白龍のオウム・アーレフで過ごした日々

オウム・アーレフと新団体「ひかりの輪」について考える。

功徳

2006-11-30 00:51:30 | Weblog
 ここまで、教団の実態を知ってしまうと、ふと考えることがある。私は、功徳を積んだのであろうか?悪業を積んだのであろうか?信徒の皆さんは、どちらだと思っているのだろう。

 人並みに財施は行った。法施は、けっこうしたと思う。導きもそんなに多くは無いが、10人くらいは導いた。そこそこ安心施も行ってきた。この中で、現在、功徳になっただろうと思えるのは、安心施だけである。以前は、この三つの布施をしたことで、満足していたが、教団の実態を知るうちに、本当に私の布施が、功徳になっていたのだろうかという疑問が湧いてきた。

 殺人事件の機材や施設に、どれだけ我々の布施が使われたのであろうか?幹部達のお遊びにどれだけ使われたのであろうか?中には、ふらっと海外にいってしまうような方もいたようだが、自分の稼いだお金で行ったのだろうか?

 挙句、お布施して教団を支えている信徒を、道場から追い出す出家者まで出てくる始末。このような、人々に布施をして本当に功徳になっていたのであろうか?甚だ疑問である。

 そもそも功徳などと言う目にも見えないものを、釈迦牟尼が説いたのだろうか?達磨大師は、梁の武帝が、多くの寺院を建立し、多くの僧侶を供養し、多くの写経をした私にはどのような功徳がありますかと質問した時に、「無功徳」と言って切り捨てた。梁の王である武帝は、さぞや落胆したことだろう。

 功徳と言う言葉は、本当に釈迦牟尼が言った言葉なのだろうか?曖昧な言葉を極力避けて使わなかった釈迦牟尼が、何ゆえ功徳などと言う目に見えない、量りようもない言葉を使ったのだろうか?仏典に精通していないので分からないが、ネットで調べてみても、どうも資料が少なくて分からないのである。もしかして、後の堕落した弟子達が、寺院に寄付をさせるために功徳理論なる物を、作り出したのではあるまいか?どなたか、仏教理論に詳しい方がおられたら、解説をお願いしたい。

 しかし、どちらにしても、達磨大師の「無功徳」の言葉にあるように、功徳の還りを求めて、功徳を積むような行為をなしても、それは「無功徳」な訳である。すなわちそこには、功徳など無いのである。教団では、真理の団体に布施をすることは、一般社会の団体に布施する何百倍、何千倍の功徳になりますよと煽って布施を募った。天に至るため、解脱するため、現世で成功するため、車のガソリンが必要じゃないかと煽って布施を集めた。

 教団の指示に従って、何かを得たいがために、功徳を積みたいと行為する我々の姿を見たならば、達磨大師は大笑いをして「無功徳」と切り捨てたのではなかろうか?

 しかし、仏教とは本来そういうものであろう。曖昧な物を、極力排除し、目の前の現象をしっかり観察、分析し一つ一つ対処していく、そんな作業の積み重ねをしていく教えなのに、目に見えない功徳を積むために何事かをするというのは、仏教の本質からはずれているのではないだろうか?

 もちろん、カルマ理論から、善行を為すのは意味があると思うが、そこに功徳理論を付け加えると、おかしくなってしまうような気がする。

 だいたい、真理の教団で、功徳を積みまくった方々が、何故貧困に喘がなくてはならないのか?来世に持ち越しだという、話もあるが、そんなものはまったくあてにならない理屈である。死に際してこれこれの状態が現れたら、来世も同様にその世界に転生するという説法があったと思うが、本来瞬間瞬間がバルドーなわけだから、その延長線上に未来があるわけである。

 教団を見ていると、どんどんどんどん貧乏になっているのである。おそらく、慣性の法則からいくと、さらなる貧困が待っていると思われる。彼らは、真理の実践者として、大いなる功徳を積んでいたはずである。それなのに貧乏である。望んでそうなっているなら仕方がないが、望んでいないのにそうなっているのである。おまけに、どんどん精神が不安定になってきている。これは、彼らの布施、行為が功徳になっていないことの証ではないだろうか?

 確かに、教団の機関紙には、功徳が還って、営業で素晴らしい成績を上げ続けることが出来て、給料もアップしましたとか、必要に思っていたものが、自然に手に入りましたなどという話が、しょっちゅう載せられていたが、その人達のその後はどうなのであろうか?いつも、同じ状態が続いているのだろうか?

 マーフィーの法則ではないが、潜在意識に強くインプットすると、現象は自分の思う方向に動くことがあることは事実である。まして、私は、大いなる布施功徳を積んだから、このように現象が動くはずだと思えば、そのように、現象が動いてしまうのではないだろうか?

 このように、功徳という言葉はかなり曖昧であり、それを宗教団体は利用しやすいという利点がある。その営業トークにうまく載せられてしまったのかもしれない。出来れば、そうではないと思いたいのだが、実際の教団の有様を見ていると、とても功徳に満ち溢れた団体のようには見えなくなってしまっているのが残念である。

ブログの意義

2006-11-29 00:32:47 | Weblog
 昨日のブログには、多くの方からのご意見をいただきました。ご意見をお寄せいただいた皆様、本当にありがとうございました。おかげさまで、私の中でも、自分の考えが、少しづつまとまりかけてきております。現在の教団のあり方に、不安を感じている方、迷っている方が、私のブログや皆さんのコメントの中から、なにがしかの明日への指針を見出していただけたら、大変嬉しいことであります。
・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 しかし、この教団は、本当にどこでどう間違ってしまったのだろうか。みんな、全ての衆生の救済のため、利他の実践のために集ったはずだったのに、いつのまにか、自らの自己保身だけしか考えられない者達の集うところとなってしまった。

 そして、片や聖者の顔を見せ、片やグロテスクな行為を為す者が横行する、そんな二面性を持つ教団になってしまっている。もちろん、聖者の顔しか見ていない者は、グロテスクな面があるなどということは、信じられないし、信じたくもないだろうが、事実はその二つの面が存在するということだ。

 そして、多くの信徒にはその本当のグロテスクさは見えてこない。教団内の女性で、精神的に病む者が多くなっている背景には、このような面が大きく関わっているのではないだろうかと、勘繰りたくなってしまうほどだ。

 サマナの方で、今は何も発言出来ないで、自分を殺している人もいるのではないだろうか?心の開放の無い信仰は、やはり妄信でしかない。こう言っても、全くそのような場面に出くわさず、そのような目に合わされたことのない者にとっては、理解不能な言い草に聞こえるのだと思う。私が、かつてそうであったから。

 しかしながら、一方では、とんでもない目に遭わされた人達が厳然として存在しているのである。その事実が、現在、一つ一つ明らかになりつつある。私は、これらの事実を知ることによって、教団の人達が、諸々の事件を起こす要素があったのだという結論に到達しようとしている。いままでは、あれほど優秀でおとなしい、素晴らしい方達が、事件を起こすはずが無いと心底信じていた。しかし・・・、教祖を始め、諸々の正大師、正悟師、師の実態を知ることにより、教団の人間が事件を犯しても、おかしくない資質を持っていたのだという残念な結論が導き出されてきた。

 私は、現在、ここにも出せないような、教団内部のひどい行為を知るに至った。シヴァの喜びさんも、おそらく相手を思いやって、口を閉ざしている内容が、いくつかあるのではないかと推察される。そのような、内容を知るに連れて、このブログの重要性を改めて確認させられた。出来るだけ、多くの信徒・サマナの方に見ていただきたいと思う。ステージの高い方々が、何をやっているのかを、知っていただくことが最も大事だと思う。そうすることで、自分がどう考え、どう行動するのか、それは各自の心に従えば良いことである。

 全ての教団関係者が、迷妄の闇を破り、シヴァへ到達出来ますように。   合掌

落しどころ

2006-11-28 01:30:02 | Weblog
 教団における成就の認定の仕方、教祖の側室の問題など、いろいろと今までの教祖や教団のイメージが崩れ去るような内容が、次々と出てきている。これが、全て事実だとすると、私が信仰の対象としていたものは何であったのだろうかという想いが生じてくる。

 単なるいかさま詐欺師によって作り上げられた、架空の妄想を信じ込まされていたのだろうか?それとも、これら全てを含め、シヴァ神の大いなるマハームドラーなのであろうか?教祖をとんでもないいかさま野郎と切り捨てることが出来れば、ある意味楽かもしれない、そうでなければ、妄想の中に住み、何も考えず教祖を信じ続けるというのも、両極端で楽なのかもしれない。

 これだけ事実が明らかになっても、私の中に、あの糞親父!と教祖を切り捨てられない自分がいる。なぜ?と思われるかもしれないが、こればかりはどうしようもない。外部の方からは信じられないかもしれないが、嘘でもなんでもなく、教祖を崇拝の対象にしている自分がいるのである。これは、長く教祖に帰依をしてきた信徒やサマナには、共感していただけるのではないかと思うが、そんなに簡単に信仰の対象にしてきたものを翻すことは出来ないのである。

 心を整理するには、もちろん、時間も必要だし、思索も必要である。今現在、無理にあの糞親父と言ってみたところで、心が不安定になるか、空虚になってしまうような気がする。18年間、家族や親族に迷惑をかけ、友人・知人と縁を切り、安定した職を離れ、それでも続けてきた信仰である。それは教団の掲げる、衆生の救済と言う大きな目標に賛同したためであった。その全てが無駄であったのだろうか?

 当然そんなことはなかったのである。では、どこが有益で、どこが不利益だったのかをしっかり検証していく必要がある。

 この問題は、今教団に残っている人達一人一人が、自分なりの納得のさせかた、自分なりの心の落しどころを見つけ出さなくてはならない問題なのである。他人が、どうこう口の出せる問題ではない。

 今、教団の内部でも、大きく心の揺れている人がいるかもしれない。ブログを作っている私も、心の整理がついたから書いているのではない。心の整理をつけるために書いているのである。

 事実に対して恐れ、目をつぶるのではなく、今見えている事実をきちんと分析し、どのような行動をとればよいのかをしっかり考えなくては、今後の自分を確立していくことは出来ない。

 教団に残っている方の中には、非常に精神的に不安定になっている方もいるようである。精神病院に入院させられた方もいるというし、薬を常用している方も一人や二人ではないと聞いている。

 これから、サマナは住居となっている施設が経済的に維持できるかどうか、かなり苦しい状況になってくるだろう。当然、引越しも余儀なくさせるかもしれないし、今より多くの人が、外で働かなくてはならないような状況が出てくるかもしれない。いよいよ施設が維持できなくなれば、実家に戻らなくてはならない人も出てくるかもしれないのだ。

 来年には、上祐氏による新教団の旗揚げも予定されている。今年から、来年にかけて教団内では、大きな変動が予想されるが、個々人においても、精神的に大きな変化が起きることが予想される。その際に、自らの心をしっかり保てるための下地を、今から作っておく必要がある。教団に流される時代は、まもなく終わりを告げるのである。

 先ほど、自分なりの落しどころという話をしたが、これを書きながら、いろいろ思索していくうちに、次のような見解にたどり着いた。もちろん現時点での「私なりの」落しどころであるということをお断りしておく。

 宗教的な観点から見た場合に、総てのものは無常の法則のもとにある。よって、教団といえども、グルといえども無常の法則から逃れることは出来ない。生じたものは滅するのである。しかし、無智である私たちは、グルだけは特別、真理の団体だけは特別であると、未来永劫変わらないかのような錯覚をしてしまった。それを知ったシヴァ神は、弟子の無智な識別を崩壊させるため、教団を破壊へ導こうとし、みっともない、えげつないグルとなって弟子の前にその姿を晒しているのである。

 釈迦の入滅の時、同行していたのはアーナンダであった。釈迦は、チュンダの供養を受けた後、猛烈な下痢に襲われ、死を迎えることになる。その時、アーナンダは、家の戸の横木に寄りかかって泣いていた。それを知った釈迦は、このように言った。

 「やめよ、アーナンダよ。悲しむな。嘆くな。アーナンダよ。わたしは、あらかじめこのように説いたではないか、--すべての愛するもの・好むものからも別れ、離れ、異なるに至るということを。およそ生じ、存在し、つくられ、破壊さるべきものであるのに、それが破壊しないように、ということが、どうしてありえようか。」

 アーナンダがこのように釈迦に執着し、その臨終に際して涙を流すようなステージでの者あったから、世尊ですら、無常の法則から逃れられないのだということを教えるために、自ら下痢で苦しみ、死ぬ姿をアーナンダに晒したのではなかろうか。それが、アーナンダに対する慈悲の実践だったのだろう。釈迦の入滅の時のアーナンダとのやりとりを読んでそんな感想を持った。

 したがって、グルや教団にしがみつけばつくほど、強烈なシヴァ神のカルマ落しが起こるのではないだろうか?シヴァ神は元々が破壊を司る神である。我々がしがみつく、執着の対象を破壊するのである。それが例え愛するグルや教団であったとしても同様である。それが、シヴァの本質なのである。

 しかしながら、シヴァの破壊の後には、ブラフマンの創造があるのである。絶望の後には希望がある。その流れの中に、上祐氏の教団分裂があり、私の暴露ブログやシヴァの喜びさんのブログが存在するのかもしれない。最近、シヴァの喜びさんがやろうとしている、現や元の人達を対象にした、ヨガ教室の歩みなども、この流れに組み込まれたものなのかもしれない。

 教団は今後、崩壊していくかもしれないが、逆に、新しい道が生じてくる可能性もある。それは何か?修行者が自らの足で歩くという道である。今まで、おんぶにだっこで、教祖から与えられるものを、ただただ吟味もせずに真似をしていただけの幼子が、自らの足で歩き出すのである。

 私が思うに、現在ある教義に、間違いが含まれている可能性もあるのではないかと考えている。子供を賢く育てたいと思う親なら、あえて問題に間違いを入れておくはずである。そして、子供にいろいろな文献を調べさせたり体験をさせたりして、その間違いを自分の力で見つけ出させるようにしむけるはずである。

 甘えさせることがシヴァの愛ではない。本当の意味で、無常を悟らせ、修行者としての自立を促すことがシヴァの愛なのではないだろうか。

側室の子供達

2006-11-27 00:36:11 | Weblog
 信徒にとって、どうしても理解不可能な問題が二つある。一つは、四無量心を説いていた教団が、サリン事件のような殺人事件を起こしたこと。もう一つは、教祖が、知子夫人以外に、子供を作ったことである。

 オウム真理教教祖となってからも、教祖には、知子夫人との間に、3人のお子さんが出来た。正直四女が出来たと聞いた時も、私は非常に違和感があった。全ての、欲求が消えうせてしまった状態の方が、何故子供を作るのだろうと、そのような行為を何故するのだろうと、不思議でならなかった。

 そのことについて、師に聞いてみた。その時言われたのが、元々尊師は在家なので、妻帯してお子さんがいてもおかしくはないのだということがまずあると。そして、これから世紀末に向け、大いなる救済をしていくためには、今の成就者だけでは足らず、高い世界の魂を降ろさなくてはならない。そのために、お子さんを作ったのだろうということであった。

 精妙な歓喜を知る高い成就者にとって、精を漏らすというのは、大変な苦を伴うものであり、決して快楽を求めるための行為ではないのだ。衆生の救済のために、そのような行為をなすのだと言っていた。挙句には、尊師レベルになると、身体に触れず、そのような行為無しに、魂を体内に宿す事が出来るのだと、聖母マリアの処女受胎のようなことまで言っていた。

 その辺りから、子供達の生まれた時の様子が、機関紙などで、紹介されるようになっていった。生まれた時は、光に包まれていたとかなんとか・・・。男の子達にいたっては、生まれた時から最終解脱しているとか、パンチェンラマの生まれ変わりだとか言われていた。生まれた時から、普通の子供とは違い、救済のために生まれてきた子供達ということを、印象付けたかったのかもしれない。

 それでも、知子夫人との間に出来た子供なら、まだ納得が出来るが、その他の女性との間に出来た子供がいたということに関しては、なかなか理解しがたいものがある。

 教団では在家に対して五戒、出家者に対して十の戒律を説いている。その中に不邪淫の戒というのがある。在家においては、人の妻や夫と不倫してはいけないというものであるが、出家者においては、心においても、異性に対し欲望を抱いてはいけないという厳しい戒である。そのような、戒に触れ、降格させられた師が結構いたようである。

 このように、不邪淫の戒を説いていた教祖が、自ら邪淫をするというのは、どのような理由によるのであろうか?これも、救済のためであったのだろうか?

 とするならば、もっと正々堂々と、生まれてきた全ての子供たちを紹介すべきではなかったのか?私も、ずい分後になって、いろいろな方が教祖の子供を産んでいるということを知ったのだが、その筆頭が、ケイマ正大師だということを知って非常に驚いた。

 そう言われてみれば、一時期、説法会などで拝見した時に、急に太った感じがしたので、なんか修行者らしからぬ体型になってしまわれたなあと思っていたのだが、その時はすでにお腹が大きかったということだ。その後、修行に入ったといって、しばらく姿を見せなかったので、その間に出産されたものと思われる。確か、双子のお子さんが生まれたということを聞いた。その他の女性は、正悟師になっている方だと思うが、名前を聞いたが忘れてしまった。何と言う方だったろうか?知っている方がいたら教えていただきたい。お子さんも全部で6人いるような話を聞いた。知子夫人との間に出来た子供6人と合わせると、全部で12人の子沢山である。

 サマナの一部の方は知っていたのだろうが、信徒は、そんなことを全く知らされていなかった。しかし、事件後は、そのような事実が、どんどん明るみに出てくるようになった。それでも、地方の信徒には何も知らされることはなかったのである。質問すれば、答えてくれたかもしれないが、何も言わない人には、そのまま何も知らせず放置しておいた。つい数ヶ月前、仙台の古い信徒さんに、教祖の子供が10人以上いるという話をしたら、「え~!」と言ってびっくりしていた。このことから、おそらく、未だに、その事実を知らずにいる信徒さんが結構いるのではないかと思う。

 これらの事実について、教団側の見解を聞いてみたいと思う。なんと回答していただけるのだろうか?やはり、救済のためと答えるのであろうか?それならば、大切な救済者として、大々的に信徒に紹介すべきである。尊師とケイマ正大師、誰々正悟師との間に出来た、お子さんで、今後の救済の柱になるお方ですというような紹介があってしかるべきである。

 しかし、そのような紹介は全く無かった。無いばかりか、いかにもタブーという感じで、声を潜めながら隠し続けたのである。

 当然上祐氏も知っていたはずである。この点について、質問したらなんと答えていただけるのであろうか?そういえば、上祐氏も、恋人を尊師に差し出すのは、すでになんとも思っていないというようなことを言っていたように記憶している。A派の正悟師や師の方にも聞いてみたい、どのような理由付けをして、自分を納得させたのだろうか?

 しかし、ずいぶん前、仙台の支部長さんだったタントラミッター師が、真顔で「尊師のお子さんを産みたい。」と言っていたことを思い出した。もしかすると、救済のため、自らの身体を差し出すのは、大変光栄なことという認識があったのかもしれない。

 以前に、女性のカルマの悪さは、尊師のお子さんを産むくらいのことをしないと、救済されないという話を聞いたことがある。しかし、そうだとすると、教団にいるほとんどの女性は救済されないことになってしまう。教団内では、相当にむちゃな論理が平然とまかり通っていたのだろうと思われる。

 教団内部では、それらの子供に関して、サマナ向けに何か説明とかあったのだろうか?元サマナさんのコメントを読むと、サマナも内緒にされていたように感じられる。一部の者達だけが知る真実だったのだろう。

 知子夫人の子供達は、教団からお金をもらって生活できていたようだが、それ以外の子供達は、援助を受けることが出来たのだろうか?正妻の子と側室の子では、教団の扱いも違うのだろうか?救済の柱となる魂を粗末に扱ったとするならば、救済のための子作りという理由もかなり眉唾になってくる。

 現役の信徒やサマナの皆さんは、この問題を、現在、どのように自分の中で消化しているのか、聞いてみたい気がする。元の人達は、この話を聞いた時に、どう感じたのだろうか?その辺もお聞きしてみたい。

セクハラ成就?

2006-11-26 00:12:33 | Weblog
 シヴァの喜びさんのブログで、コメント欄に、教祖のセクハラ行為についての書き込みがあったので、転載させていただいた。


ある日、瞑想とエネルギー移入にかこつけて周りでみんなが瞑想をしているのに関わらず麻原は彼女の性器に指を入れようとしていました。
その事実を見たことがあります。

その瞑想中に、
「・・・イヤです・・・イヤです・・・」
何かか細い声が聞こえてその異様さについ目を開けて何が起きているかを確かめました。
そこには麻原がその女性に傍らに座って何かしています(俺はその女性のすぐ近くに座って瞑想していました)
「・・・イヤです・・・イヤです・・・」
繰り返される声。
いくらなんでも何が起こってるのかは理解できました(まあ、当時はあなたみたいに無理やりな理由を考えて自分を誤魔化していましたがね)
麻原の手は彼女の股間に伸びていて明らかに衣服の中に手を入れていました。
彼女は必死にその手を拒否しているようでした。
どのくらいの時間が経ったでしょうか。麻原は急にその女性に興味を失ったかのようにその場から立ち去っていきました。

しばらくして瞑想が終わり、歓談がはじまりました。
そして、一人一人に「お前は大乗の道を歩いているな」とか「大乗になれよ」「菩薩として生きなさい」
とか声をかける中その女性にだけ「お前は小乗だよ」と言いました。するとその女性は「私も大乗になりたいです」と答えると「いや。お前は小乗だ」と言い放ちました。とても冷たい声だったと覚えています。

帰り道(瞑想を行った場所からは出家者が住んでいた少し離れていた)その瞑想に参加していた男性らが口々に話していました。
「あれは指入れていたな」
「ああ。間違いない。彼女の嫌がり方は尋常では無かったからな。瞑想が終わった後、泣きながらトイレに入っていったし」


 詳細な記述で、嘘を書いているとも思えない。実は、信頼できる方から、私のところに寄せられたメールの中で、この女性が教祖からくどかれていた事実があることを、以前に直接この女性から確認したということを知らされた。したがって、このブログの記述内容は、本当のことであろうという説明を受けた。

 なんとも、驚きである。女性の場合の解脱は、グルへの依存という形で導かれるという話を聞いたことがあるが、これも、そのための一連の流れなのであろうか?身も心もグルに委ねないと、マハームドラーの成就は得られないということか?客観的にみると、セクハラにしか見えないのだが・・・。

 教団では、以前からタントラの道は選択しないようなことを、言っていたように記憶している。瞑想中に女性の股間に手を入れるのは、タントラの道ではないのか?タントラの修行にこのような修行法が存在するのだろうか?そのような修行があれば、やってみたいなどと言い出す、不埒な者が出てくることを危惧して、教祖だけが執り行なったのか?

 師の成就に関しては、そのようなことはなかったのであろうか?いままで、そのようなことを聞いたことがなかったけど、マハームドラー成就にかこつけたものだったのだろうか?今日は、?マークばかりがついてしまう。あまりにも不思議すぎるのだ。

 しかし、マハームドラーを成就した女性の方は、皆一様に、このような儀式を通過して、マハームドラーの成就を得たのだろうか?俄かには信じがたい話である。ウッタマー正悟師もそんなことをされたのだろうか?ラーマクリシュナ・パラマハンサは、奥さんであるサラダマニをカーリー女神とみて、儀式を執り行ったというような話は聞いたことがあるが、それとはまったく異質なもののようであるし、この行為に、どのような意味があるのだろうか?

 このような内容を、古い出家者は知っていたのだろうか?上祐氏も知っていたのに、知らない振りをしていたのだろうか?なんとも、奇奇怪怪である。

 キリストのイニシエーションで成就した人はキリスト成就と呼ばれていたが、これで、マハームドラー成就に認定された場合は、セクハラ成就と呼ばれてしまうのではないだろうか?なんだかなあ~。

第4回ネットボーディーサットヴァの会

2006-11-25 00:53:57 | Weblog
 土曜日なので、第4回ネットボーディーサットヴァの会を始めまーす。
本日のテーマは、「カルマ落とし」についてです。

 教義の主軸として、「カルマ」と言う言葉がある。この「カルマ」とは本来の意味はどのようなものなのであろうか?

業(ごう、karman(sanskrit)、kamma(pali))とは、サンスクリットの動詞の「クリ」(kR)の現在分詞である「カルマット」(karmat)より転じカルマンとなった名詞である。したがって、「なすことそれ自身」という意味であって、古人が「造作」の義と言い伝えてきたとおり、動作の抽象的非人格的なものを言う。そこには、一般に言われている「なすもの」「なされたこと」「つくられたもの」などの意味はない。
                 (ウイキペディアフリー百科事典から抜粋)

 本来の意味は、行為そのもののことを指す言葉のようだ。しかし、ながら、教団内では、「カルマ落とし」なる言葉が、頻繁に使われていた。「カルマ」という言葉を正確に理解していれば、おかしな使い方であることが分かる。

 ある行為があって、過去の自らの「カルマ」が消えたというなら、理解が出来るが、「カルマ落とし」となると、相手のカルマを落とすということになる。カルマを、一つの物質的なものとして捉えているような感じがする。この時点で、釈迦の「行為それ自身」とするカルマ論からは、大きくはずれているようである。

 基本をはずしたら、あとは暴走あるのみ。「カルマ落とし」は暴走につぐ暴走を重ねて、地下鉄サリン事件を初め、数々の殺人や事件を起こす原因になってしまった。この「カルマ落とし」のやっかいなところは、落とされる方はいい迷惑でも、落としてやる方は、慈愛の実践だと思っている点にある。

 したがって、サリンで死んだ人達は、尊師にカルマを落としていただいて良かったとか、これ以上悪業を積む前に、ポアされて良かったのだという発言をするようになってしまう。客観的に見ると、これらの発言は、なんとも冷酷無比、鬼畜の言葉に聞こえるが、「カルマ落とし」の概念が入ると、まったく逆の捉え方になってしまう。普段は借りてきた猫のようにおとなし人達が、「カルマ落とし」という、慈愛の実践の合言葉で、化け猫に変身してしまうのである。「カルマ落とし」とは、なんとも恐ろしい言葉である。

 しかし、ナーローパがテローパから受けた試練。ミラレーパがマルパから受けた試練は、どう考えれば良いのだろうか?あれは、カルマ落としではなかったのだろうか?とすると、テローパもマルパも仏教のカルマの捉え方を間違っていたのだろうか?それとも、互いに高いステージにある者同士においてのみ、かけることが出来る高度なテクニックなのだろうか?どなたか詳しい方がいらしたら、解説をお願いしたい。

 皆さんは、教団内で、どのようなカルマ落としを受けたであろうか?ちなみに私は、マハポで、個室に閉じ込められ、ナルコで記憶を失わせられた。尊師に怒鳴られたというのもあったか・・。皆さんのカルマ落としどんなものがありましたか?

パーフェクト・サーベーション・イニシエーション

2006-11-24 02:19:51 | Weblog
 2チャンネルで、パーフェクト・サーベーション・イニシエーションについての書き込みがあったので、こちらでも取り上げることにする。パーフェクト・サーベーション・イニシエーションは、略してPSIと呼ばれた。1993年12月頃から始まったイニシエーションである。

 この時の触れ込みは凄かった。93年11月27日の亀戸道場での説法で教祖は、PSIについて、このようなことを言っていた。


「・・・そして、わたしは、その皆さんをわずか一週間で、例えば阿羅漢の状態、つまり、今の正悟師レベルの状態までにもっていく技術というものを獲得した。これは「パーフェクト・サーヴェーション」つまり「完全なる解脱のイニシエーション」と呼ぶわけですが、一週間ぐらい前から実際、このための準備に入り、総費用は概略的にだいたい七億円ぐらいかかるんじゃないかと。・・・」

「・・・つまり、一週間ぐらいの間に完全なる解脱を果たさせようと。そしてもし、これが達成できるならば、わたしが一九八〇年代の中間に言っていた、つまり八五年・六年ごろに言っていた三万人の解脱者、三万人の成就者というものは可能となる。・・・」

「・・・今までわたしと契約していた人、つまり信徒として活動していた人もそうであるが、これからわたしの弟子として頑張る人も、最も速い道、つまり最高のヴァジラヤーナの道を皆さんにお見せしたいと思う。しかも完全なる他力本願の道をね。----いや、もともとオウム真理教というのは他力本願の教団だから。・・・」

また、1993年12月25日亀戸での説法では、

「・・・今までの----そうですね、この地球始まって以来かどうかについては非常に難しいけども----少なくともムー大陸、あるいはアトランティス大陸以来の最高のイニシエーションがここに現われた、ということができると思います。したがってこのイニシエーションは、例えば「グルヨーガ・マイトレーヤ」あるいは「小乗のツァンダリー」「グルヨーガ」等いろいろイニシエーションがありますが、このようなものと比較できるものではありません。・・・」 


 PSIはムー大陸以来、アトランティス以来の最高のイニシエーションで、わずか一週間でマハームドラーを成就してしまう。おまけに、何もしないでただ寝ているだけでいいのだ。このPSIの説明を聞いたときに、信じられなくて、「本当に、ただ寝ているだけでいいんですか?」と尋ねたところ、「へたに考えたり、行動したりしないで、静かに横になっていたほうが良いのです。」と言われたので、これはまた、楽なイニシエーションが出てきた物だと、びっくりしてしまった。今まで苦労して受けてきた、セミナーやイニシエーションはいったいなんだったのだろうという感じだった。

 しかし、帰依信徒として、ここまで凄いイニシエーションを受けないわけにはいかない。なんせ、一週間で、ピンク色の服の方々と同じステージに立てるのである。それも、完全他力本願で!寝ているだけで良いのだ。このイニシエーションの後、人に完全に依存することを、仙台の信徒間では大完全他力本願と言って笑っていた。

 それはともかく、こんな、甘い話に乗らないわけにはいかなかった。1000万だと、死ぬまで何度でも富士でPSIを受けまくることが出来るということであったが、さすがに、1000万のコースには手が出なかった。100万の1週間のコースには、なんとか借金しつつ申し込むことが出来た。以前に書いた同郷のSさんは、私よりも、もっとイニシエーション好きだったので、1000万のコースを申し込んだ。当時は、Sさんが、なんとも羨ましかった。死ぬまで、何度でもPSIを受けることが出来るという触れ込みだったのに、1年くらいでうやむやのうちに終了してしまった。事件で断ち切れになったのか、事件前に終ってしまったのかは定かでない。

 私は、100万の1週間コースを受けたのだが、富士(上九だったかな?)の道場に行ったら、パソコンがずらっと並んでいて、その前で、みな頭にPSIを装着して横になっていた。ずい分たくさんの人がいたが、かかった費用の7億は回収出来たのだろうか?

 とにかく効果のあるイニシエーションだから、出来るだけ100%の出力で受けてくださいと師に言われていたので、1週間で解脱するためにも、100%でお願いしますと係りの方にお願いした。そして、いよいよPSIを装着し電流を流してもらった。

 そうしたら、途端に、目の中に火花が散った。頭を強くぶん殴られて火花が散るというが、あんなものは、目が多少ちかちかする程度だが、これは、本当に青白い火花が散るのである。なんと表現したらよいのだろうか?目の中に稲妻が走るのである。

 それでも、解脱のためと思い、耐えてじっと我慢していた。電流の流れは、パソコンで管理されていて、流れる場所が少しずつずれていくのである。話によると、煩悩のつまりのある箇所は、痛いのだそうである。私の場合、どこもかしこも痛かったので、煩悩だらけだったのであろう。でも、あれで、痛くない人がいたのだろうか?アージュニャーのところに来た時は、眉間にドリルで穴が開けられるのではないかというような、痛みを感じた。グリグリグリという感じで、外から内へ強い圧力を感じて、脳がどうにかなってしまうのではないかという恐怖を感じた。痛みも最高潮に達してきて、1時間くらいで、ギブアップして電圧を下げてもらった。電圧を下げてもらって、ようやく横になってくつろぐことが出来るようになった。

 甘露水飲み放題で、お供物も十分もらって、横になっているだけだったから、確かに楽だったけど、かなり飽きてくることも事実だった。時々、ゲルの交換をしながら、他支部の信徒さんと話をして気を紛らわせた。

 そんなこんなで、1週間が過ぎてしまった。果たして、私は成就したのだろうか?残念ながら否であった。まあ、一週間でラージャヨーガ、クンダリニーヨーガと飛び越して、マハームドラーの成就をしようと思うこと事態甘いと判断すべきだったのだが、事前の教団側のプレゼンにまんまと載せられてしまった。

 1000万コースのSさんは、それでも、がんばって、数ヶ月受けっぱなしで入っていた。それでも、成就しないので、一度奥さんのところに戻ってきてしまった。それっきり、後は、富士に行けなくなってしまった。なんともはや・・・。

 PSIの効果のほどは、どうであったのだろうか?私のように鈍感なものは、何がどうなったのか、さっぱり分からないのだが、非常にナーディが通ったと言う人もいた。

 ネットで見つけたのだが、「日蓮宗現代宗教研究所」というところの第11回公開講座では、こんなことを述べている。以下抜粋。


 ヘッドギアは、オウム側の触れ込みによれば、頭に装着した信者の脳波を、教祖麻原の脳波に同調させる機能があるとの由だった。値段は一台、一千万円以上もした。テレビ各局の報道で、ヘッドギアを四六時中、装着した信者の姿をご覧になった方も多いだろう。あれを見た人々の反応は、ほぼ決まっていた。「なんと馬鹿げた話だ!」というのが、共通の反応だった。頭に装着するだけで、他人の脳波と同調するなんて、まるで子供だましもいいところだと、みな思っていた。識者の中にはヘッドギアを俎上にのせた人もあったが、「あんなもの効果があるわけがない」というのが前提で、そんなギミック(まがい物)を後生大事に頭に装着している「幼稚で気の毒な」オウムの信者たちの心理を、宗教社会学的に分析してみせるのがせいぜいだった。正直いえば、かくいう私も、つい最近までヘッドギアが有効だったとは露知らなかった。ところが、ヘッドギアは有効だったのである。
 ある週刊誌、編集部の依頼を受けて、ヘッドギアの性能を電子工学の立場から解析した大学教授(知能情報工学)から、私は以下のような情報を得ている。
 「自分は麻原の脳波を測定したことがないので、ヘッドギアが同調させようとしている当該の周波数の脳波が麻原のものか否か、は判定できない。しかし、ヘッドギアには、電子的に極めて高度なメカニズムがあり、ある一定の周期で周波数を徐々に変調させ、その変調作用をある一定のリズムで繰り返すことにより、装着した人間の脳波を、特定の脳波に収斂していく効果は確かにあった。部品の多くは新たに設計されたもので、台湾製が主。開発者は故村井氏とされているが、全体の設計は世界に類例がないオリジナルなもので、彼ひとりが開発に携わったとは考えにくい。おそらく、大学の研究室をはじめとする外部の協力者が複数いたのではないか・・・。」
 (この情報は、某編集部によってボツにされた。彼らは、あくまでヘッドギアがギミックだったという結論が欲しかったのであり、事前の想定を否定する結論が出たために、報道はされなかった。この経緯には、自分たちの見解に添わない事実は隠蔽していっこうに恥じない日本のマスコミ・ジャーナリズムの、いかんともし難い病弊が、きわめて端的に示されている)


と、このように述べており、効果は有ったと見ている方もいるようである。しかしながら、キリスト成就というのはあったが、PSI成就というのは、ついに聞かなかった。PSIで、3万人の阿羅漢を出そうとした、教祖のもくろみは、無残にも打ち砕かれたのである。同時に、我々信徒の、大完全他力本願成就の夢も、打ち砕かれてしまったのである。そのため、その後、より強力なLSDイニシエーションに移行していったのではなかろうか。

atom氏出家修行者を斬る

2006-11-23 00:15:55 | Weblog
 印仏板のatom氏が出家修行者をばっさり斬っていますので、転載させていただきます。
 解脱しているかどうかを確認するには、その者に、師に対して帰依をしているかどうかを尋ねれば良いというのは、素晴らしい確認方法だと思います。アーレフの成就者に、この問いを発したらどのような答えが返ってくるか、火をみるよりも明らか。(笑)
 また、すでに、現在の出家の環境の中では、激流が作り出せないということも指摘されている。解脱していく過程において、強烈なカルマ落しが必要ということだと思うが、この激流を作り出せる状況にない出家教団では、解脱は有り得ないということなのだと思う。以下にatom氏の投稿を載せておきます。


3186 返信
Re:atomさん、ありがとうございます atom 2006/11/19 16:36

なお、私は現在は釈迦にもイエスにも帰依しない。
しかし、それが、彼らの教えなのである。


きえ【帰依】
神仏や高僧を深く信仰し、その教えに従い、その威徳を仰ぐこと。帰信。「仏法に帰依する」

Kokugo Dai Jiten Dictionary. Shinsou-ban (Revised edition) ゥ Shogakukan 1988/国語大辞典(新装版)ゥ小学館 1988


スッタニパータ1146
(師ブッダが現れていった)、「ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィ・ゴータマが信仰を捨て去ったように、そのように汝もまた信仰を捨て去れ。そなたは死の領域の彼岸にいたるであろう。ピンギヤよ。」

スッタニパータ1082
師(ブッダ)は答えた、
「ナンダよ。わたしは『すべての道の人・バラモンたちが生と老衰とに覆われている』と説くのではない。この世において見解や伝承の学問や戒律や誓いをすっかり捨て、また種々のしかたをもすっかり捨てて、妄執をよく究め明かして、心に汚れのない人々──かれらは実に『煩悩の激流を乗り越えた人々である』と、わたしは説くのである。」


相応部経典9-10-4~5
「修行僧よ。そなたは、修行僧たちとともに住んでいるのに、なぜ真理のことばをとなえないのか?
真理のことばがとなえられるのを聞いたならば、心が清らかな喜びにみち、現世で人々の賞讃を博する。」
〔修行僧いわく、―〕
「昔は、わたしは離欲を達成するまでは真理のことばを学びたいという願望がありました。
いまやわたしは、離欲を達成したからには、見たことでも、聞いたことでも、考えたことでも、すべて知った上では捨て去らねばならぬ、ということを、立派な人々は説かれました。」


実際は、彼らの教えの実践の結果で、思い(アストラルの行為)が消滅し、信仰が持て無い意識変容の者となってしまったのだが。
解脱とは、師からの解脱でもあるのだ。

解脱したと称しながら、その後も師に帰依する事は実質不可能なことだ。
師を敬うことすら不可能になるのだ。
解脱したと称する者は、自らの精神をよく照らしてみろ。

たとえ師に対してでも、帰依できる(対象感覚)があるうちは、解脱じゃない。
そんな状態を解脱と認識した時点で、その精神状態を増上慢と言うのだ。
君達だってよく知っている用語だろう、増上慢、つまり欲界から君達は離れてはいない。
出家までして、そんな地獄の一丁目に行くようなカルマを積んで、これを一般的には愚者と呼ぶしかないのだ。

私のようにどうどうと胸を張って、私は釈迦にもイエスにも帰依していないと言えるか。
私は師に帰依など絶対にしていないと、堂々と胸を張って言えるか。

なお、出家者から学ぶ立場の者も、その出家者が師に帰依しているか否か、この質問を出家者にしてみると良い。
これがその者が解脱しているか、解脱していないのに解脱したと認識している欲界の増上慢の男かの判定法なのだ。
これは、増上慢の者たちから食い物にされてる学ぶ立場の者が、キリシタンの踏み絵同様の、増上慢の者たちを見抜く手段だ。

この判定法を用いると良い。
これが偽善者サタンを敬う者どもの弱点である。

3189 返信
Re:atomさん、ありがとうございます atom 2006/11/20 18:37

出家至上主義は過去のインドの釈迦時代の話だ。
当時はそういう環境が激流に相応しいものだったのだろうと思う。

墓場で死体を枕に寝起きし、確かにとても素晴らしい激流の実践場だったに違いない。

激流の環境を作り出すには、釈迦当時は在家より出家が良かったのだ。

しかし、今の時代は果たして本当にそうなのか?

今の時代では、明らかに激流は在家の環境の中で実践することで作り出しやすい。
であるから、今は在家至上主義と呼んでも良い時代だと私は思う。

少なくとも、私は出家者のなまっちょろい環境の者に、教えなど説くつもりは無い。
そういう環境で果たせるほど、解脱は甘っちょろいものではないと思うからだ。

もともと無理な解脱が、理解者に囲まれた出家ではなお困難になる。
私自身が出家した方がよほど楽だと思いながら、在家環境の中でストレス因子に次々と体当たりし破壊しつくして、身を削り死ぬ思いで激流を突破し激流の彼岸に至ったのだし。

EO氏も虚無の微笑を読むと、押入れの中で瞑想したとかなっている事から、在家で大悟を果たしたものだと思う。
虚無の微笑でEO氏が取り上げているバーナデット・ロバーツも普通の主婦だったと言うではないか。

現代で出家など理解者に囲まれた、グループレッスン、お遊戯でもあるまいし、そんな中で解脱できるものでもないだろう。
それは社会の激流の厳しさの環境から、離れただけじゃないか。

本当に修行したいなら、食うものくらい自分で理解者のいないような家々を回り乞食でもしろ。
甘すぎるんだよ。
自分たちでもそう思うだろう。

実践において誰にも依存できるものもいない、在家環境でただ独り、この環境を激流の実践場にする、これで激流の実践になるのだ。
周囲の人たちから白い目で見られながら、それでも煩悩をふりきってただ独りで実践をする。
これが激流だ。

特に解脱もしていないのに解脱したなどと称し、某増上慢の出家たちを見ても、ひしひしとそれを感じるのだ。

出家環境ではダメだ。

私は激流の実践においては在家至上主義だ。
某団体のように、解脱者が出ないで結果、解脱も果たせない者を解脱者に仕立て上げ増上慢を排出し続ける、死した後は地獄の一丁目、洒落にもならない。


3190 返信
Re:atomさん、ありがとうございます atom 2006/11/20 19:19

某団体の出家者と称するものどもに、資金援助などしている者が居るのなら、やめることだな。

彼らの現状を見る限りは、それが一番の善行で功徳を積む行為だ。

資金が少なくなれば、彼らは苦しくなる、その方が彼らにとってはいい激流の修行の場になるのだ。
楽な修行の場などクソの足しにもならない。
苦しくなれば、自分たちで乞食でも何でもやって、修行していくことだろう。

なお、激流の彼岸に至ったものは、もはや教団にいる必要も無いのだから、その苦しい環境からとっとと出て一人で快適に生きていけばいいだけの話だ。気の向いた者は人に教えなど説いていけばいいだろう。
そして、実際は激流の渦中のものではなく、そのようなものが敬われる人々なのだから。

解脱したものは、同じ場所で複数で、やれ同じ師をあがめよなどと唱える必要もなかろう。

解脱した者は、同じ道を二人で行くなとか言われている通りだよ。

地獄へ向かうおままごと教団か。

3192 返信
Re:atomさん、ありがとうございます atom 2006/11/20 23:32

まず、解脱するためには無所有の実践をしなければならない。

釈迦時代のインドなら、出家が良かったのだろう。

今は日本においては、在家がこの実践の本質的な目的にはとても向いているのだ。
理由は日本の社会が既に昔にインドと違い、人と人との連結が強化され一つの組織となっているからだ。

現代での無所有の実践は、自分が生きているそのものが人の為に生きているのだ、生活全体の中から自分のための生き方を片っ端から無くして行く。修行も全て人のためだ。
自分のための生き方など何も無い、これが無所有の実践になるのだ。

この無所有の実践においては、出家は全くの遠回りだ。
むしろ出家環境は、社会の厳しさの中で実践するのが辛くなった人が、人々から離れて修行実践するこれで自分を捨てる解脱が出来るのかどうか疑問が残るが、出来たとしても遠回りとなる事だろう。

今の某団体も、本当に団体としてのカルマを落とす激流の実践をするつもりなら、旧名称を名乗ったまま世の中からたたかれて耐え忍びながら、実践していけばよかったのだ。

ここで名前を変えたのが理由はどうあれ、現状から逃げの姿勢の表れだと私は思う。


(托鉢時に石や棒を人々からぶつけられ怪我をした、アングリマーラに対しての釈迦の教え)
「耐え忍ぶのだ。そなたは耐え忍ばなければならない。そなたの業の報いとして、幾年、幾百年、幾千年、地獄で受けるべきその業果を、いまこの世で受けているのだ。」(中部経典)


所詮ナマズの子はナマズだな。
まるで茶番だ。
激流の出家修行者としての姿勢がまるで感じられない。
うまくない事が起きれば、背を向けて逃げようとする姿勢が見え見えと言うところだ。
命を捨てても、人々から石を投げられても、修行者に逃げは赦されないのだよ。

最終解脱

2006-11-22 01:20:29 | Weblog
 今回の分裂騒動をきっかけに、私の中で、教団と言うものに対する不信感が芽生えてしまったと同時に、今まで信じてきたものが、本当に正しかったのかどうかという不安が増大した。分裂騒動をきっかけに、ネット上でいろいろな情報を得、いろいろな方達と、情報交換をしていく中で、今まで真理といわれ、信じ続けてきたものが、かなり大きく揺らぎつつあることは確かである。

 そこで、これから新教団を立ち上げるM派に、今までの、オウムのシステムから、教義の隅々に至るまで、全ての見直しをお願いしたいのだが、おそらく頼んでも、自分達の都合の良い所しか見直しをしない可能性があるので、ブログ内で一つ一つ自分で検討を加えていくことにする。ブログを見ている方々からの、突っ込みもあるだろうと期待しつつ始めたいと思う。

 さてそれでは、最も、気になるところから、それは、教祖の最終解脱と言う言葉である。そもそも、最終解脱という言葉が仏教において使われているのであろうか?

 ネットで最終解脱という言葉を検索すると、仏教関係はまず出てこない。オウムに関するサイトだけが出てくる。ということは、この言葉は、仏教界で使われている言葉ではないということなのだろう。オウムのオリジナルと言うことになる。

そもそも解脱に最終という言葉が当てはまるのだろうか?


[解脱とは?]

繋縛を離れて自在を得るという意味である。誤った執着心から起こる業の繋縛を開放し、迷いの世界の苦悩を脱するから「解脱」という。

自分の心や自分の身体は、自分のものでありながら、自分自身で制御することは難しい。これこそ、もっとも根本的な束縛といえるであろう。このような根本的な束縛を解き放した状態、それを「解脱」という。

仏教では、この解脱に慧解脱(えげだつ)倶解脱(くげだつ)を説く。慧解脱とは「智慧」の障りを離れていることで、正しい智慧をえていること。倶解脱とは慧の障りをはなれるだけでなく、「定」の障りをも脱していることである。
また、心解脱と慧解脱を説く。心解脱とは心に貪著を離れること、慧解脱とは無明をはなれていることをいうのである。
あるいは心解脱、身解脱といって、精神的にはすでに解脱していても、肉体的には、どうにもならない束縛をもっている場合、たとえば釈尊の成道後の伝道生活のごときを心解脱といい、完全に肉体的な束縛を離れているのを身解脱といったりする。
(ウィキペディアフリー百科事典から抜粋)


 この文章を見る限り最終解脱という言葉は出てこない。オウム・アーレフでは、ラージャヨーガ、クンダリニーヨーガ、マハームドラー、大乗のヨーガ、アストラルヨーガ、コーザルヨーガ、最終解脱というふうに段階的に解脱が訪れると言われているのだが、これらは、慧解脱、倶解脱などとの分類とは全く異なるもののようである。

 オウムに入る以前は、解脱という言葉しか知らなかったのだが、オウムに入って初めて、解脱にはこんなに段階があるのだということを知った。しかし、今見ると、どうもオウムのオリジナルのようである。仏教にはないが、ヨーガの解脱には段階があるのだろうか?これだと、解脱の到達地点には、それぞれ違いがあることになる。

 シヴァの喜びさんのように、どのヨーガを目指しても、解脱という地点は同じ到達点に至るのだという方もいる。これは、どちらが正しいのであろうか?

 たしかに、このように段階的にステップアップしていく段階があったほうが、目標設定がしやすく、自分の位置を確認しやすいというメリットはあるようだが、果たしてそれが真理かどうかである。それと、プライドの強いものにとっては、このようなヒエラルヒーによって、自己のプライドをより強め、下のステージの者を、見下すという結果を生みやすくなるのではなかろうか?最近の、2チャンネルやブログでの信徒、サマナの師や正悟師に対する露骨な発言に、それが如実に現れているような気がする。

 教祖はあれほど、経典研究をしていたのに、経典にも載っていないような言葉を、なぜ使ったのだろうか?単なる権威付けのためだったのだろうか?最終とつけると、確かに行き着くとこまで行き着いた、偉い聖者というイメージを与えることは確かである。しかし、仏教の継承と言う点からは、はずれてしまうことになりはしないだろうか?

 別な方面から、考えると、すでに既存の仏教経典の中には書いていないような、段階まで到達してしまったので、最終解脱と表したということも考えられなくも無いが、そうすると、仏典の翻訳をした意味や、聖者方に会いに行った意味が分からなくなる。聖者方に会いに行ったのは、自分の独りよがりのステージではなく、経典に書かれているステージかどうか、どの段階にあるのかを確認しに行ったはずである。最初から、経典以上のステージだと自覚していたなら、経典に書かれていないわけだから、わざわざ、翻訳したり、聖者に話を聞く必要も無い。

 ということは、最終解脱と一番最初に言ってしまったので、引っ込みがつかなくなって、その裏づけのため経典を翻訳したり、聖者に会いにいったりしたということなのだろうか?もちろん、聖者方にあって、そのステージの高さは証明されたかと思うが、最終解脱していたかどうかは、また別問題である。聖者方に、最終解脱していたかどうかを聞いた会話とか残っていないのだろうか?あなたは、イエシェの段階だと言われたのは、聞いたことがあるが、それが、イコール最終解脱と言う言葉になるのかどうか、これは検討の余地があると思う。

 私は、この最終解脱という言葉自体は、まぎらわしいので使うべきではなかったのだろうと思う。結局最初にこの言葉を使ってしまったために、かなり後付に苦労をしなくてはならなくなったのではないだろうか?

 検討と言うより、疑問の提示みたいになってしまった。だんだん、難しくなってきたので、皆さんからのコメントに期待することにしたい。そういえば、最近、和井さんをどこでもお見かけしなくなったが、ご覧になっていたら、是非一言コメントをお寄せいただければ幸いです。

フォトンベルト

2006-11-21 01:22:20 | Weblog
 昨夜の日曜洋画劇場で、「デイ・アフター・トゥモロー」という映画をやっていた。地球の温暖化によって、激烈な自然災害が起き、多くの人命が失われるという設定である。確かに現実問題として、ありえない話ではないだけに、そうならない努力をし続けなくてはならないと思う。

 最近知った言葉で、「フォトンベルト」というのがある。そんなものは、もうとっくの昔に知っているという方のほうが多いのだろうが、とりあえず説明しておく。ネットを駆使してまたまた付け焼刃の知識を披露しておきたい。

 「フォトン」とは電子と陽電子が衝突した時に発生する「光子」と呼ばれるエネルギーだそうだ。この時点で、すでにイメージが湧かないが、光の粒子みたいなものを想像すれば良いのだろうか?

 このフォトンは、銀河の中心近くのプレアデス星団の、アルシオーネあたりから放出されているそうな。(と言われて分かる人はいるかな?)そして、銀河が平たいお盆のような物だとしたら、それに対して垂直に存在するエネルギーの帯のようなものかと想像している。

 地球は太陽を中心に365日で太陽の周りを一回りするが、太陽系は、26000年かけて銀河を一回りする。その時、13000年毎に、このフォトンのエネルギー場を通過するらしい。その時に、地球に多大な影響を与えると言われている。前回地球がフォトンベルトを通過した時は、ムー大陸やアトランティス大陸が消滅したらしい。また、エネルギーの高い光子の渦巻く領域を地球が通るため、磁場や重力場にも大変化が起き、人体にもなんらかの影響が出る可能性があるのではないかと推察される。

 2012年12月20日ごろを境に地球もすっぽりフォトンベルトの中を漂うことになる。マヤ暦は、この日で終っているのだそうだ。そして、通り抜けるのには2000年もかかると言われている。

 そこで、地球環境に激烈な変化を及ぼすだけでなく、人体にも影響を与え、人間の思考にも劇的な変化をもたらすのではないかと考えられる。中には、人間が人間以上に進化するアセンション(次元上昇)のきっかけになるのではないかと期待する者もいるらしい。

 果たして、フォトンベルトは存在するのだろうか?SF好き、オカルト好きな人は存在して欲しいと思うかもしれない。少々科学に詳しい人は、そんなのは、戯言だというかもしれない。ウィキペディアフリー百科事典によると、フォトンベルト説はかなり怪しい説のようである。

 ここで、フォトンベルトがあるかないかの、論争を起こすつもりは全く無い。それよりも、このような説を宗教が巧みに利用する可能性を指摘したい。

 オウムでもそうだった。あまりにも有名になった「ノストラダムスの大予言」。世紀末「1999年7の月 空から恐怖の大王がやってくる。」というノストラダムスの大予言を利用して、ハルマゲドンが起きるということで全員が踊らされた。挙句に、自分達で偽ハルマゲドンを起こしてしまった。

 その前は、オースチン・ハレー彗星だったかな?彗星によって地球上の大変革があるだの、大地震があるだので、石垣島に無理やり集合させられた。その時は、どうしても行けなかった私は、姉と一緒に、この世がもう終るかもしれないと、覚悟を決めた覚えがある。そうしたら、石垣島に行って帰ってきただけだったと聞かされ、「なーんだそれは。」とほっとしたと同時にがっかりした。

 当時は、グルが真理に対する信や帰依を試しているのだと考えていたが、出家者を募るために行なったイベントだったような気がする。ハレー彗星が来るから、今のうちに出家しなさい、ハルマゲドンが来るから出家しなさいと言われ、出家した人がずい分いたのではないだろうか?

 今になって思うと、教団が拡大していき、内部のスタッフが不足したので、急遽出家者を増やす必要でもあったのではないだろうかと勘繰ってしまう。当時は、今生で出家のカルマを作ってあげたのだよ、などと言われていたようだ。

 ともあれ、オウムでは、このように世紀末思想を利用してきたわけであるが、少なくともアーレフでは過去のオウム事件を反省し、このような曖昧な説に振り回されること無く、真理を探究していただきたいものである。

 だいたいにおいて、事故でも、病気でも自分が死ぬ時がハルマゲドンである。ハルマゲドンでも、フォトンベルトでも、そんなものは、来るかもしれないし来ないかもしれない。そんなものにおびえているより、一日一日を有意義に生きたほうが良いに決まっている。癌で、あと三ヶ月の命と言われた人のほうが、遥かに恐怖が大きい。確実に死がやってくるからだ。それでも、精一杯生きようとする人達、生きた人達の実例を我々は沢山知っているはずである。

 ハルマゲドンや世界の終焉を期待する心は、誰でもどこかにかすかな願望として持っているのかもしれないが、それは、現実世界の不条理さを自分の力で解決できないので、外的な力を借りて壊してしまいたいという欲望の現われなのだと思う。それを、願う時の心の有り様は、自己中心的である。

 私自身の心を分析してみても、自分は、そのハルマゲドンを超えて生き残り、救済活動を行うという、ヒロイズムに酔いしれていることが分かる。しかし、自分が生き残れるかどうかなど、どこにも保障がないのである。それよりも、自分の身内や、多くの同胞が死ぬ可能性が極めて高いのである。そのような事態が起きることをなぜ願うのであろうか?そこには、慈悲が無いのである。あるのは、歪んだヒロイズムと現実を破壊したいという欲望である。少なくとも、真理を探究するものは慈悲と伴に歩むべきであろう。