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hakuunの未来ノート

将来のため、人生やビジネスに関して、考えたこと、感じたことを綴ります。

人生の卒業論文

2014-01-27 | 人生観

昨日に続いて、酒井禅師の言葉を引用する。

 

酒井禅師は、「死」に対して、分かりやすい言葉で説いている。

「この世に命を授かりもうして」からその一部を抜粋する。

 

「死」はなぜ怖いのか?

死ぬことに対して、目的をこしらえていないから、怖いような気がするんだよ、

と酒井禅師は言っている。

「死んだら極楽に行ける」と思っていれば楽に死ねる。

ただ、自分は確実に極楽に行けるほど善い行いをしているとは言えない、

地獄に堕ちないかどうか不安である。

その場合、閻魔さんのところで審判を受けるわけだ。

その際、閻魔さんに提出するのが「人生の卒業論文」である。

 

人生とは、閻魔さんのところに持っていくその「卒業論文」を書くこと、

と考えたらいい。

そう考えると、人生の目的がはっきりする。

どう生きたらいいのか、

死ぬ時までに自分の人生をどのようなものにしたいか、

見えてくる。

閻魔さんがそれを見て選別する。

 

非常にユニークな考え方であるが、分かりやすいし、納得のいく表現である。

「死」という人生最大のテーマをこれほど優しく説いていることに驚かされる。

 

であるならば、閻魔さんに評価してもらえるように、

毎日、毎日、コツコツと論文を書くことである。

毎日、目的を持って「一日一生」のつもりで過ごすことである。

 

ここで、ある点とある点が結びついた。

それは、「死」という点と「PDCA」という点である。

「死」という点は、酒井禅師の「人生の卒業論文」である。

一方、「PDCA」という点は、人のために役立つという大きな目的のために、

毎日の目標を定めて「PDCA」(計画・実行・評価・改善)を回すことである。

この「PDCA」は私の得意分野である。

 

今まで、PDCAは論理的にかつ効率的に業務を行う手段と考えていた。

この「PDCA」が「人生の卒業論文」を書く手段であることに気づいたことは、

私にとって大きな成果であった。

 

毎日、毎日、目標を定めてPDCAを回すことが人生の目的であり、

その集大成が「人生の卒業論文」ということになる。

 

将来、閻魔さんがそれをどう評価するか楽しみである。

 

このように考えると、人生の終末に向け、

「人生の卒業論文」を書くことは、楽しみとなる。


死生観

2014-01-26 | 人生観

酒井雄哉師の本を読んでいる。

酒井禅師は、千日回峰行を2回満行した行者であり、大阿闍梨と呼ばれる人である。

酒井禅師は、昨年の9月23日に亡くなられた。

9月23日はお彼岸の中日である。

お彼岸に亡くなられた人は、徳の高い方と言われている。

特に、お中日に亡くなられた方は、人間として素晴らしい方だと言われている。

まさに、酒井禅師は、この言葉を示している。

 

「この世に命を授かりもうして」

この本は、師が亡くなる直前にインタビューした記事であり、

死の直前に、淡々と「死生観」を述べている。

 

一番のテーマは、「死」である。

人間、誰しも生まれた時に、いつかは必ず「死ぬ」ことが決まっている。

この事実をどのように受け止めるかで、その人の人生観がわかる。

酒井禅師は、この「死」について、特別な感情を表すこともなく、

静かに、時にはたとえ話を入れわかりやすいように、他人事のように語っている。

 

 

「無始無終」という言葉を通じて「生と死」について述べている。

 

一人の人が生まれて死んで、また生まれて、死んで、ぐるぐる命をつないできている。

生命というものは、その輪廻の繰り返しである。

「無始無終」とは、「始め無くして、終わり無し」始まりも終わりもなくて限りなく続いていることであり、命とはそのようなものである。

 

輪廻の考え方である。

私も小さい時からこの考え方に触れてきているので、概ね素直に受け止めることができる。

一方で、「命は、肉体が滅びて終わり、一代限りである」と主張する人もいるだろう。

どのように考えるかは、その人の自由である。

ただ、「輪廻の考え方」も「一代限り」も、共に科学的に肯定もできなければ、否定もできない。

であるならば、輪廻の考え方を肯定し、酒井禅師の言葉に従っても良いと思う。

 

死ぬときは死ぬのだし、生きるときは生きる。

 

このように、「スパッ」と割り切ることができるのはすごい。

「死の直前」にあたふたしているのは、家族であり、周りの人たちである。

悲しい思いをするのは、周りの人々である。

 

一方で、死を迎えた本人は、どのような気持ちでいるのだろうか?

これは、わからない。

その立場に立ったことがないので、私にはわからない。

 

分かっていることは、人間いつかは死ぬのである。

その時になって、あたふたとしても始まらない。

ただ、早いか遅いかの違いである。

 

酒井禅師は言う。

いま生きていること自体、「ありがたい」と思って生きること。

今ここにいることに感謝の気持ちを持って、「一日一生」と思って過ごすことである。

 

確かに人間いつ終末を向かえるかわからない。

その直前になって、「ああしていれば、よかった。こうすればよかった」

と考えても遅い。

であるならば、日々の生活を大切にすることである。

同じように日々を過ごしているかも知れないが、同じ日はない。

今日という日は、二度と来ないのである。

酒井禅師の言われるように「一日一生」を実践することである。

 

そうすれば、「いざ」というとき、後悔しないですむ。

 

このように、人生を達観したように、ブログで書くのはだれにでもできる。

しかし、実践することは難しい。

 

だが、人生、課題を持って一歩一歩前進することが大切である。

 

 

「一日一生」 

 

この言葉を、大切にしたい。

 


人間の尊厳

2013-12-08 | 人生観

人間の尊厳

 

昨日「人間の尊厳」について議論した。

一般的な考え方では、「人間の尊厳」といえば哲学のテーマだろう。

私も人間の一人として、このテーマについて向き合うことができて良かったと思う。

 

最近読んだ文章に、認知症の患者は、短期記憶はなくなっているが感情は残っている。

介護する人は、認知症の患者に対して、思いやりを持って接する必要がある、と書いてあった。

 

父が晩年入院した際、隣にいた老人を見た。

その老人は、誰がみても終焉が近いのがわかった。

肉体的には、自分の意思で体を動かすことはできない。

会話もできないだろう。

 

でも、人間には心がある。

病院のベットに横たわったその老人は、何を考えているのだろうか?

 

今でもその光景は鮮明に焼き付いている。

 

 

父が入院したときに、父は何を考えていたのだろうか?

肉体の活動が停止する際、人間は何を考えているのだろうか?

 

肉体の停止と共に、心も停止するのだろうか?

 

私は、霊魂がいると信じている。

「霊魂がいることを証明してみろ」という人もいるだろう。

では、その人に問いたい。

「霊魂がいないことを証明できますか?」

 

であるならば、肉体が滅びても、心は霊魂となって存在する、

と考えることも可能である。

また、私はそのように信じている。

 

人間がどのように変化しても、心は常にある。

 

ならば、愛と思いやりを持って接することが大切である。

 

それが「人間の尊厳」である。


キャリア・デザインとゴルフ

2013-11-27 | 人生観

私は、キャリア・コンサルタントとして「キャリア・デザイン」のアドバイスを行うケースが多々ある。

キャリア・デザインとは、一言でいえば仕事中心の人生設計である。

多くのビジネスマンは、一日の大半を仕事に費やしている。

平日に、趣味や余暇を楽しむことができるビジネスマンは少ないと思う。

それだけ、ビジネスマンにおける人生は、仕事中心である。

であるならば、その世界でどのように活きるか、考えることが重要である。

 

そのための最初のステップが自己理解である。

自分の性格や価値観を見つめることである。

昨日40代の人々を対象に、自己理解について問いかけたが、難しいようである。

というのは、多くの人々は、自分を見つめることをあまりしていないようだ。

会社から与えられた仕事を真面目にこなしている。

さらに、「将来、何がしたいの?」と問いかけても「・・・・」である。

「こうしたい」「ああしたい」など、聞こえてこない。

 

この人たちの将来を考えると、一抹の不安がある。

所属する企業の業績が良ければ、定年まで働くことができるかも知れない。

しかし、業績が芳しくなくなったら、どうなるであろうか?

大きな波のうねりに飲み込まれてしまう。

運よく浮上する人もいるかも知れないが、そのままの人もいるだろう。

事前に何も考えていなければ、小さな波でも、流されることは、多分にありえる。

 

一方で、事前に人生についてよく考えて戦略をたてていれば、仮に大きな波に飲み込まれても、浮上する可能性は高くなる。

 

これが、「キャリア・デザイン」である。

 

ゴルフと同じである。

 

シングルプレーヤーは、コースのレイアウトや風向きなどを考慮し、

ピンポジションから逆算して、どのクラブで打つか決める。

シングルプレーヤーは技術と戦略がしっかりしているから、大きなケガはしない。

 

一方、経験の浅い人は、ボールを飛ばすことばかり考えて、コースマネジメントができない。

調子よくパーを取れることもあるかもしれないが、大たたきする可能性が高い。

良いスコアで回れないのは、技術もさることながら、戦略性に欠けることが致命的である。

 

シングルプレーヤーは、技術を高めると同時に戦略がしっかりしている。

一方、キャリア・デザインがしっかりしている人は、

自分の夢を叶えるためのスキルや資格を取得しており人生設計がしっかりしている。

 

このように考えると、人生もゴルフも同じと考えることができると思う。

 

 

あなたは、自分の人生設計をどのように考えていますか?

 


我以外皆師

2013-10-11 | 人生観

この言葉は、吉川英治氏の作品「宮本武蔵」に出てくる言葉である。

今回のブログは、この言葉から始まるのではない。

いろいろと考えていた結果、この言葉に到達したと言っても良い。

 

●人に対する接し方

 

事の発端は、他人に対してどのように接するか、ということを考えていた。

人の良いところを見るか、それとも人の欠点を見るか、ということである。

よく人の良いところを見て、褒めなさい。

そうすれば人間関係が良くなる、と言われている。

 

なぜそうなのだろうか?

人間誰でも長所もあれば欠点もある。

もし、上から目線であれば、人の欠点が目につく。

上司であれば、若い部下の欠点や未熟な点も見えてくる。

普通に考えれば、経験豊富な人と未熟な人を比べれば、自ずとその差が見えてくる。

差が見えれば、愚痴となり、ひどい時には粗探しに発展する。

 

出来た人は、未熟な人に対しても、優しさがあり、フォローする。

多少のミスをしても、「スピード感があってよい」など良い面を強調してくれる。

その結果、若い人でもやる気を持って次の仕事に当たることができる。

  

●同じ人間はいない

 

人間、この世で同じ人間はいない。地球上70億人以上いるが、

自分と同じ姿、同じ価値観、同じ考え方をしている人は誰一人としていない。

自分以外の人は、自分と違う姿であり、違う価値観であり、違う考え方である。

このことは、親子・兄弟・姉妹においても言えることである。

元々他人であった夫婦はなおさらである。

会社の同僚、上司、部下、等々、みな違う。

この「みな違う」ということをどのように捉えるかである。

 

違うのは当たり前、それがどうしたの?

という人もいるだろう。

違うから諍いがあるのだよ、

同じだったら、気持ち悪い、

などなど、意見もあろう。

 

●違いを認めるとは

 

大切なことは、価値観が違う、考え方が異なる、ということをまずは認めることである。

当たり前のことであるが、本当に違いを認める意味を理解しているかどうか、疑問である。

恥ずかしい話だが、私自身表面的な意味での違いは理解していたが、本当の意味でその違いを理解していたとは言い難いのである。

 

●成長のヒント

違いを認めるとは、自分に無い才能を認める、と言えばいいだろうか。

大人と子供を比べたらどうだろうか?

大人には、子供に比べたくさんの知識や技術を有している。

しかし、子供の純粋さや素直さは、大人にはあるだろうか?

「昔のオレも、あの子のように純粋だったな」と思う大人もいるだろう。

この場合、子供の純粋さを認めることができるかである。

子供の考え方を尊敬できる人は、子供から学び成長することができるだろう。

 

●謙虚に学ぼう

同様に、親・兄弟・姉妹をはじめ、上司、部下、友人、さらに街を歩いている人々、TVや新聞に出ている人々、等々、みな価値観や考え方が異なる。

であるならば、これらの人々から学ぶことができるだろう。

謙虚になることで、上から目線が改まり、尊敬する目線に変わる。

今まで見えなかったモノが見えるようになり、気づくことも多くなる。

その結果、成長することができる。

同じ人生歩むならば、どのような目線で歩むかで、その成長は異なる。

 

「我以外皆師」という意味を理解した次第である。