“理想”を持つということは?
あなたは、“理想”を持っているだろうか?
小学生や中学生が、「医者になりたい」「サッカー選手になりたい」
そのまま、医者やサッカー選手になる人もいれば、そうでない人もいる。
その現実度は、想いの強さに比例するかもしれない。
どのような困難があっても、自分の想いを実現する人もいれば、
ちょっとした障害で挫折する人もいる。
これが、現実社会であろう。
一旦社会人にでもなれば、毎日の仕事に追われ、夢や理想どころではない。
結婚をして子供ができれば、生活の中心は、家族である。
自分のことを考える時間や金銭的余裕もなくなってくる。
さらに現実の生活に追われて、年齢を重ねていくのが、一般的ではないだろうか?
60歳になれば停年。今は65歳となったが、その中心は現実の生活である。
では、
“理想”とは何だろうか?
“夢”とは何だろうか?
社会人は、“理想”を持ってはいけないのだろうか?
社会に出たならば、“夢”を持ってはいけないのだろうか?
以前書いたが、趣味の世界に没頭することは、
”理想“を追いかけているのではないだろうか?
私の趣味は、ゴルフであった。
ゴルフのスキルアップは、“理想の追求“であると思う。
子供の時、砂遊びに夢中になっていたのは、
「こうしたい、ああしたい」という夢を追いかけていたのではないだろうか?
このようなことは、どこにもあろう。
仕事の上でも、「あの部長のような専門性を高めたい」
「取引先の社長のように、マネジメント力を高めたい」
と思い、資格にチャレンジするビジネスマンもいるだろう。
誰でも24時間は一緒である。
酒を飲む時間を削り、さらに朝1時間早く起きて勉強する。
このような人は、理想像に向かって、着実に前進している。
人間としての理想は何であろうか?
どのような人生を歩むのが理想像なのであろうか?
自分の近くに、尊敬する人物がいて、その人のような人生を歩みたい、
と思うのが理想像の追求ではないだろうか?
もし、近くに尊敬する人物がいない場合、歴史上の人物でもOKである。
ノーベル賞を取った人物や偉人伝に出てくるような人物。
その人を理想像とすることもできるのでは、ないだろうか?
本当に心から、そのような人物に出会えた場合、
人はどのような行動にでるだろうか?
はじめに思うのは、現実と理想像のギャップである。
そのギャップを知ったとたんに、「ギャフン」となる人もいるだろう。
一方で、そのギャップを一歩一歩、歩んでいく人もいるのではないだろうか?
高校時代の先輩に、「北里博士のような医者になる」と言った人がいる。
あまり勉強はできなかったが、その決意表明してからは、猛勉強である。
現役で、国立の医学部に合格した。
やはり、目標が具体的に決まれば、人間努力する。
その努力も、苦しみではなく、楽しみである。
なぜならば、努力することにより、自分の理想像に近づいているからである。
であるならば、小学校や中学校の時に、自分の理想像を見つけることができれば、
その後の人生は大きく変わってくるのではないだろうか?
「大工さんなりたい」「ケーキ屋さんになりたい」
良いことである。
ただ、「大工さんになって、どうしたいのか?」と具体的に言えるかである。
例えば、「○○大工さんのように、快適な住環境を提供して、お客様の笑顔を見たい」
このような理想像を持ったならば、
小学生の時から、勉強の取組み方や社会に対する目の向け方が、
大きく変わってくるだろう。
その結果、その子の人生は、素晴らしいものとなるだろう。
最近の若い人達は、自分のキャリア形成に悩んでいるようである。
原因の一つは、“理想像”が見出せないことである。
“理想像”を見つけるのは、学校だけではない。
むしろ、社会生活の中にあるのではないだろうか?
また、良書をたくさん読むことで、そのヒントを得ることができるのではないだろうか?