土木技師 青山士(あおやまあきら)
「人生、いかに生きていくべきか?」
I wish to leave this world better than I was born.
私はこの世を私が生まれてきた時よりも、より良くして残したい。
「人生、いかに生きていくべきか?」
この人生のテーマを若き青山士の教えたのは、「代表的日本」の著者でクリスチャンの内村鑑三、東京帝国大学工学部土木工学科主任教授の廣井勇、さらにパナマ運河建設の際のコロンビア大学土木工学科教授・アメリカ政府パナマ運河委員会技術顧問のウイリアム・Hバアである。
青山士は、人格形成期にこの3人の師に出会い、自らの人生の軸を定めたのである。
青山士は、1878年(明治11年)9月23日生まれである。
1903年(明治36年)7月:東京帝国大学土木工学科卒業
1903年(明治36年)8月:パナマ運河開削工事参加のため、単身横浜港を出発
1904年(明治37年)6月:パナマ運河工事に着任
1911年(明治44年)11月:帰国の途へ
この間、7年半に渡り、熱帯雨林の中でパナマ運河建設に土木技師として、従事する。
1915年(大正4年)10月:荒川改修事務所岩淵水門工事に従事する
1924年(大正13年)10月:荒川放水路通水始まる
旧荒川は、江戸時代から明治末までの300年余りの間に130回の洪水があり、その度に江戸市中は泥海と化していた。その洪水を治めるために、荒川放水路を建設したのである。つまり今の荒川は、人工河川である。
1927年(昭和2年)12月:新潟土木出張所長に赴任
全長367㎞。日本一の長さと水量を誇る信濃川、江戸時代から「暴れ川」として毎年のように氾濫と洪水を繰り返していた。この暴れ川は、住民の生命と財産を強引に奪っていた。
江戸時代からこの洪水を防ぐために、何度も分水路計画があったが、途中でとん挫。明治政府も何度も工事を試みるが、自然の力には勝てなかった。
そこで、最終的に大河津分水を完成させたのが青山士である。
大河津分水の完成により、新潟の生活は激変する。
戦前まで、劣悪な品種であった新潟米が全国に誇る高品質米を大量に生産するようになった。
大河津分水の完成で、水害は大幅に減少し、新潟平野は日本を代表する穀物地帯に蘇ったのである。
(技師:青山士:著:高崎哲郎:鹿島出版より)
以上が、青山士が人生をかけた造り上げた土木作品である。
1963年3月21日:84歳:老衰で亡くなる。
改めて振返りたい。
人生、いかに生きていくべきか?
I wish to leave this world better than I was born.
私はこの世を私が生まれてきた時よりも、より良くして残したい。
まさに、この人生の命題を貫いたのが、青山士の一生である。
青山士は9月23日(秋分の日)に生まれ、3月21日(春分の日)に亡くなっている。
お彼岸の中日に生まれ、お彼岸の中日に亡くなっている。
一昨年(2013年)亡くなった比叡山千日回峰行を2回満行した酒井大阿闍梨の命日も9月23日である。
お彼岸に亡くなり人は徳が高い人と言われている。
私には、偶然の一致とは思えない。