白龍のオウム・アーレフで過ごした日々

オウム・アーレフと新団体「ひかりの輪」について考える。

atom氏出家修行者を斬る

2006-11-23 00:15:55 | Weblog
 印仏板のatom氏が出家修行者をばっさり斬っていますので、転載させていただきます。
 解脱しているかどうかを確認するには、その者に、師に対して帰依をしているかどうかを尋ねれば良いというのは、素晴らしい確認方法だと思います。アーレフの成就者に、この問いを発したらどのような答えが返ってくるか、火をみるよりも明らか。(笑)
 また、すでに、現在の出家の環境の中では、激流が作り出せないということも指摘されている。解脱していく過程において、強烈なカルマ落しが必要ということだと思うが、この激流を作り出せる状況にない出家教団では、解脱は有り得ないということなのだと思う。以下にatom氏の投稿を載せておきます。


3186 返信
Re:atomさん、ありがとうございます atom 2006/11/19 16:36

なお、私は現在は釈迦にもイエスにも帰依しない。
しかし、それが、彼らの教えなのである。


きえ【帰依】
神仏や高僧を深く信仰し、その教えに従い、その威徳を仰ぐこと。帰信。「仏法に帰依する」

Kokugo Dai Jiten Dictionary. Shinsou-ban (Revised edition) ゥ Shogakukan 1988/国語大辞典(新装版)ゥ小学館 1988


スッタニパータ1146
(師ブッダが現れていった)、「ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィ・ゴータマが信仰を捨て去ったように、そのように汝もまた信仰を捨て去れ。そなたは死の領域の彼岸にいたるであろう。ピンギヤよ。」

スッタニパータ1082
師(ブッダ)は答えた、
「ナンダよ。わたしは『すべての道の人・バラモンたちが生と老衰とに覆われている』と説くのではない。この世において見解や伝承の学問や戒律や誓いをすっかり捨て、また種々のしかたをもすっかり捨てて、妄執をよく究め明かして、心に汚れのない人々──かれらは実に『煩悩の激流を乗り越えた人々である』と、わたしは説くのである。」


相応部経典9-10-4~5
「修行僧よ。そなたは、修行僧たちとともに住んでいるのに、なぜ真理のことばをとなえないのか?
真理のことばがとなえられるのを聞いたならば、心が清らかな喜びにみち、現世で人々の賞讃を博する。」
〔修行僧いわく、―〕
「昔は、わたしは離欲を達成するまでは真理のことばを学びたいという願望がありました。
いまやわたしは、離欲を達成したからには、見たことでも、聞いたことでも、考えたことでも、すべて知った上では捨て去らねばならぬ、ということを、立派な人々は説かれました。」


実際は、彼らの教えの実践の結果で、思い(アストラルの行為)が消滅し、信仰が持て無い意識変容の者となってしまったのだが。
解脱とは、師からの解脱でもあるのだ。

解脱したと称しながら、その後も師に帰依する事は実質不可能なことだ。
師を敬うことすら不可能になるのだ。
解脱したと称する者は、自らの精神をよく照らしてみろ。

たとえ師に対してでも、帰依できる(対象感覚)があるうちは、解脱じゃない。
そんな状態を解脱と認識した時点で、その精神状態を増上慢と言うのだ。
君達だってよく知っている用語だろう、増上慢、つまり欲界から君達は離れてはいない。
出家までして、そんな地獄の一丁目に行くようなカルマを積んで、これを一般的には愚者と呼ぶしかないのだ。

私のようにどうどうと胸を張って、私は釈迦にもイエスにも帰依していないと言えるか。
私は師に帰依など絶対にしていないと、堂々と胸を張って言えるか。

なお、出家者から学ぶ立場の者も、その出家者が師に帰依しているか否か、この質問を出家者にしてみると良い。
これがその者が解脱しているか、解脱していないのに解脱したと認識している欲界の増上慢の男かの判定法なのだ。
これは、増上慢の者たちから食い物にされてる学ぶ立場の者が、キリシタンの踏み絵同様の、増上慢の者たちを見抜く手段だ。

この判定法を用いると良い。
これが偽善者サタンを敬う者どもの弱点である。

3189 返信
Re:atomさん、ありがとうございます atom 2006/11/20 18:37

出家至上主義は過去のインドの釈迦時代の話だ。
当時はそういう環境が激流に相応しいものだったのだろうと思う。

墓場で死体を枕に寝起きし、確かにとても素晴らしい激流の実践場だったに違いない。

激流の環境を作り出すには、釈迦当時は在家より出家が良かったのだ。

しかし、今の時代は果たして本当にそうなのか?

今の時代では、明らかに激流は在家の環境の中で実践することで作り出しやすい。
であるから、今は在家至上主義と呼んでも良い時代だと私は思う。

少なくとも、私は出家者のなまっちょろい環境の者に、教えなど説くつもりは無い。
そういう環境で果たせるほど、解脱は甘っちょろいものではないと思うからだ。

もともと無理な解脱が、理解者に囲まれた出家ではなお困難になる。
私自身が出家した方がよほど楽だと思いながら、在家環境の中でストレス因子に次々と体当たりし破壊しつくして、身を削り死ぬ思いで激流を突破し激流の彼岸に至ったのだし。

EO氏も虚無の微笑を読むと、押入れの中で瞑想したとかなっている事から、在家で大悟を果たしたものだと思う。
虚無の微笑でEO氏が取り上げているバーナデット・ロバーツも普通の主婦だったと言うではないか。

現代で出家など理解者に囲まれた、グループレッスン、お遊戯でもあるまいし、そんな中で解脱できるものでもないだろう。
それは社会の激流の厳しさの環境から、離れただけじゃないか。

本当に修行したいなら、食うものくらい自分で理解者のいないような家々を回り乞食でもしろ。
甘すぎるんだよ。
自分たちでもそう思うだろう。

実践において誰にも依存できるものもいない、在家環境でただ独り、この環境を激流の実践場にする、これで激流の実践になるのだ。
周囲の人たちから白い目で見られながら、それでも煩悩をふりきってただ独りで実践をする。
これが激流だ。

特に解脱もしていないのに解脱したなどと称し、某増上慢の出家たちを見ても、ひしひしとそれを感じるのだ。

出家環境ではダメだ。

私は激流の実践においては在家至上主義だ。
某団体のように、解脱者が出ないで結果、解脱も果たせない者を解脱者に仕立て上げ増上慢を排出し続ける、死した後は地獄の一丁目、洒落にもならない。


3190 返信
Re:atomさん、ありがとうございます atom 2006/11/20 19:19

某団体の出家者と称するものどもに、資金援助などしている者が居るのなら、やめることだな。

彼らの現状を見る限りは、それが一番の善行で功徳を積む行為だ。

資金が少なくなれば、彼らは苦しくなる、その方が彼らにとってはいい激流の修行の場になるのだ。
楽な修行の場などクソの足しにもならない。
苦しくなれば、自分たちで乞食でも何でもやって、修行していくことだろう。

なお、激流の彼岸に至ったものは、もはや教団にいる必要も無いのだから、その苦しい環境からとっとと出て一人で快適に生きていけばいいだけの話だ。気の向いた者は人に教えなど説いていけばいいだろう。
そして、実際は激流の渦中のものではなく、そのようなものが敬われる人々なのだから。

解脱したものは、同じ場所で複数で、やれ同じ師をあがめよなどと唱える必要もなかろう。

解脱した者は、同じ道を二人で行くなとか言われている通りだよ。

地獄へ向かうおままごと教団か。

3192 返信
Re:atomさん、ありがとうございます atom 2006/11/20 23:32

まず、解脱するためには無所有の実践をしなければならない。

釈迦時代のインドなら、出家が良かったのだろう。

今は日本においては、在家がこの実践の本質的な目的にはとても向いているのだ。
理由は日本の社会が既に昔にインドと違い、人と人との連結が強化され一つの組織となっているからだ。

現代での無所有の実践は、自分が生きているそのものが人の為に生きているのだ、生活全体の中から自分のための生き方を片っ端から無くして行く。修行も全て人のためだ。
自分のための生き方など何も無い、これが無所有の実践になるのだ。

この無所有の実践においては、出家は全くの遠回りだ。
むしろ出家環境は、社会の厳しさの中で実践するのが辛くなった人が、人々から離れて修行実践するこれで自分を捨てる解脱が出来るのかどうか疑問が残るが、出来たとしても遠回りとなる事だろう。

今の某団体も、本当に団体としてのカルマを落とす激流の実践をするつもりなら、旧名称を名乗ったまま世の中からたたかれて耐え忍びながら、実践していけばよかったのだ。

ここで名前を変えたのが理由はどうあれ、現状から逃げの姿勢の表れだと私は思う。


(托鉢時に石や棒を人々からぶつけられ怪我をした、アングリマーラに対しての釈迦の教え)
「耐え忍ぶのだ。そなたは耐え忍ばなければならない。そなたの業の報いとして、幾年、幾百年、幾千年、地獄で受けるべきその業果を、いまこの世で受けているのだ。」(中部経典)


所詮ナマズの子はナマズだな。
まるで茶番だ。
激流の出家修行者としての姿勢がまるで感じられない。
うまくない事が起きれば、背を向けて逃げようとする姿勢が見え見えと言うところだ。
命を捨てても、人々から石を投げられても、修行者に逃げは赦されないのだよ。