白龍のオウム・アーレフで過ごした日々

オウム・アーレフと新団体「ひかりの輪」について考える。

脱走決意

2006-11-08 00:49:27 | Weblog
 マハポで亀戸にいたくないという話をしたら、上九のパソコン工場に行きなさいと指令を受けてしまった。上九のパソコン工場は、亀戸でもよく噂になっていて、室内でも冬は零下になり夏は50度の蒸し風呂状態になるような、劣悪な環境であると言われていた。そんな噂の立っているところに、誰が行きたいと思うだろうか?おまけに1月である。寒いことこの上ない。

 もう行きたくなくてしかたがなかった。亀戸を出る時に、メーカラダーイカー師に「帰りたくなったら、連絡してくださいね。」と言われたが、連絡したからといって、もっとひどい環境に放り込まれたらたまらない。連絡なんて出来るか!という想いだった。師にすれば、勝手にいなくなられたら、監督責任が問われるだろうから、連絡を寄こせということだったと思うが、連絡する気はまったくなかった。

 出発前に、青山道場に寄って行ったら、たまたまマハポの仲間の女性信徒がいて、上九に行くことになったことを告げたら、頑張ってねと励まされた。彼女とは同じ仕事で、机を向かい合わせて頑張ってきたので、別れの言葉を聞くのがちょっと辛かった。なんだか、出兵する兵士のような気持ちになった。大げさに言えば、生きてこの地を踏めるのだろうかみたいな、そんな気分だった。実際、あの時期には、すでに人が何人か死んでいたわけだから、あながち私の思い過ごしばかりとも言えなかったと思う。

 そんなわけで、暗い気持ちのまま、上九に到着して、第12サティアンか第8サティアンか忘れたが、パソコン工場に入っていった。ものすごく劣悪な環境を想像していたのだが、中はそれほどではなかった。

 工場なので、いろいろな配線とか部品とかががいたるところにあって、ごちゃごちゃはしていたが、まあ人が住める環境ではあった。人が住んで仕事をしていたのだから、当たり前といえば当たり前なのだが・・。食事は畳敷きの広めの場所でとっていたが、そこには、テレビも置いてあり、マルパの生涯のアニメが流されていた。

 パソコン作りは配線の仕方とかを覚えれば、なかなか面白いといえば面白いのだが、早く作り上げなくてはならないのが大変だった。検査を行うところも同じフロアーにあったのだが、真夏に50度近くにもなって、検査しても検査の意味をなさないだろうなと思った。実際、マハポのパソコンは、安くて部品も相当に良い物を使っていたのだが、故障が多かった。中には、スイッチを押しても電源が入らないとか、入れた途端壊れたとかいうものもあったらしい。サポーターも青山に2,3人しかいなくて、膨大なクレーム処理にいいかげんうんざりしており、マハポのサポート処理に当たっていた信徒などは、相手が話す間、受話器を30センチくらい放して、しゃべらせるだけしゃべらせて、おとなしくなってから話をしている姿をよく見かけた。

 それはさておき、その工場で働いている時に、仙台出身の夫婦サマナにあった。奥さんが熱心な信徒さんで、その奥さんに旦那さんが引っ張られて、子ども二人と家族出家を果たしたのだった。旦那さんはもう、現世に戻りたがっていたのだが、奥さんと子どもがいるので、我慢していたらしい。普通なら、出家すれば、夫婦とも別々の部署に配属になるのだが、そうすると旦那さんが揺れるということで、ご夫婦一緒の仕事をさせられていた。かの有名なコスモクリーナーの設置を担当しているということだった。

 奥さんはその時、「私たちはいつ心が揺れてしまうか分からないから、今のうちに積めるだけの功徳を積んでおくの。」と言って、一生懸命働いていた姿が印象的であった。

 事件後、子どもは児童相談所に強制的に移され、施設での生活を強いられた。そして、親が現世に戻らないと、子どもを返してくれないということになったため、子どもを持っている親さんは、皆現世に戻って、子どもを引き取ることになった。これは、明らかに、信仰の自由を侵していると思うのだが、当時は児童保護の立場から、何を言っても聞き届けられるような状況には無かった。

 また話がそれてしまった。パソコン工場での仕事は、多少は面白かったが、元々が上九に来ること自体不満だったという、不満から出発してしまっているので、見るもの聞くもの不満の対象になってしまうのである。だんだんストレスが溜まっていき、シャワーを浴びにシャワー室に行った時に、ピークに達してしまった。

シャワールームというのが、パソコン工場から出て、しばらく歩いた建物の裏側にあった。真冬の富士の凍てつくような寒空の中、シャワーを浴びるため、てくてく建物の裏に歩いていくと、海の家にあるようなシャワールームが並んでいた。それが、シャワールームである。富士にあるような浴室とは程遠い、小屋である。それでも、無いよりはましかと思い、暖房も無い中、震えながら中に入り、シャワーの蛇口をひねったら、冷水が出てきてウァッ!と飛び上がった。

 時間をかけないと温水が出て来ないのかと思い、しばらく、震えながら水を出し続けたが、さっぱり温水にならず、水をかぶっただけで、あきらめて工場に戻った。戻ってから、サマナにシャワーは温水出ないのかと聞いたら、いや出ますよと言う。たまたま、今日は壊れているのかと思い、明日もう一度挑戦してみようと、その日はあきらめて寝てしまった。

 次の日、今日こそは、大丈夫だろうとシャワールームに行って、寒い中裸になって中に入った。どうだ!っと蛇口をひねったら、今度はなんと熱湯が出てきた。ドワッ!!と飛び上がって、急いで水をまぜようとしたが、なかなか思うようにいかない。そのうち二つくらい隣に、人が入ってきてシャワーを使い出したら、途端に熱湯が水になってしまった。さっきまで熱湯が出てたのに・・。また結局水を浴びて、部屋に帰るしかなくなってしまった。あったまにきて、シャワーを叩きつけて、こんなところにいられるか!絶対脱走してやると決意を固めた。

 教祖の説法に、脱走と言う言葉を使うことは、間違いであるという話があったが、私の場合は完全に脱走であった。

 シャワーごときで脱走を決めたのも、なんだかなあと今にしてみれば思うが、当時はもうストレスのピークだったのだろうと思う。それと、その時に戻ったお陰で、事件に巻き込まれずに済んだことは大きかった。私は、どうも自動的に危険からは、するりするりと逃れられる運命にあるようである。

 脱走と言っても、バックや紙袋を持って逃げ出すと、すぐ捕まって、シールドルームに放り込まれる可能性がある。また、治療省に入れられるのはごめんであった。捕まることだけは、避けなくてはならない。しょうがないので、怪しまれないように、何も持たず逃げることにした。財布だけ持っていけば、ATMのカードがあるので、町に出さえすれば、口座に残っているお金を引き出して、仙台まで帰れると思っていた。決行は、人気の無くなった深夜に行おうと決めた。

 明日は、いよいよ決行の様子を書くことにする。