白龍のオウム・アーレフで過ごした日々

オウム・アーレフと新団体「ひかりの輪」について考える。

第4回ネットボーディーサットヴァの会

2006-11-25 00:53:57 | Weblog
 土曜日なので、第4回ネットボーディーサットヴァの会を始めまーす。
本日のテーマは、「カルマ落とし」についてです。

 教義の主軸として、「カルマ」と言う言葉がある。この「カルマ」とは本来の意味はどのようなものなのであろうか?

業(ごう、karman(sanskrit)、kamma(pali))とは、サンスクリットの動詞の「クリ」(kR)の現在分詞である「カルマット」(karmat)より転じカルマンとなった名詞である。したがって、「なすことそれ自身」という意味であって、古人が「造作」の義と言い伝えてきたとおり、動作の抽象的非人格的なものを言う。そこには、一般に言われている「なすもの」「なされたこと」「つくられたもの」などの意味はない。
                 (ウイキペディアフリー百科事典から抜粋)

 本来の意味は、行為そのもののことを指す言葉のようだ。しかし、ながら、教団内では、「カルマ落とし」なる言葉が、頻繁に使われていた。「カルマ」という言葉を正確に理解していれば、おかしな使い方であることが分かる。

 ある行為があって、過去の自らの「カルマ」が消えたというなら、理解が出来るが、「カルマ落とし」となると、相手のカルマを落とすということになる。カルマを、一つの物質的なものとして捉えているような感じがする。この時点で、釈迦の「行為それ自身」とするカルマ論からは、大きくはずれているようである。

 基本をはずしたら、あとは暴走あるのみ。「カルマ落とし」は暴走につぐ暴走を重ねて、地下鉄サリン事件を初め、数々の殺人や事件を起こす原因になってしまった。この「カルマ落とし」のやっかいなところは、落とされる方はいい迷惑でも、落としてやる方は、慈愛の実践だと思っている点にある。

 したがって、サリンで死んだ人達は、尊師にカルマを落としていただいて良かったとか、これ以上悪業を積む前に、ポアされて良かったのだという発言をするようになってしまう。客観的に見ると、これらの発言は、なんとも冷酷無比、鬼畜の言葉に聞こえるが、「カルマ落とし」の概念が入ると、まったく逆の捉え方になってしまう。普段は借りてきた猫のようにおとなし人達が、「カルマ落とし」という、慈愛の実践の合言葉で、化け猫に変身してしまうのである。「カルマ落とし」とは、なんとも恐ろしい言葉である。

 しかし、ナーローパがテローパから受けた試練。ミラレーパがマルパから受けた試練は、どう考えれば良いのだろうか?あれは、カルマ落としではなかったのだろうか?とすると、テローパもマルパも仏教のカルマの捉え方を間違っていたのだろうか?それとも、互いに高いステージにある者同士においてのみ、かけることが出来る高度なテクニックなのだろうか?どなたか詳しい方がいらしたら、解説をお願いしたい。

 皆さんは、教団内で、どのようなカルマ落としを受けたであろうか?ちなみに私は、マハポで、個室に閉じ込められ、ナルコで記憶を失わせられた。尊師に怒鳴られたというのもあったか・・。皆さんのカルマ落としどんなものがありましたか?