白龍のオウム・アーレフで過ごした日々

オウム・アーレフと新団体「ひかりの輪」について考える。

「インド哲学と仏教哲学の探求」からatom氏の実践part2

2006-11-12 00:30:23 | Weblog
part1の続きである。

3140 返信
Re:atomさん、ありがとうございます atom 2006/11/06 00:15

解脱など今の時代の多くの者には不要だ。
と言うより実現不可能だろう。
なんら、某サイトではコメントを見る限り思考の解脱もまったくしていない欲界の人を、成就者として取り扱いされ紹介されていたし。

人々は何のために宗教をやっているのだろう。
依存心を満たすためか。
そんなものをやりながら一生を終わるのだろうか。

いっそ宗教などから綺麗さっぱり足を洗って、全く精神世界とか宗教とか無関心になって、地に足つけて現実を精一杯生きてみたら私は良いと思うのだ。

依存心に振り回される人々、そのような者が苦悩から脱する道は無い。
自分の理想にしたがって現実を精一杯生きた人間こそが、次のステップとして人間の内面に向かえるのだろう。
それ以外の者は、依存心で一生を終わるのに違いない。
後で振り返った時、無駄に年を重ねた、後悔の残る人生になるのだろうな。

善を為す、人の為に生きる、人への思いやりその他云々、これらの正体は、結局それ自身を捨てるために、釈迦が縁起と言う技法で説いたものだったのだから。
それらは、思考をただ捨てる方法があったなら、それと全く同質のものだったのだ。

世の人は何のために、解脱法が存在しない宗教をやっているのだろうか。
一生を依存心で生き、それで終えるだけなのに、恐らく最後まで自立出来ない人々か。

3141 返信
Re:atomさん、ありがとうございます atom 2006/11/06 23:13

さて、某おままごと教団と言っては悪いが、出家と在家、激流を突破するのに出家と在家どっちが効果的かという問題だが、実践法を工夫すれば、はるかに在家の方が効果的に激流を作り出し、突破する道が開かれると私は判断する。

ゆっくりのったり行きたい者は出家すればいいだろう(どちらにしても、おままごと教団では無理だがね)。
理由は簡単だ、実践者が出来上がった、そもそもの原因が、その実践者の現状の環境の中にあるからなのだ。
その環境の中で的を得た解脱法を実践するなら、速やかに解脱の激流を作り出すことに繋がる。
自分の現環境こそが、その者のカルマの集大成なのだ、その環境で実践することが一番効果的だ。

出家はそこから背を向けて別の場所へ行ってしまう事を意味するものでもある。

現環境こそ、その者自身だ。
その環境の中で今までと違うパターンを作り出す実践が行われるなら、最もその者に適した効果的に激流を作り出すことに繋がる。
現環境こそ、その者のカルマの集大成の結果なのだから。

私は出家などしていたら、5年も6年も思考の解脱に掛かったことだろう。いや、もっと延々と年月を費やしたかもしれない。
実際に出家した者を知っているが、その者は何ら解脱をものに出来なかったのだ。

私がわずか2年~3年間に効果的に激流を作り出し、かなりの解脱が果たせたのは、現環境に背を向けずそれを逆利用したからに他ならない。

特に人間社会は色々な方向性の者と接触が起る。それを利用すれば効果的に激流が作り出せるのだ。
特に肉親だ。
自分のパターンは主に肉親から来ているのだから、慎重に接し方を考えればかなり効果的に、自分自身をそげ落とすことが出来る。
背を向けて自分が出来た根本原因の現環境から遠ざかったら、遠回りと私は言う。

出家ではこれは無理だろう。

私はよく実践時思ったものだ。出家の方がよほどにか楽だったに違いないと。
楽と言うことは、年月を何倍も費やすことを意味するのだ。


3142 返信
Re:atomさん、ありがとうございます atom 2006/11/07 00:01

解脱と言うものはそもそも、多くの大衆向けのものでは無い。

生きとし生ける者たちの至福のために、命を捨てるくらいの覚悟が無い者は、まず物には出来ないことだろう。

解脱とは生きていることに価値を見出せず、自殺するよりも、その命を使って人々の為に解脱を試してみようかなと言う私のような物好きしかやれないものなのだ。

なお、私は実践時、肉体的苦行により、肉体にまつわる思いとの分離の実践を取り入れた。
自分の肉体を惜しがるようなものに解脱が物に出来るとは、とても私には思えない。
思考の解脱と言えど、そんなに甘いものではないのだ。
そういう者は、初めから解脱など考えないことだ。

夏には夏の苦行(タパス)。
冬には冬の苦行(タパス)。

釈迦は仏典の中で効果的なタパスを勧めている。


増支部経典5-191
「もし、バラモンがタパスを行ない、それによってその人の善い性質が減り、悪い性質が増すようであれば、私はそのようなタパスをしりぞける。しかし、それによって善い性質が増し、悪い性質が減るようであれば、私はそのようなタパスを勧める」


私がどんな苦行(タパス)を取り入れたかは、真似するものが表れても命の保障が出来ないので、伏せておくことにする。
私は冬には苦行(タパス)のおかげで、冬季間中は爪が変形した。
しかし、夏のタパスの方がはるかに生命に危険があったことだろう。

私はよく思ったものだ、神が私を生かそうと思うなら私を生かすことだろうと。
ただし、あのタパスが無かったら、私は反対に発狂していたかもしれない。

3143 返信
Re:atomさん、ありがとうございます atom 2006/11/07 00:15

今は本当に快適だ。

確かにあの時あの数年は地獄の日々が有ったのだが、あまりにも今普通に快適に何の苦悩も無く楽々と当たり前すぎで、私は前に何かしたんだろうかとそんな毎日だ。

私は信仰も宗教も持っていない、しかし、毎朝親の真似して神棚と仏壇に思いのこもらない見せかけの手を合わせ、お盆にはお墓参りに行き、クリスマスにはケーキを食べる。とても快適だ。


3146 返信
Re:「小悟」に至る実践法 atom 2006/11/08 00:40

>もし、独力で「禅定」できるならば、やってみたい気がします。

禅定は八正道の八番目、つまり仏教では一番の決め手を為す部分だ。
禅定のポイントは、無思考を実現する方向で進むんだ。

だが、もっとも効果的な禅定とは、発狂スレスレの危険なものなのだ。

だから、EO氏など賢者は恐らく書籍などでは、明らかにしていないさらに効果的(危険な)技法が密かに一部に伝えられてたりするのでは無いかと思うのは私だけかな。

>(もっともEO流「死人禅」は恐ろしくてできませんが。)
>アドバイスいただければ幸いです。

EO氏も一般に明らかにしているものは、比較的危険の少なそうなものでそこそこには効果があるものでは無いかと私は思うのだ。
まず、それをやってみたらどうだろう。


実は私もこの一番の決め手の部分は、私のオリジナルなもので危険がとても強く、このようなネットの掲示板で公に出来るようなものでも無かったりする。つまり、発狂と背中合わせな部分がある禅定だ。今は薄めてレクレーションのように行っているが、そのままでやれば存在の解脱まで行ってしまうが、あえて今はそこまでするつもりも無くのんびり少しずつ進んでいる。

まずは、ただ黙って座る黙想から始めて見たらどうだ。
それでも30分出来れば、最初は上出来かな。
(私は時間さえあれば5時間でも6時間でも快適に座れるが。)

禅定は日常の実践と相互関係にあるものだ。
禅定で辿り着いた意識状態で、日常も過ごすようにすると良いだろう。
また、日常の実践で禅定がさらに効果的に出来るようになるんだ。


3147 返信
Re:atomさん、ありがとうございます atom 2006/11/08 01:23

>> 出家はそこから背を向けて別の場所へ行ってしまう事を意味するものでもある。

>ただ出家というものを一括りにして、こう断定してしまうのも、ちょっと無理があるよ
>うに思います。
>やはり、様々の個々の人それぞれのカルマによって、異なってくるものでしょう

もし、彼岸を渡る解脱を物にしたいなら、私にはあの出家と称するグループレッスンは全くのお遊びに思えるものだ。
自分の実践の理解者など周りにいたら、それだけ大幅に解脱の妨げとなる。

在家の環境の中で次の要素を取り入れただけで、最大の実践上に変わる。
それはかなりの激流となる。
同じ志を持つものに囲まれた、出家環境ではこれは無理だ。
これは、在家の環境で、自分だけが実践している場合に最大の効果をあげる実践法なのだ。

1.自分の日常遭遇する全ての人に逆らわず、意見せず従順に振舞う。

2.たとえ年下の者に対しても、自分が世の中で一番下の者のように、他の者にたいしては神に接するように敬いながら接する。


激流の作り出せないお遊びの実践で、彼岸へは渡れはしない。

3148 返信
Re:atomさん、ありがとうございます atom 2006/11/08 01:26

なお、彼岸に渡る激流とは思考中毒の禁断症状を超えると言う意味なのである。

彼岸に渡る、それは激流だ。

麻薬を楽しむ人間が麻薬をやめる、それよりきついんじゃないか。
もっと思考して楽しみたい(ただし苦しみと繰り返しの背中合わせだが)、楽しみたいのにそれをやめるのだ。

解脱修行で思考中毒の禁断症状として、どんどん心は灰色になっていく。
思考したい思考して楽しみたい(苦悩と繰り返しで背中合わせだが)、苦しい苦しいよと心は灰色になっていく。
麻薬中毒者が麻薬を絶たれて苦悩するように。

だが、実践者は思いを灰色にしてはならない。
意識して、喜ばなければならない。
顔に微笑を浮かべて。

激流の彼岸に渡る実践中は、思いは意識して喜んでいなければならないのだ。

おれは、とても喜ぶ心境じゃないんだなどというやつは、初めから実践などやめてしまえ。

理由は、それは心が灰色なら、意識してその心(の灰色)との同化を断ち切る実践のためだ。

やがて禁断症状が終われば、快適な毎日が待っているのだ。
なお、繰り返すが彼岸に渡る実践とは決して大衆向けのものではないので、よほどの物好き以外は志さない方が無難だろう。

3155 返信
Re:atomさん、 atom 2006/11/09 23:20

>やはり、さとるためには「禅定」は必要なのですね。

>日常的な実践だけでさとりに至る方法ってあるのかなあ、と漠然と思っていたのです
>が、atomさんの場合も「禅定」はやっておられたと。

基本的には激流の彼岸に渡る(思考の解脱)には、禅定がなくても渡れない事は無いだろう。
参考までに四つの福音書のイエスの教えがそれだ。
しかし、どんな禅定でも取り入れればそれだけ、彼岸の激流を渡りきれる可能性が高くなるのだ。

ただし、彼岸に渡る激流だ、どんな方法でも少しでも効果的なものがあれば取り入れてやろうと言う気構えが無い者は初めから脱落者だな。
釈迦は彼岸の激流を渡る方法は出家者に説いて、在家者には主に生天を説いたんだ。
バカでもちょんでも彼岸の激流が渡れるなら、釈迦も全てにそれを説いたことだろう。
激流の彼岸(思考の解脱)、そんなに甘いものじゃない。

>ところで、「彼岸」に渡る激流って、本当にすごそうですね。
>私にはやはり無理かなあ、と。
>何たって思考中毒ですし、それで「食べて」いるようなものですから。
>しかし、私なりに、日常生活の中で、己の心を浄化するよう「善」をなし、他者に対し
>て敬意を持つ実践を続けていきたいと思っています。

まずそうだな、精一杯理想主義者をやることだ。
精一杯やって意義を感じ、思いっきり楽しんで、やがて八方塞にぶち当たる。
精一杯やった、でも思考の限界だ、もう先に進むことが出来ない、この地点まで思考の生き方の限界に挑戦することだ。
彼岸を渡る実践はそれが第一条件だ。


ダンマパダ183
「諸悪莫作  衆善奉行  自淨其意  是諸仏教」 
「しょあくまくさ  しゅぜんぶぎょう  じじょうごい  ぜしょぶっきょう」   
諸々の悪をなすことなく、衆々の善を奉行し、自らのこころを浄める、これ諸仏の教えなり。


この教えが仏教の全てだ。
この教えの中の「諸々の悪をなすことなく、衆々の善を奉行し」だけを生きる理想とすることだ。
「自らのこころを浄める」の部分を全く無視しろ。
そうすれば完璧に理想主義者だ。
私もこれを長くやった。

これは激流ではない、とても意義が感じられ楽しいものだ。
功徳もつめることだろう。
これは彼岸の激流を渡る方法ではないが、このステップは重要だと思う。


3156 返信
Re:atomさん、ありがとうございます atom 2006/11/10 00:01

>> 在家の環境の中で次の要素を取り入れただけで、最大の実践上に変わる。
>> それはかなりの激流となる。
>> 同じ志を持つものに囲まれた、出家環境ではこれは無理だ。
>> これは、在家の環境で、自分だけが実践している場合に最大の効果をあげる実践法な
>>のだ。
>>
>> 1.自分の日常遭遇する全ての人に逆らわず、意見せず従順に振舞う。
>>
>> 2.たとえ年下の者に対しても、自分が世の中で一番下の者のように、他の者にたいし
>>ては神に接するように敬いながら接する。

>たしかに、「それはかなりの激流となる。」ということでしょうね。
>言葉では、かんたんに、言うことが出来ますが、いざ、このことを実践しようとすると
>必ず、自己のプライドというか、エゴが頭をもたげてきますからね。

それが狙いなんだよ。
プライドもエゴも頭を出してくれなければ、それらから同化を解除する(解脱する)道は現れないのだから。
効果的にプライド、エゴこれらが出てきてくれる方法が最も抜群の彼岸に渡る実践法なのだ。

>人類の歴史、5000年か一万年か知りませんが、いまだに戦争が止まないというの
>は、つまるところ、この人間のエゴを滅することができないがため、ということが出来
>るのではないでしょうか。


見方を変えれば、我々は戦争のおかげでまとまれたとも言えるのだ。
たとえ戦争と言えども、現象だけを捉えて、エゴ云々は語ることは出来ないのが実際のところだが、これは我らの視点だから、戦争が悪いと言う判断があるのなら、自分が加担しないようにすれば良い。

私が語る方法は、エゴを除く効果面だけではなく、個人のカルマの集大成とも言える現環境を最大限利用して、カルマをクリアーにしていく行為も兼ねているのだ。

釈迦はこの宇宙の全てがカルマで成り立っていると述べている。


増支部経典3-135
比丘らよ。いまアラカン(真人)であり、正しい悟りを開いた者である私も、業論者であり、行為論者であり、精進論者である。比丘らよ、愚人マツカリは『業は存在しない、行為は存在しない、精進は存在しない』といって、私を批難している。

スッタニパータ654
世間は業によって存在し、人は業によって存在する。生命あるものは業に結ばれていて、それはちょうど進み行く車がくさびに(結ばれている)ようなものである。


私以上の者ならだれでも自分の前世くらいは想起しているものであるが、カルマとは単純に言えば、やったら今度は、自分がやられる立場になると言うものだ。
実はイエスがこのカルマについて福音書で実にみごとに説き明かし、カルマを綺麗にしながら越える方法を述べているのだ。


マタイの福音書7―1~5
さばいてはいけません。さばかれないためです。
あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。
また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。
兄弟に向って、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。
偽善者たち。まず自分の目から梁をとりのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。



もしも、理不尽なことを人からされて、それを理不尽だ相手は何と悪いやつなんだと判断したら、意業が生じ、次は、来世などで自分が人に対して横柄な態度を取る環境が出現し、人からあいつは理不尽だ何と悪いやつなんだと捉えられるような現状になり人から恨みを受ける、単純に言えばこれがカルマの繰り返しだ。

ところが、イエスが説くように、人から理不尽と思われるような事をされても、その相手を悪いやつだと判断しなければ(さばかなければ)、それがカルマの繰り返しの堂々巡りを解除する方法になるのだ。人をさばけば、やがてあなたもさばかれる時が巡ってくる、これがイエスのカルマに対しての教えだ。


新約聖書 マタイの福音書 5‐38~42

『目には目で、歯には歯で。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。
あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。
あなたに1ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに2ミリオン行きなさい。
求める者には与え、借りようとする者は断わらないようにしなさい。


目には目が帰ってくるし、歯には歯が帰ってくる、これがカルマだ。
だから、イエスは目には目で返すな、歯には歯で返すな、と教えた、これがカルマを説く方法だ。

つまり、私は出家環境ではなく、カルマの実現した現、在家環境こそがイエスの教え通りに、その自分のカルマに背を向ける事無く、前向きにカルマをクリアーしながらエゴを落とせる、効果的な彼岸に渡る「激流の実践の場」になると説いたのだ。

「インド哲学と仏教哲学の探求」からatom氏の実践part1

2006-11-12 00:27:08 | Weblog
 以前ご紹介した、「インド哲学と仏教哲学の探求」板に書き込みをされているatom氏が、いろいろ興味深い修行実践を書き込んでくださっているので、転載させていただくことにした。以前、印仏板で、和井さんに、私がいろいろ教えていただいていた時に、突然現れ、割り込んできたのが、彼との出会いであった。

 彼は、自らを識別を超えた者であると位置づけており、その地点に立って自らの体験を述べ、質問者にアドバイスをしている。しかし、自分の境地にまで、至っていないものに対しては、妥協することなく、持論を展開させ、相手の立場を受け入れることがないため、最後には相手が嫌になってしまい、その場から退場してしまうという感じであった。和井さんなども、どのように言っても、自分の主張を理解してもらえないので、最後は嫌気がさして、いなくなってしまった。

 そのような態度のため、常にatom氏対敵対者みたいな構図が出来上がってしまっていた。しかし、最近は、管理人さんや、通りがかりさんなどが、いろいろと質問されたことによって、識別を滅していく過程の、atom氏の具体的な実践方法が明らかになってきた。これを読むと、なかなか人の真似の出来ないことを、やってこられたのだなと正直驚かされた。

 オウムの修行法は、ヨーガ的な行法や瞑想が多いわけだが、それとはまた別な、アプローチの仕方で、自己の識別を徹底的につぶしていく方法を実践したようである。私には、彼の実践が、バクティ・ヨーガ、カルマ・ヨーガの徹底ではないかと感じた。彼が、仕事を持ち社会生活を営みながら、これらの実践を続けたことに大変な価値がある。

 彼の修行の拠り所は、経典であり、聖書であった。すなわち、末法の世で頼りになる物は、教典しかないと見切り、師を持たず実践を積み重ねたようである。彼がいかに激流を渡るために、死に物狂いで経典を参考にしてきたかは、彼の書き込みの随所に見える経典の引用を見れば理解が出来る。

 出家と言う形態に甘んじてしまった、サマナの方達も、一般の方で真摯に道を求める方が、これだけの実践をしていることを知るべきである。このような実践を徹底的に在家でやり続け、ひとつの境地に到達したというのは、すばらしいことである。

 特に、これからM派では、奉仕を中心とした団体にしていきたいと考えるなら、非常に参考になる実践ではないかと思われる。また、在家の人間でも、死に物狂いで識別を超えたいと言う方には、是非とも参考にしていただきたい。私は、atom氏に、質問ばかりしていたら、実践しない者というのは、末法の世界をさらに進める可能性があると指摘されたので、質問を控えているが、本気で実践したい方は、atom氏にいろいろ質問されると良いだろう。

 ただし、ここで、atom氏の境地が、本当に識別を超えた境地かどうかを判別することは、私には出来ない。最近の私は、それは、識別を超えた人間が、判別すれば良いのではないだろうかと考えるようになってきた。それよりも、そのような実践を死に物狂いで実践したという点に価値を置きたいと思っている。それと、彼の口調を傲慢に感じる方もいるかもしれないが、そこは目をつぶって内容を吟味していただくことをお願いしたい。

 なお、抜粋であってもかなりの長さになってしまった。印仏板に、彼は、大量の書き込みを残している。いろいろな人とのやりとりを、つぶさに読みたい方は、印仏板に飛んで読んでいただきたい。特に、過去ログに、和井さんとのやりとりが入っているので、是非読んでいただきたいと思う。お互い道を目指しているもの同士のやり取りは、一読の価値がある。印仏板のURLは、コメント欄に貼り付けて置くので、そちらから飛んでいただきたい。

 後は、皆さんの判断にお任せすることにする。
それでは、これが、atom氏の書き込みである。


3132 返信
Re:「小悟」に至る実践法 atom 2006/11/03 23:27

さて、探求者のために語っておこう。
世の中の解脱に向けての賢者の教えの中には一系の覚者と、釈迦やEO氏などゼロ系の覚者の教えと実は二通りある。
共通の部分もあるが、否定形が多くなるのがゼロ系の覚者の教えだ。
肯定形が多くなるのが、一系の覚者の教えとなる。
この点を良く心得ておくと、進んでいく上で参考になることだろう。

実は一系の覚者の大悟としているものは、ゼロ系の覚者では中悟に値しそれは大悟とは言わないのである。
私はゼロ系の釈迦の教えを取り入れた関係で、意図せず、ゼロの究極に突入してしまったので一系とゼロ系の両者を理解できる視点に立つことができ、西に東に一にゼロに賢者の教えのエッセンスをうまく和合するに至ったわけだ。

なお、釈迦にしろEO氏にしろ、ゼロ系の覚者の教えの中には、一系の覚者の究極としている次元は最高で無い位置づけがしてあるのだが、多くの探求者の視点で読み取れるものでもないだろう。


中部経典・小空経
アーナンダよ、もはや無所有処も非想非非想処も思わず、ただ無相心三昧に専心し、浄まり、確立している。それゆえにここには無所有処も非想非非想処もなく、その悩みも無い。すなわち空である。しかし、いま専心している無相心三昧は空ではなく、残りものであり、それについて不安である。


さて、これは釈迦が無所有処、非想非非想処を超えた滅侭定(ニルヴィカルパ・サマーディ)の境地を表したものである。
私が「存在の解脱」と表現するところの段階だ。

しかし、これはゼロの覚者の悟りの境地ではない。
それで釈迦から「無相心三昧(ニルヴィカルパ・サマーディ)は空ではなく、残りものであり、それについて不安である。」この表現が出てくるのだ。

それで、EO氏はこの境地を中悟と表現した。

ゼロの覚者の悟りの境地はマハパリ・ニルヴァーナの境地である。
私は偶然にも釈迦の教えを取り入れた関係で、マハパリ・ニルヴァーナの境地に突入し、さらに帰還(生還)したので、この視点にたって語ることとなった。

この場合は帰還を生還と表現する。
そう表現するしかないのだ。
生還できない者も多かったことだろう。
以下が、釈迦がゼロ系覚者の境地マハパリ・ニルヴァーナを現したものである。


自説経8-1
「汝ら修行者たちよ、ある領域が存在し、そこには地もなく、水もなく、火もなく、風もなく、虚空無辺処もなく、識無辺処もなく、無所有処もなく、非想非非想処もなく、現世もなく、来世もなく、太陽も月もない。汝らに告げるが、そこには、来ることもなく、去ることもなく、留まることもなく、死去することもなく、転生することもなく、よりどころもなく、発展もなく、支えもない。それが苦悩の終わりである」

自説経8-3
「汝ら修行者たちよ、生まれざるもの、形成されざるもの、造りだされざるもの、構成力から生じたのではないもの〔無為〕は存在する。もし、このような生まれざるもの、形成されざるもの、造りだされざるものが存在しなかったとすれば、生まれたもの、形成されたもの、造りだされたもの、構成力から生じたものから脱出することは、けっして考えられなかったことであろう」


釈迦の教えの原点はマハパリ・ニルヴァーナの境地から生まれたのだ。
それは決して一系の覚者の境地である、滅侭定(ニルヴィカルパ・サマーディ)ではない。
私も「存在の解脱」を実現できた辺りから、ゼロ系一系の両者の教えの区分けが良くできるようになったのだ。


3133 返信
Re:「小悟」に至る実践法 atom 2006/11/04 12:21

まず、思考の解脱の修行とは激流なのだ。
その激流の一面を話しよう。

実に私の周りは理屈抜きにドロドロしていた。
空気が既にドロドロしていた。
先祖の因縁など諸々があったのだろう。
この因縁渦巻くドロドロとした環境の中で、人と人とも仲良くなど暮らしてはいなかった。
職場も家庭も。

私も欲界にいる時は、色情霊を呼び寄せてしまったり不成仏霊に憑依されていたり、様々だった。
特に女性の不成仏霊が多かったようだ。

彼らは欲界にいる人々の思念に反応してとりついている。
それで、知ろうが知るまいが生きている者も影響をこうむるのだ。
特に不運の反復現象の中にある者は、その思念パターンに反応した何者かがいる事だろう。

まず、解脱修行を始めると憑依霊達は顔を怒らせて妨害を開始した。

これが、激流の激流と言われる事の一端である。
欲界からの解脱(次元上昇)とは、憑依霊からの解脱と言っても良い様な部分があるだろう。

ある時彼らは禅定中の私の鼻をつまんで引っ張り回そうとした。
ある時は私が禅定しているその部屋中を、ぐるぐるぐる彼らがもの凄い勢いで回った。
やがて、彼らは部屋の中にあったオルゴールを鳴らした。
ポルターガイスト現象の発生だ。

憑依霊達は人間の思念にとりついている。
その思念を私が遮断または修養しようとするのだから、彼らは必死にそれを妨害する。

そんな状況でも禅定を解いてはならないのだ、ただ、ひたすら神仏を念じ恐怖心を払い除き無心に近い状態で耐え忍ばなければならない。
彼らは、人間の恐怖心の思念にとり付いてくるだ。
だから、恐怖心を払いのけただひたすら座り続けるしかない。


スッタニパータ958
修行者は世を厭うて、人のいない座所や樹下や墓地を愛し、山間の洞窟の中におり、
スッタニパータ959
または種々の座所のうちにいるのであるが、そこにはどんなに恐ろしいことがあるのだろう。──修行者は音のしないところに坐臥していても、それらを恐れて震えてはならないのだが
スッタニパータ960
未到の地におもむく人にとっては、この世にどれだけの危難があることだろう。──修行者は辺鄙なところに坐臥していても、それら
の危難にうち克たなければならないのだが。

スッタニパータ184
「ひとは信仰によって激流を渡り、精励によって海を渡る。勤勉によって苦しみをを超え、知慧によって全く清らかとなる。」

相応部経典11-1-3-11~12
またわたしは、このように語る。―『修行僧たちよ。もしもそなたらが森の中にいようとも、樹木の根もとにいようとも、空家にいようとも、恐怖が起こったならば、戦慄が起こったならば、身の毛のよだつことがあったならば、その時にはわれを憶念せよ。かの尊師すなわち、敬わるべき人、全きさとりを開いた人、明知と行いとを具えた人、幸せな人、世間を知った人、人間を調練する無上の人、神々と人間との師、ブッダ、尊師はこのような人である』と。
修行僧たちよ。そなたらがわたしを憶念するならば、恐怖が起こっても、戦慄が起こっても、身の毛のよだつことがあっても、それは除かれるであろう。


幾日も幾日もこのような状況は続くが、それでも、心の修養が進んでくれば、やがて欲界から上昇し憑依霊たちは目前から消える。
これが激流の一端である。

私が激流とは発狂するか否かの中を潜り抜ける事だ、と言うのは実にこんな一面からもその状況が察しれることだろう。
実はこれ以外にも一般には恐ろしい事が色々あるのだ。

そして、一端激流に入り込んだら、死んで命を落とすのなら命を落とすその時まで、発狂するのなら発狂するその時まで、精神をすり切らせながら進むしかない。もはや退転はゆるされない状況下で、生きる屍のようになりながらも決死の覚悟で進むしかない。
禅修行の僧で発狂する者が出ることがあると聞くが、それは経験で分かる。

本山博氏が「超意識への飛躍」で同じようなことを述べていた。
私も氏同様に神仏を念じずにはいられない地獄を経験してない者はエセ宗教者と言わざる得ない。
私は彼らを本物とは認めない。
的を得た実践ならそれらは必ず起こる、避けては通れない。

さて、激流と一言で語るが、その一端を話しただけでも分かった事だろう。
どれ程の者達が、人々の益になる為に、自分の身を呈してこの激流を渡れるのだろうか。

多くの者達は、苦悩を抱えたまま、宗教を論じたりするお遊戯の世界で楽しんでいるのだから、本物の解脱や悟りを得るための宗教実践はあんまり関係ない世界かもしれないな。(笑)
楽しそうで哀れと言うか・・・ま、やめておこう。


3135 返信
Re:atomさん、ありがとうございます atom 2006/11/05 00:00

管理人さんお久しぶり。
私は一人でも大勢でもいつも楽しい人間ですので、たんたんと言語化練習させてもらってました。

>やはり、自分で体験した者の強みといいますか、直接、自分で経験した人間の体験談と
>いうのは迫力がありますねえ。

この世界では体験の無い者の話は信じない事だ。
賢者と言われる人たちを見れば、例外なく自分の体験をベースに語っている。
体験の無い本の受け売りの知識の者は、だいたい見れば雰囲気で一発で分かる、彼らには尋ねても所詮貧弱な体験しか出てこないと言う共通の特徴を持ち合わせている、相手にするだけ無駄な徒労だ。
好きにさせておくのが一番いい方法である。

せっかくなので、実践をもう少し明らかにしておこう。

さて、私は欲界にいる時の実践時に、夜中に職場の3棟からなる4階建ての誰もいない施設(職場の施設はとても大きい)の中を、明かりをつけず手に明かりを持たずに、暗闇の中を恐怖心を取り去りながら2時間以上歩いた。
誰もいない暗闇では、少しの音も大きくなって聞こえるものである。
年に何度かやった。

現象に対する恐怖心を取り除かなければ、欲界から次元上昇することは出来ない。
恐怖心は何も無いところでは表面に出てきてくれないので、取り除くことは出来ない。
だから、自分の中から恐怖心が出て来る所にあえておもむく必要があるのだ。

その時浮かび上がってきた恐怖心と同化しない実践をして、初めて恐怖心を超えることが出来る。
私は、人々のため、生きとし生ける者たちの至福の為に、このような実践を敢行した。
自分のためと言う動機は、私には一切無かった。
人々の為に自分の精神と肉体を捧げる覚悟、これが実践者の姿勢だ。

スッタニパータ958
修行者は世を厭うて、人のいない座所や樹下や墓地を愛し、山間の洞窟の中におり、
スッタニパータ959
または種々の座所のうちにいるのであるが、そこにはどんなに恐ろしいことがあるのだろう。──修行者は音のしないところに坐臥していても、それらを恐れて震えてはならないのだが
スッタニパータ960
未到の地におもむく人にとっては、この世にどれだけの危難があることだろう。──修行者は辺鄙なところに坐臥していても、それら
の危難にうち克たなければならないのだが。

私は実践として接する全ての人に、逆らうことをしなかった。
右を向けといわれれば右を向き、左を向けといわれれば左を向いた。
500円のチケットを冗談で5000円だと言われたのだが、私は5000円出したが、すぐに釣りが戻ってきた。
共同募金とみれば、思ったよりも多めに募金や寄付をせっせとしたので、ラジオで度々名前を読まれていたと聞く。
道を歩く時は空いている手に道に落ちているゴミを拾いながら歩いた。住んでいる所の2件両隣の前まで綺麗に掃除をした。
職場の流し場、ゴミ捨て場も度々掃除をした。
徹底して私は誰よりも下の者として振舞ったのだ。


今、私は人々の為に何ら実践を為すこともしてはいない。
しかしこれは、私は実践を捨てたのではなく、人々と言う対象が私の前から消えた結果、実践したくても実践不可能になったのだ。
実践可能なら私は、人々の至福の為に命を捨ててでもまだ実践を続けている所だ。
これが、自他の識別作用を越えることの真実だ。
なお異論のある者は、本の受け売りの知識ではなく、自らのその経験を提示しそれは違うと言うがいい。
貧弱な経験しか持ち合わせない口先だけのものたちよ。

私は意識だ、この掲示板を見ている思考の者達とは元々異次元交流だ。
肉体がある事が異次元交流を可能としている。
言葉や思考や行動が多くの者たちの本体だろう、しかし、私は意識の次元から言葉や行動や思考を操って、その者たちと異次元交流をしている。肉体が無かったらそもそも別世界だ。

生きとし生ける者たち、人々の至福のために私は耐えて実践した来たのだが、解脱(次元上昇)後は、実際に回りには無言のうちに好影響が生まれた。
住まいの雰囲気もさっぱりした。
私と対話する者も、主に世間話していても、なぜか気持ちが爽やかになると言う事から、私はさっぱり爽やか系と表現されてたりして一人でに頼りにされる立場だ。

私は仕事をしている部屋の者6人の中で一番年が下ですぐ上は私より10歳上の人だが、職場のスタッフも笑顔が多くなった。
私も離れた場所の四つの施設の責任者になったり、誰よりも下の者として振舞った私だが、解脱後は面白い事に発注責任者になったので、自分ではぺこぺこしなくていい、反対にぺこぺこされる立場になってしまった。(笑)

自分が変われば回りが変わるものだ。

3137 返信
Re:atomさん、ありがとうございます atom 2006/11/05 10:54

さて、実践法について自らの体験を例にして、もう少し明らかにしておこう。

まず、思い(アストラル界の行為)を殺して再び立ち上がれないようにまでしてしまわなければ、思考の解脱(意識の次元)には辿りつけない。

私は遭遇する現象に応じて、常に自分の中から湧き上がってくる思いを、細かく逃さず捉えて、正しいか正しくないか、と言うフィルターに掛けた。

基本的には、正しいと判断できるのにその事を私はやりたく無いと言う思いが発生した時、やりたく無いを捨てて正しいことを実行した。
やりたいと言う思いが発生した時、それをやる事が正しく無いと判断された時は、そのやりたいと言う思いをやらなかった。

常に正しいと判断される方を選択する。
そうすると実質的には、やりたいと思う事はやらなくて、やりたく無いと思うことを率先してやると言う内容が増えてくるのだ。
つまり、やりたい、やりたく無い、このような現象に応じて動きまくる思い(アストラル界の行為)との同化が断ち切れてくる。

ただし、言葉で言うのは簡単だ、実践は激流となる。
それは、ストレス因子に自ら体当たりして破壊していく行為なのだ。

私はこの実践において、顔色は青白くなり、体重は激減し、生きる死体のようになって、生きとし生けるものたちの至福のために自分の身を捧げる思いでこれを実践した。

なお、私は実践期間はほとんどの知り合いから縁を絶たれた。
今は縁も復帰しているが、理由は私が彼ら彼女らに対して、徹底的に神を敬うようにして敬語を使って接したからだ。
気持ち悪がられたわけだ。
しかし、私は自らの中の依存と馴れ合いと言う煩悩を見切っているので、その思いと同化することは私にとって悪魔への敗北を意味していた。それで、周囲の者にはことごとく私は他人行儀に礼を尽くして、神に接するようにして敬語を使用し接したのだ。

中にはそれでもその期間、縁を保ち続けた知り合いと旅行に行ったが、どこに行ってもまったく見ている景色は同じだった。
実践中は、入ってくる感覚を楽しまないと言うフィルターが掛かっているので、どこに行っても墓場を見てまわっているのと全く変わりない。延々と景色だけが変わるが、全て色気のあせた延々と墓地の景色を見ているようなものだった。
味覚についても同様だ。入ってくる感覚にフィルターが掛かっているので、美味しいともまずいともなかった。

もちろん今は私にそのような感覚のフィルターは無い。
味はそのままの味だ。美味しいものは美味しい、ただし執着と言うものが無いから、後に尾を引く事無く、その時々で片がつくのだ。つまり、美味しいと言う感覚は有っても、それに対しての執着が無いのです。
一言で言えば何ら苦悩が生ずる事無く、快適と言う事ですね。

私は正しい事をやり抜いた、生きとし生けるものたちの至福の為の行為をやり抜いた。
もはや私の前に正しい事も、生きとし生ける者たちの至福の為の行為と言ういかなる対象も消え去ってしまい為す事は出来ない、これらは為し終えてしまった。
私には正しいこと、人の為、このように何かに取り組むと言う次元を超えた、ただ瞬間瞬間にやる事の意識の次元に辿り着いた。
今や私が何かの為に何かを為すと言うことは遣り抜いて消滅したので再びこのような事を為すことは無い。


さて、私の対話は他所では良く記録されたり他所に引用されたり対話録にされたりしたが、ここでは大した前向きな探求者もいないようだから、後で気が向いたらログでも辿ってみるといいだろう。

まず、私は私の今いる次元にたどり着けたものを見ないどころか、欲界にいる者たちが精神世間にたむろしているだけのようだった。
それでも、這い上がろうとする者がいたのは事実だ。私は実践法が効果を表さない、的確で無い部分を見抜いて指摘した。これはその者より先にいる者しか示すことは実質不可能だからだ。

探究心の欠片の無い、自らの人に明かすほどのものも無い貧弱な体験しか持ち合わせていないような本の受け売り知識の者の話は無視することとしたが、探究心のある者は問うといい。
私が自分で言うのもなんだが、実際に途上と称する私以上のものを見ないのだから、私に答えられる範囲で提供できる情報があることだろう。同じ途上の者同し、仲間が仲間に尋ねるように尋ねればいい。
探求者に対しては、質疑応答の姿勢はいつも開いている。

大パリニッバーナスッタンタ6-5
「また、修行僧たちよ。ブッダに関し、あるいは法に関し、あるいは集いに関し、あるいは道に関し、あるいは実践に関し、一人の修行僧に、疑い、疑惑が起るかもしれない。修行僧たちよ。(そのときには)問いなさい。あとになって、〈わたしたちは師にまのあたりお目にかかっていた。それなのにわたしたちは尊師にまのあたりおたずねすることができなかった〉と言って後悔することの無いように。」

3139 返信
Re:atomさん、ありがとうございます atom 2006/11/05 23:28

思考の解脱が達成された時は奇妙なものだった。
そのような日が来るとは、予想してなかったのだ。
私はずっと永遠に、人々のため、正しい事の実践、この修行を続けていくつもりだった。

たしかに、正しい事が目の前から減っていったことは自覚があり、かなり楽に生きられるようになった自覚があったのだが。
その日確かに朝はいつものように人の為に生きていた、ところが昼過ぎ自室に入って人のためと思おうとしても、思いが無いのだよ。
思いが無い。

正しいことを実践しようと思っても、思いが無いのだよ。
私には思いが無い。

思いが無いのだよね。
私はただ生きている。
思い無く。
私はただただ生きている。

私はそれからは、ただ生きる事になった。
誰のためとか、正しいとか正しくないとか関係なく。

私は、人の為の正しい行為を為し終えた、もはや実践不能だ、再びこのような迷いの生き方をすることは無いと言うことを自ら知って、それからはただ快適に生きるだけになった。

私は釈迦の教えの相対の原理(縁起)の実践とは、こう言うものだったのかとまじまじと知ったのである。