白龍のオウム・アーレフで過ごした日々

オウム・アーレフと新団体「ひかりの輪」について考える。

功徳

2006-11-30 00:51:30 | Weblog
 ここまで、教団の実態を知ってしまうと、ふと考えることがある。私は、功徳を積んだのであろうか?悪業を積んだのであろうか?信徒の皆さんは、どちらだと思っているのだろう。

 人並みに財施は行った。法施は、けっこうしたと思う。導きもそんなに多くは無いが、10人くらいは導いた。そこそこ安心施も行ってきた。この中で、現在、功徳になっただろうと思えるのは、安心施だけである。以前は、この三つの布施をしたことで、満足していたが、教団の実態を知るうちに、本当に私の布施が、功徳になっていたのだろうかという疑問が湧いてきた。

 殺人事件の機材や施設に、どれだけ我々の布施が使われたのであろうか?幹部達のお遊びにどれだけ使われたのであろうか?中には、ふらっと海外にいってしまうような方もいたようだが、自分の稼いだお金で行ったのだろうか?

 挙句、お布施して教団を支えている信徒を、道場から追い出す出家者まで出てくる始末。このような、人々に布施をして本当に功徳になっていたのであろうか?甚だ疑問である。

 そもそも功徳などと言う目にも見えないものを、釈迦牟尼が説いたのだろうか?達磨大師は、梁の武帝が、多くの寺院を建立し、多くの僧侶を供養し、多くの写経をした私にはどのような功徳がありますかと質問した時に、「無功徳」と言って切り捨てた。梁の王である武帝は、さぞや落胆したことだろう。

 功徳と言う言葉は、本当に釈迦牟尼が言った言葉なのだろうか?曖昧な言葉を極力避けて使わなかった釈迦牟尼が、何ゆえ功徳などと言う目に見えない、量りようもない言葉を使ったのだろうか?仏典に精通していないので分からないが、ネットで調べてみても、どうも資料が少なくて分からないのである。もしかして、後の堕落した弟子達が、寺院に寄付をさせるために功徳理論なる物を、作り出したのではあるまいか?どなたか、仏教理論に詳しい方がおられたら、解説をお願いしたい。

 しかし、どちらにしても、達磨大師の「無功徳」の言葉にあるように、功徳の還りを求めて、功徳を積むような行為をなしても、それは「無功徳」な訳である。すなわちそこには、功徳など無いのである。教団では、真理の団体に布施をすることは、一般社会の団体に布施する何百倍、何千倍の功徳になりますよと煽って布施を募った。天に至るため、解脱するため、現世で成功するため、車のガソリンが必要じゃないかと煽って布施を集めた。

 教団の指示に従って、何かを得たいがために、功徳を積みたいと行為する我々の姿を見たならば、達磨大師は大笑いをして「無功徳」と切り捨てたのではなかろうか?

 しかし、仏教とは本来そういうものであろう。曖昧な物を、極力排除し、目の前の現象をしっかり観察、分析し一つ一つ対処していく、そんな作業の積み重ねをしていく教えなのに、目に見えない功徳を積むために何事かをするというのは、仏教の本質からはずれているのではないだろうか?

 もちろん、カルマ理論から、善行を為すのは意味があると思うが、そこに功徳理論を付け加えると、おかしくなってしまうような気がする。

 だいたい、真理の教団で、功徳を積みまくった方々が、何故貧困に喘がなくてはならないのか?来世に持ち越しだという、話もあるが、そんなものはまったくあてにならない理屈である。死に際してこれこれの状態が現れたら、来世も同様にその世界に転生するという説法があったと思うが、本来瞬間瞬間がバルドーなわけだから、その延長線上に未来があるわけである。

 教団を見ていると、どんどんどんどん貧乏になっているのである。おそらく、慣性の法則からいくと、さらなる貧困が待っていると思われる。彼らは、真理の実践者として、大いなる功徳を積んでいたはずである。それなのに貧乏である。望んでそうなっているなら仕方がないが、望んでいないのにそうなっているのである。おまけに、どんどん精神が不安定になってきている。これは、彼らの布施、行為が功徳になっていないことの証ではないだろうか?

 確かに、教団の機関紙には、功徳が還って、営業で素晴らしい成績を上げ続けることが出来て、給料もアップしましたとか、必要に思っていたものが、自然に手に入りましたなどという話が、しょっちゅう載せられていたが、その人達のその後はどうなのであろうか?いつも、同じ状態が続いているのだろうか?

 マーフィーの法則ではないが、潜在意識に強くインプットすると、現象は自分の思う方向に動くことがあることは事実である。まして、私は、大いなる布施功徳を積んだから、このように現象が動くはずだと思えば、そのように、現象が動いてしまうのではないだろうか?

 このように、功徳という言葉はかなり曖昧であり、それを宗教団体は利用しやすいという利点がある。その営業トークにうまく載せられてしまったのかもしれない。出来れば、そうではないと思いたいのだが、実際の教団の有様を見ていると、とても功徳に満ち溢れた団体のようには見えなくなってしまっているのが残念である。