋三という人物が「戦後レジームからの脱却」を訴えていた。それについて「「戦後レジームからの脱却」というのは言い換えれば敗戦を「断絶」として受け容れることを拒否するということである」(30)と内田は書く。その通りだと思う。しかしこういう簡潔な表現はしてこなかった。
長いのでここでは引用しないが、84~5頁に記された神についての議論、なるほどそういうように考えるのかと、ここではじめて印象的な葛藤を得た。でもレヴィナスの論理なら、神はやはりいなくてもよい、ということになる。
最近の若者の労働の仕方についての議論も参考になる。「バイト労働に慣れた若者には「ジョブ・デスクリプション」に規定された以外の労働をする理由がわからない」(121)そうか、若者がやるアルバイトの仕事の内容は、「誰でもできるマニュアル化された労働」で、その「互換性の高さ」により評価され、「余人をもって」自由に変えられるところにある(120)。与えられた仕事だけをやり、それ以上、それ以下の仕事をしない。そういうディシプリンを受けた人びとが労働現場に入ってくると、「与えられた仕事」しかしない、のである。
教育や学校について書かれていることも、ほぼ同意出来る。
私は、高等学校に選択科目が存在するが、そんなものはなくせばよいと思ってきた。芸術科目はそれぞれ内容が明確であるから選択でよいが、私が受けてきた教育のように、とにかくすべてを学ぶということが最善であるということだ。物理も化学も生物も地学も学ぶ、日本史、世界史、倫社、政経、地理・・・とにかくすべてを学ぶのだ。そしてそれを学ぶ意味は問う必要はない。教養として、森羅万象を理解する前提として、知っておいた方がよいものはすべて学ぶのである。
学校教育に「消費者」という概念が入り込んできてから、学校はおかしくなってきた。市場原理とは、まったくなじまないのである。
しかし、日本政府は、アメリカ的な思考を執拗に導入してくる。まさに「属国」としての面目躍如である。
この本、教養を得るための導入として読んでも良いのではないかと思った。