白龍のオウム・アーレフで過ごした日々

オウム・アーレフと新団体「ひかりの輪」について考える。

落しどころ

2006-11-28 01:30:02 | Weblog
 教団における成就の認定の仕方、教祖の側室の問題など、いろいろと今までの教祖や教団のイメージが崩れ去るような内容が、次々と出てきている。これが、全て事実だとすると、私が信仰の対象としていたものは何であったのだろうかという想いが生じてくる。

 単なるいかさま詐欺師によって作り上げられた、架空の妄想を信じ込まされていたのだろうか?それとも、これら全てを含め、シヴァ神の大いなるマハームドラーなのであろうか?教祖をとんでもないいかさま野郎と切り捨てることが出来れば、ある意味楽かもしれない、そうでなければ、妄想の中に住み、何も考えず教祖を信じ続けるというのも、両極端で楽なのかもしれない。

 これだけ事実が明らかになっても、私の中に、あの糞親父!と教祖を切り捨てられない自分がいる。なぜ?と思われるかもしれないが、こればかりはどうしようもない。外部の方からは信じられないかもしれないが、嘘でもなんでもなく、教祖を崇拝の対象にしている自分がいるのである。これは、長く教祖に帰依をしてきた信徒やサマナには、共感していただけるのではないかと思うが、そんなに簡単に信仰の対象にしてきたものを翻すことは出来ないのである。

 心を整理するには、もちろん、時間も必要だし、思索も必要である。今現在、無理にあの糞親父と言ってみたところで、心が不安定になるか、空虚になってしまうような気がする。18年間、家族や親族に迷惑をかけ、友人・知人と縁を切り、安定した職を離れ、それでも続けてきた信仰である。それは教団の掲げる、衆生の救済と言う大きな目標に賛同したためであった。その全てが無駄であったのだろうか?

 当然そんなことはなかったのである。では、どこが有益で、どこが不利益だったのかをしっかり検証していく必要がある。

 この問題は、今教団に残っている人達一人一人が、自分なりの納得のさせかた、自分なりの心の落しどころを見つけ出さなくてはならない問題なのである。他人が、どうこう口の出せる問題ではない。

 今、教団の内部でも、大きく心の揺れている人がいるかもしれない。ブログを作っている私も、心の整理がついたから書いているのではない。心の整理をつけるために書いているのである。

 事実に対して恐れ、目をつぶるのではなく、今見えている事実をきちんと分析し、どのような行動をとればよいのかをしっかり考えなくては、今後の自分を確立していくことは出来ない。

 教団に残っている方の中には、非常に精神的に不安定になっている方もいるようである。精神病院に入院させられた方もいるというし、薬を常用している方も一人や二人ではないと聞いている。

 これから、サマナは住居となっている施設が経済的に維持できるかどうか、かなり苦しい状況になってくるだろう。当然、引越しも余儀なくさせるかもしれないし、今より多くの人が、外で働かなくてはならないような状況が出てくるかもしれない。いよいよ施設が維持できなくなれば、実家に戻らなくてはならない人も出てくるかもしれないのだ。

 来年には、上祐氏による新教団の旗揚げも予定されている。今年から、来年にかけて教団内では、大きな変動が予想されるが、個々人においても、精神的に大きな変化が起きることが予想される。その際に、自らの心をしっかり保てるための下地を、今から作っておく必要がある。教団に流される時代は、まもなく終わりを告げるのである。

 先ほど、自分なりの落しどころという話をしたが、これを書きながら、いろいろ思索していくうちに、次のような見解にたどり着いた。もちろん現時点での「私なりの」落しどころであるということをお断りしておく。

 宗教的な観点から見た場合に、総てのものは無常の法則のもとにある。よって、教団といえども、グルといえども無常の法則から逃れることは出来ない。生じたものは滅するのである。しかし、無智である私たちは、グルだけは特別、真理の団体だけは特別であると、未来永劫変わらないかのような錯覚をしてしまった。それを知ったシヴァ神は、弟子の無智な識別を崩壊させるため、教団を破壊へ導こうとし、みっともない、えげつないグルとなって弟子の前にその姿を晒しているのである。

 釈迦の入滅の時、同行していたのはアーナンダであった。釈迦は、チュンダの供養を受けた後、猛烈な下痢に襲われ、死を迎えることになる。その時、アーナンダは、家の戸の横木に寄りかかって泣いていた。それを知った釈迦は、このように言った。

 「やめよ、アーナンダよ。悲しむな。嘆くな。アーナンダよ。わたしは、あらかじめこのように説いたではないか、--すべての愛するもの・好むものからも別れ、離れ、異なるに至るということを。およそ生じ、存在し、つくられ、破壊さるべきものであるのに、それが破壊しないように、ということが、どうしてありえようか。」

 アーナンダがこのように釈迦に執着し、その臨終に際して涙を流すようなステージでの者あったから、世尊ですら、無常の法則から逃れられないのだということを教えるために、自ら下痢で苦しみ、死ぬ姿をアーナンダに晒したのではなかろうか。それが、アーナンダに対する慈悲の実践だったのだろう。釈迦の入滅の時のアーナンダとのやりとりを読んでそんな感想を持った。

 したがって、グルや教団にしがみつけばつくほど、強烈なシヴァ神のカルマ落しが起こるのではないだろうか?シヴァ神は元々が破壊を司る神である。我々がしがみつく、執着の対象を破壊するのである。それが例え愛するグルや教団であったとしても同様である。それが、シヴァの本質なのである。

 しかしながら、シヴァの破壊の後には、ブラフマンの創造があるのである。絶望の後には希望がある。その流れの中に、上祐氏の教団分裂があり、私の暴露ブログやシヴァの喜びさんのブログが存在するのかもしれない。最近、シヴァの喜びさんがやろうとしている、現や元の人達を対象にした、ヨガ教室の歩みなども、この流れに組み込まれたものなのかもしれない。

 教団は今後、崩壊していくかもしれないが、逆に、新しい道が生じてくる可能性もある。それは何か?修行者が自らの足で歩くという道である。今まで、おんぶにだっこで、教祖から与えられるものを、ただただ吟味もせずに真似をしていただけの幼子が、自らの足で歩き出すのである。

 私が思うに、現在ある教義に、間違いが含まれている可能性もあるのではないかと考えている。子供を賢く育てたいと思う親なら、あえて問題に間違いを入れておくはずである。そして、子供にいろいろな文献を調べさせたり体験をさせたりして、その間違いを自分の力で見つけ出させるようにしむけるはずである。

 甘えさせることがシヴァの愛ではない。本当の意味で、無常を悟らせ、修行者としての自立を促すことがシヴァの愛なのではないだろうか。