hakuunの未来ノート

将来のため、人生やビジネスに関して、考えたこと、感じたことを綴ります。

土木技師 青山士の心の柱

2015-03-31 | 土木

土木技師 青山士の心の柱

 

青山士は、内村鑑三の影響を受けている。

多感な青年時代に、内村鑑三から直に師事を受けている。

その内容は、『後世への最大の遺物:内村鑑三著』としてまとめられている。

 

・人生は限られているが、何を後世に残せばいいのか?

「わが愛する友よ、我々が死ぬときは、我々が生れた時より世の中を少しなりとも良くして往こうではないか」

 

・後世に残せるものとして、まずお金をあげている。

「お金を残すことは卑しいとと考える人もいるが、そのような人はやはり金に卑しい。財産を残しその大半を慈善事業に寄付しているアメリカ人の富豪を例に挙げている。お金を貯めて清きことに用いることは、アメリカを盛大にした要因である」

 

・お金を残せないものは、どうするか。事業を残して逝くべきである。

「どういう事業が一番誰にでも分るかというと、土木的事業である。一つの土木事業を残すことは、我々にとって快楽であるし、また永遠の喜びと富を後世に残すことになる」

 

・事業を残せないものはどうするか。思想を残せ、という。

「著述するか、学生を指導する教師の道を選ぶか」

「先生になるということは、学問を青年に伝えることができることである」

 

・金も残せず、事業もできず、文学者・教師にもなれない者はどうするか。

「後世への最大の遺物は、勇ましい高尚な生涯である」

 

以上:技師青山士:高橋哲郎著:鹿島出版

 

 

物心がつき、多感な青春時代に、このような言葉に触れたらどうであろうか?

10代の青年は、どのように考えるだろうか?

時は、明治時代である。

明治維新から20数年経過している。

当時の若き獅子たちは何を考え、何を求めていただろうか?

考えただけでも、ゾクゾクする。

 

10代の若者たちは、今も昔も悩んで成長する。

今は便利になり何でもある。

今の若者は、スマホや携帯等で何時間も時間を費やしている。

人生の大切な時、ゲームをやっているのである。

人生について考える時間があるのだろうか?

「いざ、社会へ」といったとき、心を支えるものがあるのだろうか?

 

明治時代は、「ゲーム」は無いが、考える時間、一緒に悩む仲間はいる。

その時、内村鑑三著の『後世への最大の遺物』を読んだ者は、感銘し涙を流したのではないだろうか?

さらに、内村鑑三から直接師事を受けたならば、どのような心の変化があっただろうか?

その一人の青年が、青山士である。

 

青山士は、もう一人の人生の師である廣井勇の影響を受け、海外で土木事業を経験するようになる。

その結果が、パナマ運河建設に参加したただ一人の日本人土木技師ということになる。

 


土木技師 青山士

2015-03-30 | 土木

土木技師 青山士(あおやまあきら)

 

「人生、いかに生きていくべきか?」

 

I wish to leave this world better than I was born.

私はこの世を私が生まれてきた時よりも、より良くして残したい。

 

「人生、いかに生きていくべきか?」

この人生のテーマを若き青山士の教えたのは、「代表的日本」の著者でクリスチャンの内村鑑三、東京帝国大学工学部土木工学科主任教授の廣井勇、さらにパナマ運河建設の際のコロンビア大学土木工学科教授・アメリカ政府パナマ運河委員会技術顧問のウイリアム・Hバアである。

青山士は、人格形成期にこの3人の師に出会い、自らの人生の軸を定めたのである。

青山士は、1878年(明治11年)9月23日生まれである。

1903年(明治36年)7月:東京帝国大学土木工学科卒業

1903年(明治36年)8月:パナマ運河開削工事参加のため、単身横浜港を出発

1904年(明治37年)6月:パナマ運河工事に着任

1911年(明治44年)11月:帰国の途へ

この間、7年半に渡り、熱帯雨林の中でパナマ運河建設に土木技師として、従事する。

1915年(大正4年)10月:荒川改修事務所岩淵水門工事に従事する

1924年(大正13年)10月:荒川放水路通水始まる

旧荒川は、江戸時代から明治末までの300年余りの間に130回の洪水があり、その度に江戸市中は泥海と化していた。その洪水を治めるために、荒川放水路を建設したのである。つまり今の荒川は、人工河川である。

1927年(昭和2年)12月:新潟土木出張所長に赴任

全長367㎞。日本一の長さと水量を誇る信濃川、江戸時代から「暴れ川」として毎年のように氾濫と洪水を繰り返していた。この暴れ川は、住民の生命と財産を強引に奪っていた。

江戸時代からこの洪水を防ぐために、何度も分水路計画があったが、途中でとん挫。明治政府も何度も工事を試みるが、自然の力には勝てなかった。

そこで、最終的に大河津分水を完成させたのが青山士である。

大河津分水の完成により、新潟の生活は激変する。

戦前まで、劣悪な品種であった新潟米が全国に誇る高品質米を大量に生産するようになった。

大河津分水の完成で、水害は大幅に減少し、新潟平野は日本を代表する穀物地帯に蘇ったのである。

(技師:青山士:著:高崎哲郎:鹿島出版より)

以上が、青山士が人生をかけた造り上げた土木作品である。

 

1963年3月21日:84歳:老衰で亡くなる。

 

改めて振返りたい。

 

人生、いかに生きていくべきか?

I wish to leave this world better than I was born.

私はこの世を私が生まれてきた時よりも、より良くして残したい。

 

まさに、この人生の命題を貫いたのが、青山士の一生である。

青山士は9月23日(秋分の日)に生まれ、3月21日(春分の日)に亡くなっている。

お彼岸の中日に生まれ、お彼岸の中日に亡くなっている。

一昨年(2013年)亡くなった比叡山千日回峰行を2回満行した酒井大阿闍梨の命日も9月23日である。

お彼岸に亡くなり人は徳が高い人と言われている。

私には、偶然の一致とは思えない。


日経新聞から学ぶ

2015-03-12 | スキルアップ 文章力

日本経済新聞:春秋を読んで

 

新聞のコラムを手書きで写す作業を毎日行っている。

大学ノートを半分に折り、左側半分に600字余りの文章を書き写す。

右半分には、自分の考えや感想を書く。

新聞のコラムに対する反論(?)はハードルが高い。

しかし、手書きで書き写すことで言葉や言い回しを覚えることができる。

さらにコジツケでも反論して自分の考え方を書くことは脳の活性化にもつながる。

では、今日の手書きの文章を書き写すことにする。

 

下記が本日(3月15日)の記事である。 

▼沖縄には「チュラカサ」という言葉があるそうだ。漢字だと「美瘡」、つまり疱瘡(ほうそう)(天然痘)をあえて美称で呼ぶのである。人を苦しめる天然痘と対決するのでなく上手に敬遠し、身をかわし、退散してもらう――。民俗学者の赤坂憲雄さんが「震災考」に書いている。

▼かつて岡本太郎が紹介したこの思想は、防災や減災にも通じるはずだと赤坂さんは言う。東日本大震災の巨大津波は、過去の教訓を生かした万里の長城のような堤防をも越えた。だからといってもっと高く長い防潮堤を、と抗(あらが)い続けるべきなのか……。そんな自問を重ねて、災害との向き合い方を考えてきた私たちである。

▼きのう午後2時46分、職場で学校で家庭で、みんなが心のなかで手を合わせたに違いない。あれから4年。1万5891人が亡くなり、いまも行方不明者は2584人にのぼる。暴威をかえりみつつ、しかし1秒後にはまた大地が揺れだしてもおかしくはないこの列島の宿命を思う。そして、ここで生きるすべを思うのだ。

▼チュラカサの思想は反文明ではなく、いかに抗っても抗いきれぬものをやり過ごす知恵なのだろう。必ずやってくる大地震や大津波の災禍をうまく避けること、そこからうまく逃げること。わずかな差で落命した多くの人たちが、その大切さを教えてくれていよう。5年目に入った震災後の社会は、なお学ばねばならない。

 

以下が、私の拙い意見である。

「命」を守るためには、「チュラカサ」の思想は大切である。上手に敬遠し、身をかわし、命を守る。素晴らしい考え方である。一方で、大地震や津波に対しては「チュラカサ」の思想だけで対応ができるのであろうか。確かに「命」を守るためには、上手に津波から身をかわし、逃げることである。そのためには避難路を造り、日々の教育が重要である。

もう一つの課題は、その後の生活である。命は助かったが、大地震や津波で家が無くなり、電気・水道・下水道・道路・橋梁・鉄道・港湾などのライフラインは使える状態ではない。そのために仮設住宅に住み、地元を離れる若者も多い。あれから4年が過ぎたが復旧・復興はまだまだである。

人間、命は一番大切である。次に大切なものが日常生活である。命の次に大切な日常生活を守るために、高く長い防潮堤を造っているのではないだろうか。この防潮堤について賛否両論あり、「景観が悪い」という人もいる。確かに景観も大切である。

ライフラインを守り、人々の日常生活を維持する方法は他にあるのだろうか。多くの関係者が議論を重ねた結果、他の方歩を見いだせなかったのではないか。防潮堤はベストの選択肢ではないかもしれない。だが今考えられるベターな選択肢として選んだ結果だと思う。