白龍のオウム・アーレフで過ごした日々

オウム・アーレフと新団体「ひかりの輪」について考える。

最終解脱

2006-11-22 01:20:29 | Weblog
 今回の分裂騒動をきっかけに、私の中で、教団と言うものに対する不信感が芽生えてしまったと同時に、今まで信じてきたものが、本当に正しかったのかどうかという不安が増大した。分裂騒動をきっかけに、ネット上でいろいろな情報を得、いろいろな方達と、情報交換をしていく中で、今まで真理といわれ、信じ続けてきたものが、かなり大きく揺らぎつつあることは確かである。

 そこで、これから新教団を立ち上げるM派に、今までの、オウムのシステムから、教義の隅々に至るまで、全ての見直しをお願いしたいのだが、おそらく頼んでも、自分達の都合の良い所しか見直しをしない可能性があるので、ブログ内で一つ一つ自分で検討を加えていくことにする。ブログを見ている方々からの、突っ込みもあるだろうと期待しつつ始めたいと思う。

 さてそれでは、最も、気になるところから、それは、教祖の最終解脱と言う言葉である。そもそも、最終解脱という言葉が仏教において使われているのであろうか?

 ネットで最終解脱という言葉を検索すると、仏教関係はまず出てこない。オウムに関するサイトだけが出てくる。ということは、この言葉は、仏教界で使われている言葉ではないということなのだろう。オウムのオリジナルと言うことになる。

そもそも解脱に最終という言葉が当てはまるのだろうか?


[解脱とは?]

繋縛を離れて自在を得るという意味である。誤った執着心から起こる業の繋縛を開放し、迷いの世界の苦悩を脱するから「解脱」という。

自分の心や自分の身体は、自分のものでありながら、自分自身で制御することは難しい。これこそ、もっとも根本的な束縛といえるであろう。このような根本的な束縛を解き放した状態、それを「解脱」という。

仏教では、この解脱に慧解脱(えげだつ)倶解脱(くげだつ)を説く。慧解脱とは「智慧」の障りを離れていることで、正しい智慧をえていること。倶解脱とは慧の障りをはなれるだけでなく、「定」の障りをも脱していることである。
また、心解脱と慧解脱を説く。心解脱とは心に貪著を離れること、慧解脱とは無明をはなれていることをいうのである。
あるいは心解脱、身解脱といって、精神的にはすでに解脱していても、肉体的には、どうにもならない束縛をもっている場合、たとえば釈尊の成道後の伝道生活のごときを心解脱といい、完全に肉体的な束縛を離れているのを身解脱といったりする。
(ウィキペディアフリー百科事典から抜粋)


 この文章を見る限り最終解脱という言葉は出てこない。オウム・アーレフでは、ラージャヨーガ、クンダリニーヨーガ、マハームドラー、大乗のヨーガ、アストラルヨーガ、コーザルヨーガ、最終解脱というふうに段階的に解脱が訪れると言われているのだが、これらは、慧解脱、倶解脱などとの分類とは全く異なるもののようである。

 オウムに入る以前は、解脱という言葉しか知らなかったのだが、オウムに入って初めて、解脱にはこんなに段階があるのだということを知った。しかし、今見ると、どうもオウムのオリジナルのようである。仏教にはないが、ヨーガの解脱には段階があるのだろうか?これだと、解脱の到達地点には、それぞれ違いがあることになる。

 シヴァの喜びさんのように、どのヨーガを目指しても、解脱という地点は同じ到達点に至るのだという方もいる。これは、どちらが正しいのであろうか?

 たしかに、このように段階的にステップアップしていく段階があったほうが、目標設定がしやすく、自分の位置を確認しやすいというメリットはあるようだが、果たしてそれが真理かどうかである。それと、プライドの強いものにとっては、このようなヒエラルヒーによって、自己のプライドをより強め、下のステージの者を、見下すという結果を生みやすくなるのではなかろうか?最近の、2チャンネルやブログでの信徒、サマナの師や正悟師に対する露骨な発言に、それが如実に現れているような気がする。

 教祖はあれほど、経典研究をしていたのに、経典にも載っていないような言葉を、なぜ使ったのだろうか?単なる権威付けのためだったのだろうか?最終とつけると、確かに行き着くとこまで行き着いた、偉い聖者というイメージを与えることは確かである。しかし、仏教の継承と言う点からは、はずれてしまうことになりはしないだろうか?

 別な方面から、考えると、すでに既存の仏教経典の中には書いていないような、段階まで到達してしまったので、最終解脱と表したということも考えられなくも無いが、そうすると、仏典の翻訳をした意味や、聖者方に会いに行った意味が分からなくなる。聖者方に会いに行ったのは、自分の独りよがりのステージではなく、経典に書かれているステージかどうか、どの段階にあるのかを確認しに行ったはずである。最初から、経典以上のステージだと自覚していたなら、経典に書かれていないわけだから、わざわざ、翻訳したり、聖者に話を聞く必要も無い。

 ということは、最終解脱と一番最初に言ってしまったので、引っ込みがつかなくなって、その裏づけのため経典を翻訳したり、聖者に会いにいったりしたということなのだろうか?もちろん、聖者方にあって、そのステージの高さは証明されたかと思うが、最終解脱していたかどうかは、また別問題である。聖者方に、最終解脱していたかどうかを聞いた会話とか残っていないのだろうか?あなたは、イエシェの段階だと言われたのは、聞いたことがあるが、それが、イコール最終解脱と言う言葉になるのかどうか、これは検討の余地があると思う。

 私は、この最終解脱という言葉自体は、まぎらわしいので使うべきではなかったのだろうと思う。結局最初にこの言葉を使ってしまったために、かなり後付に苦労をしなくてはならなくなったのではないだろうか?

 検討と言うより、疑問の提示みたいになってしまった。だんだん、難しくなってきたので、皆さんからのコメントに期待することにしたい。そういえば、最近、和井さんをどこでもお見かけしなくなったが、ご覧になっていたら、是非一言コメントをお寄せいただければ幸いです。