白龍のオウム・アーレフで過ごした日々

オウム・アーレフと新団体「ひかりの輪」について考える。

差別を生んだ四無量心

2006-11-03 00:22:30 | Weblog
 我々信徒は成就者が、慈愛の実践、慈悲の実践をしているとばかり思っていたのだが、分裂騒動後の信徒対応でも明らかになったように、大変な差別意識や選民意識、そして教祖を否定するものに対する強烈な嫌悪を持っていることが分かった。

 しかし、教団の教義の根幹をなす、四無量心の実践をしている者達が、何故そのような意識になってしまったのだろうか?私は、不思議で仕方がなかった。そうしたら、偶然、マイトレーヤ正大師の寄稿文を見つけ、その謎が解けた。彼らが、差別意識や選民意識を持ったのは、まさに四無量心の教えを実践したからにほかならなかったのだ。

 どういうことなのか順を追って説明していこう。
参考資料は、マイトレーヤ正大師特別寄稿 第32回「四無量心と、法則の目的と手段」から抜粋させていただく。

 まず、M正大師は、四無量心には2種類あるということを述べている。その説明がこれである。

 「まず、一つ目の四無量心では、他人の現世的な長所、例えば容姿・資産・地位さえも称賛する。その目的は、自分が現世的に恵まれた他人に対して嫉妬することがないようにするためである。」
「もう一つは、真理と関係ないものは称賛せず、真理に関係するものだけ称賛する四無量心である(ここでの真理とは、世俗の真理をも含む広い意味での真理・叡智のことではなく、主にカルマを浄化し煩悩破壊を進める、基本的なダルマのことである)。」

 前者を教団ではあまり修習をせず、どちらかというと、後者を修習してきた。しかし、ここに問題があったというのだ。それは、次の言葉に表されている。

 「しかし、この四無量心の場合、説法にもあるとおり、既に自己の煩悩が浄化された人については全く問題はないが、依然としてプライド・嫉妬心、愛著・嫌悪というものが強く残っている場合、その浄化を同時並行で進めていないとある種のけがれが生じる可能性があるのではないか。」

 さらに、初期の頃に教団で説かれていた四無量心「平等心」「愛」「哀れみ」「称賛」と後期に説かれだした四無量心「聖慈愛」「聖哀れみ」「聖称賛」「聖無頓着」を比較して、その違いを明らかにしている。

 初期に説かれた四無量心の説明として

 「また、教団初期に説かれた四無量心の実践では、まず最初に平等心の教えがあり、そして愛・哀れみ・称賛といった教義があった。平等心とは、すべての魂を平等に愛するというもので、それは、嫌いな人の不幸も悲しみ、嫌いな人の良いところも称賛するという瞑想が説かれている。
 この場合、凡夫を含めてすべての人々(および生き物)を平等に愛する実践をすることになる。すると、教団に敵意を抱く者の長所さえ喜び、称賛し、また、その不幸を悲しむということにもなる。平等心を最初に据えたこの教えは、自己の浄化にも役立つ教えであると思う。そして、修行の初期において、グルはこれを相当修習されている。」

 と解説している。

 一方後期の四無量心の説明として、このように語っている。

 「一方、後期のものは、本来の意味合いはそうではないのだが、自己の煩悩が弱まっていないと、微妙なゆがみを生じさせる恐れがあるように思う。すなわち、平等心を最初に持ってくる北伝系の四無量心に対して、後期の南伝系の四無量心は、聖慈愛・聖哀れみ・聖称賛・聖無頓着を説くが、それが硬直した形で解釈されると、真理を実践している法友には慈愛を持つが、真理を実践しない悪業多き魂については見下す心を含みながら哀れみ、グル・法・聖者は称賛する一方で、その反動として非聖者は尊重しない、愛さないという結果になる恐れがある。
 これは、下手をするとステージ別に魂を区別することになり、その結果、自分と他人を区別し、プライド・卑屈を生じさせたり、ステージの高い者に愛著する反面で、そうでない者に嫌悪が生じる。」

 私は、2チャンネルでA派の人が他を攻撃する言葉に、四無量心を実践していなかったのですか?と、くってかかっていたが、この正大師の見解を読むと、私の攻撃は的外れだったことが分かる。彼らは、四無量心の実践をしっかりやっていたから、プライドを生じさせ、差別心や嫌悪を増大させてしまったのである。もちろんこれは、教えの本質からは、遠く外れているが、煩悩を持っているものが、陥りやすい教えを用いてしまった結果によるものなのだろう。

 そこで北伝系の四無量心に含まれる平等心についての説明が続く。

 「まず、平等心。これはすべての魂を平等に愛する実践である。そして、最終的にはすべての魂を自分と平等に愛するという考え方である。すなわち、他と他の間の区別、自と他の間の区別をなくしていく意味合いがある。」

 平等心からさらに考察を進め、ステージの高さについても言及している。

 「すなわち、自分のステージが他より上であるということは、他より自分の方が常に正しく、下の者は上に常に服従すべきであるということではなく、自我に対する執着が少なく、より多くの人を自分と同じように大切にして活かすことができ、例えば、他人の良いところは自分のそれと同じように喜べるとか、他人のけがれは自分のそれと同じように受容できるといった要素が、同時に必要になってくるだろう。
 つまりステージが高いということは、他より優れているというだけでなく、一言で言うならば“心が広い”という側面が必要になってくる。より心が広い者がステージがより高いということである。
 これは、ステージの上下というと、だれかがだれかより上であるという上下関係のイメージですぐできてしまうが、本当は、他にまでより愛が広がるという水平関係のイメージがなければならない。」

 ステージの高さは上下関係でなく、水平関係のイメージが必要ということだ。さすがである、上祐さん!

 「この視点からすると、ステージが上であり、そのため周囲に称賛される場合には、他の称賛に自分が錯覚しないようにしなければならない。「わたしは偉いんだ、上なんだ」ということに執着したら、慢を形成し、軽蔑・嫌悪も生じてしまう。」

 差別意識を持ってしまった方は、錯覚をおこしてしまったのでしょうね。その対処法として、次のような実践方法を掲げている。

 「そこで、自分を客観的にありのままに見る努力が必要だ。自分の成功、功徳は多くの魂の協力によって得られており、一人の力ではないことなどを考え、称賛されたら称賛や感謝を返す努力をすることも大切だ。
 さらに自分の内側においては、慢を捨断するために、努めて自分と他のサマナを平等に扱う努力が必要となる。これを極言してしまうと、「高い地位にありながら、自分は普通の人である」といった見方・視点も必要になってくる。普通の人と思うことで自他の平等を修習するのである。」

 まあ至れり尽くせりで説明されている。この時、師もサマナも皆説法を聞いていたのだろうけど、どんな思いで聞いていたのだろうか?自分には、当てはまらないと思って聞き流したのだろうか?だとしたら、その方達こそ魔境ではないかと思える。信徒からみても、分かりやすく納得できる話で、改めて、M正大師の天才ぶりを垣間見た気がする。

 この後、昨日の話題であった、カルマ落としについても、言及している箇所があるが、ここで紹介すると、長くなってしまうので、コメント欄に、寄稿文の全文を貼り付けておくので、是非参考にしていただきたい。

 しかし、だいぶ前から、マイトレーヤ正大師は、教団内の問題点に気づきどうしたらよいのか、思案を重ねていたのだろう。それでも、このような状況が現出してきてしまう。これこそまさに、教団のカルマというしかない。