白龍のオウム・アーレフで過ごした日々

オウム・アーレフと新団体「ひかりの輪」について考える。

仙台支部道場開設

2006-09-30 00:41:29 | Weblog
 1989年2月、念願の仙台支部道場が開設された。
仙台支部は、河原町の十全会ビルというマンションの一角にあった。
開設に先立ち、十全会ビルに行ってみた。夕方頃で、部屋の中も薄暗かった。畳もまだ一部分だけしか敷いてなくて、雑然としていた。そのわずかに畳の敷いてあった場所に、男が一人座っていた。なかなか渋い顔をした好青年で、名前をナローパと言った。ナローパ師が、仙台支部にいたのは、その時だけ。事前の準備に来ただけだったようだ。

 仙台支部道場の道場開きは、尊師をはじめ、多くの師の方々が列席されて、盛大に行われた。私は、ようやく仙台道場が出来たという喜びで一杯だった。

 オウム時代は、土地や人に執着させないという理由だったらしいが、しょっちゅう人事異動があった。短い人だと、2,3週間で異動させられた人もいた。仙台支部も、とにかく人が替わった。どんな師の人達がいたのだろうか。思い出してみた。抜けてしまった人もいるかもしれないが、思い出せるだけ列記してみる。

 初代は、今A派の中心人物。泣く子も黙る、アッサージ師。
 次は、沖縄出身のダンマディンナ師 
 その後は、
   マルパ師
   ビルパ師
   ガンポパ師
   ミッター師
   タントラミッター師
   ウパーリ師
   タントラウッタマー師
   タントラシャーキニー師
   ヴァジラダンマサヴァ師
   ピリンダヴァッチャ師
   ポーシャ師
   ヴァジラテクシュナー師
   アヴェッチャ師
   バッタバーチャーナンダ師
   アヌーパマ師
   マハーラーキニー師
   サマンタヴァトラ師
   ヴァジラハーサ師
   パッシカ師
   メッターイタ師
   
順不同ではあるが、だいたい、これくらいだったと思う。こうやって列挙してみると20人以上替わっていたんだ。すごい。

どの師の方にも、いろいろな思い出がある。

 アッサージ師には、酔っ払って、べろんべろんになって支部に電話をかけたことがあった。あの頃の私は、在家の五戒なんて、ぜんぜん無視だった。さすがの、アーサージ師も笑うしかなかったようで、適当にあしらってくれた。

 女性の師の方達は、みんなやさしくて、好きな人ばかりだった。もちろん修行になると、鬼になるのだが、普段は気さくで良い人達であった。

 残念なのは、仙台支部で人気の高かった、ピリンダヴァッチャ師が、もうこの世にいないという事実である。私は、今でも、彼が死んだということが信じられない。どこかから、また、ひょっこり、やあやあとか言って出てきそうな感じがして仕方がないのである。

 次回は、仙台支部でお世話になった、各師の方々についてのエピソードを書いてみようと思う。

井上さん(アーナンダ正悟師)

2006-09-29 11:22:48 | Weblog
 富士山総本部道場で偶然出合った同郷のSさんとは、その後、一緒に行動することがしばしばあった。説法会などでは、尊師に仙台支部の早期開設を二人でお願いしたりした。ある時、世田谷に二人で修行に行くことになった。

 深夜セミナーに出てみようかということになり、初めて東京の深夜セミナーに参加することになったのだが、その時の、インストラクターが、井上さんであった。確か、書籍「イニシエーション」に載っていた人で、前生チベットの僧だったとか言う人だ。高校生で入信したと書いてあった。いやー、セミナーの指導をしていただけるなんて、ラッキーだなあと思った。

 まだ、18 、19歳位だっただろうか、少年のような顔立ちであったが、話し方はしっかりしており、丁寧であった。好青年という印象を受けた。

 その時出席していたのは、私とSさんを含め、5人であった。修行を始めて、何時間か過ぎた頃(深夜2時ごろであろうか)、突然、前のほうに座っていた、女性の方の姿勢が崩れうめき出した。声は、苦しげであり、しだいに激しさを増した。何事が起こったのかと、私達は修行をやめ、彼女を見つめた。うめき声は、ひどくなり、身体をよじるようにしてうめいている。まるで、何かに取り付かれたような感じであった。

 その様子を、じっと見ていた井上さんは、彼女の傍に近づくと、彼女の首筋に手のひらをかざした。そうしたら、あれほど激しくうめいていたうめき声が、ピタリと止んだ。しばらくして、彼女が落ち着いてきたら、話が出来るようになった。井上さんが、彼女に、「首筋が、ものすごく凝っていないですか?」と聞くと、彼女は「すごく凝っています。」と言った。「私の、右の首筋が、ものすごく凝ってるんですよねえ。」と言っていた。

 彼女が、落ち着いたところで、井上さんが今の状況について、説明をしてくれた。彼女は、もともと霊的な人で、アストラル世界と繋がりやすく、低級霊域と繋がってしまった。憑依されたような、現象が起きたので、井上さんが、シャクティプラヨーガという技法で、直接手を触れることなく、エネルギーを送ったということであった。

 私は生まれて初めて、憑依などという現象を目の当たりにして、かなりびびった。まさに、草木も眠る丑三つ時に、薄暗い部屋の中で、女性がエクソシストさながらに、うめきだしたのだから、気持ち悪かった。それを、こともなげにおさめてしまった井上さんは、すごーーーい!という感じだった。

 お話も、上手だし、説明も丁寧で、私とSさんは、いっぺんで井上さんのファンになってしまった。

 Sさんは、私以上に井上さんに興奮していた。私は見なかったのだが、Sさんの、斜め後ろに座って、一緒に瞑想していた井上さんが、音も無く、スーと浮き上がり、40センチ位のところで、いったん止まって、また静かにスーと降りたところを目撃したというのだ。

 明け方、浄化法を知ってますかと言われたので、知りませんと言ったら、じゃあやって見せましょうかと準備をしてくれた。3リットル入りのポリ容器と、バケツを用意してから、ガージャカラニーを教えますと言われた。ポリ容器に微温湯を入れ塩を少々入れて、ゴクゴク飲みだした。

 入るは入るは、1,5リットル位いっきに飲んだかと思ったら、次に、水道管のように、猛烈な勢いで、水を吐き出した。その勢いのすさまじさに、おもわず笑ってしまった。口をいっぱいに開けたのと、同じ太さで水が出てくるのである。水出しマシンのようであった。あっという間に、3リットルの水は無くなった。

 次に、ダウティという浄化法をした。これは、水につけた、5センチ位の幅の布を、パクパク胃の中に飲み込むのである。2メートルくらい飲み込んだのだろうか、まるで、うどんでも食べているようだった。飲み込み終わってから、立ち上がって、前かがみになり、お腹をペコペコ出したり、へこましたりした。その後、腹直筋を立てて、グルグル回し始めた。ヨーガの技法のナウリというやつである。私は、その時初めて、ナウリを見ることが出来た。

 ナウリをした後、布を引っ張り出すと、胃の中にあった粘液が布について出てきた。このようにして、胃の洗浄をするのですと言っていた。内臓のためには良さそうだと思ったが、あんな布なかなか飲めないなあと思った。

 最後に、ネーティカルマという浄化法を見せてくれた。鼻の中に紐を通して、ごしごしこするという方法である。これもまた、いとも簡単に、鼻の中に紐をするすると通したかと思うと、ごしごしこすり出した。まるで、大道芸人のようであった。これをやると、目の悪い人や、鼻の悪い人に大変効果があり、頭も良くなると言っていた。

 浄化法を見せていただいて、全てのセミナーが終了した。
たった一晩のセミナーだったが、二人とも井上さんの大ファンになった。Sさんは、その後、浄化法の鬼になり、毎日ガージャカラニーは、12リットル。ダウティも毎日。ネーティカルマは、一度に紐を二本も鼻の穴に入れて、ごしごしこするまでになってしまった。

 二人の大ファンだった井上さんは、諜報省幹部として、地下鉄サリン事件、VX事件他、数多くの事件に関わっていたということで、2000年6月無期懲役の判決を受けた。
 逮捕された時の、井上さんの顔には髭が生えており、人相が悪くテレビでは映っていた。あの頃の、さわやかな青年の顔ではなくなっていた。

富士山総本部道場の道場開き

2006-09-28 02:30:29 | Weblog
 88年8月、富士山総本部道場の道場開きに私も参加していた。
あの頃のオウムは、まさに、日の出の勢いと言う感じだった。
全国に、こんなに信者がいたのかというくらい、広い総本部道場が信徒、サマナで一杯になっていた。

 私は、知り合いも無く、一人で参加していた。それでも、何もかもめずらしくて、観光旅行のように、きょろきょろしていた。とにかく、夏の富士山がきれいだったなあ。富士宮の駅からは遠いけど、良いところだと思った。

 総本部道場は、かなり中が広かったのだが、信徒、サマナで溢れかえっていた。
後で知ったが、アメリカ支部から、わざわざ式典のために来た信徒さんまでいたと言うことだった。とにかく、中は暑かった。夏だからしょうがないが、手を伸ばせば、人にぶつかってしまうくらいのスペースに、ぎっしり人が入っているのだから、人の熱気だけでも相当なものだった。

 それでも、式典は、何をやるのだろうかと、興味津々で見ていたので、それほど飽きも来なかったが、チベットのカール・リンポチェ氏の説法の頃には、もう居眠りしまくり状態になっていた。

 尊師の前生のグルである、チベットのカギュッパの総帥カール・リンポチェ氏が、式典のために、わざわざ出席されていた。私は、チベット人というのを、その時はじめて見た。日本人と、ほとんど変わらないような感じであった。品の良い、田舎のおじいさんのように見えた。

 カール・リンポチェ氏の声は、かすれている上に、チベット語の独特の抑揚があり、それだけでも眠気を誘うのに、英語を話せる弟子が、チベット語を英語に訳し、その英語を今度は上祐さんが、日本語に訳すため、やたら時間がかかった。最初は、真面目にノートを取っていたのだが、長旅の疲れと暑さで、いつの間にか、ペンを持ったまま、寝てしまっていた。

 しかし、高齢のカール・リンポチェ氏が、あの暑い中、2時間近くも説法を続けておられたのには、さすがカギュッパの総帥だけのことはあると感心した。
 全ての式典が終って外に出たら、車椅子に乗った、カールリンポチェ氏が弟子に車椅子を押してもらいながら、周辺を散歩していた。日本の富士山をどんな思いで眺めていたのだろうか。

 式典では、イニシエーションとして、甘露水や丹が配られた。私は、丹が苦手だった。丹とは、そば粉にいろいろな薬草を入れて練った物を、パンのように焼いた物だ。食べると、エネルギーが強くなるらしい。しかし、結構甘い上に、もさもさして食べづらく、1枚食べるのがやっとだった。私の友達は、丹が好きでむしゃむしゃ食べていた。私は自分で、供養できない時は、彼にあげることにしていた。

 法友の話が出たので、そのことについて触れておきたい。私が、一人で富士まで出向いていたことは、先ほど書いた通りだが、さすがに、一人だとつまらないので、式典の合間に、隣の男の人に声をかけてみた。以下がその時の会話。

私 「どちらからいらしたんですか?」
彼 「福島です。」
私 「え~!私も福島です。」
彼 「うそー!どこなの?」
私 「○○市。」
彼 「俺も、○○だよ!」
私 「えー!本当ですか?おどろいたなあ!」

 なんとなんと同じ町から参加していた二人が、偶然にも隣同士に座っていたのである。わずか4万人にも満たない小さな町である、そこから出てきた二人が、1000人近い人ごみの中で、隣同士に座ったのである。彼との出会いは、私にとって、尊師とカール・リンポチェ氏との出会いに匹敵する、神秘的な出来事であった。

 後でいろいろお話をうかがったら、私の高校の同級生のお兄さんだったのである。またまた、びっくりした。その後も、こういう神秘的なことが、オウムの中では、数々起こった。ここら辺が、教団を信じる一つの要素にもなっていたのかもしれない。
 彼とはその後、最も仲の良い法友になったことは言うまでもない。
式典の最後に、尊師と一緒に撮った記念写真には、二人の姿が写っている。写真はだいぶ色あせてきてしまったが、今も、私の机の上に飾ってある。

尊師のシャクティーパット

2006-09-27 00:59:09 | Weblog
 当時、オウムでは、地方の信徒対象に、通信プログラムというものがあった。どういうものかというと、自宅で3時間修行したら、シャクティーパット単位取得用紙に、ハンコを1つつけることが出来、規定の単位が貯まると、シャクティーパットを受ける資格を取得出来るというものであった。私も、シャクティーパットを目指して、修行に励んだ。しかし、3時間修行するというのは、入信して間もない者には、なかなか大変な作業だった。
 
 そのうち、尊師のシャクティーパットが、今回で打ち切りになることが分かった。絶対に受けたかったので、頑張ったが、3時間びっちり修行するのはなかなか大変で、1時間位で嫌になることもあった。それでも、シャクティーパットが受けたかったので、少々誤魔化して、ハンコを押してしまったこともあった。(懺悔)

 そんなこんなで、何とか単位を貯めて、シャクティーパットの申し込みを行った。
申し込みは無事受理され、シャクティーパットの日程が知らされてきた。ついに、シャクティーパットを、受けることが出来るという期待に胸が踊った。クンダリニーが覚醒した後、私にどんな世界が開けてくるのか、想像するだけで楽しかった。「生死を越える」や「イニシエーション」の体験談にあるような体験が、自分にも待っているのだと思うとわくわくしてきた。

 シャクティーパット当日、そんな期待に胸を膨らませながら、電車に乗り東京に向かった。6時間くらいかけて、世田谷の本部道場に到着した。シャクティーパットを行う場所は、道場ではなく、近くのマンションの一室であった。すでに、信徒さんが、何人かいて順番を待っていた。私も、どきどきしながら順番を待った。尊師に、単位を誤魔化したことや、日頃の煩悩的な生活を、全部見透かされるんじゃないかと不安になった。
 
 期待と不安が入り混じった状態で、2,30分待っただろうか、自分の番がやってきた。ドアを開けて部屋に入ると、本で見た麻原彰晃尊師がいらっしゃった。じっくり見ている暇はなかった。ケイマ大師が、補佐していたのかな?女の人に、横になるように言われ、仰向けに寝て、目を閉じた。すぐに、額のところに、クリームのようなものが塗られ、そこに指があてがわれた。親指で、最初はゆっくり回していたが、しだいに早く回すようになった。ぐるぐる回された指の感触は気持ちよかったが、特別何も起きない。一生懸命指を回している尊師に、修行単位誤魔化して申し訳なかったなあという気がしていた。
 
 10分か15分位続いただろうか、「はい、終了です。」と言われた。「あれっ、終わりなの。」と言う感じであった。尊師は、フーという感じで、シャクティーパットを終った。この後、尊師が言ったのか、別の大師が言ったのか、今となっては定かではないが、「細いですが、クンダリニーの道筋はつきましたからね。」と言われた。何も劇的な体験は無かったが、クンダリニーの道筋がついたと言われたことがうれしかった。

 道筋さえつけば、後は修行によって、クンダリニーの本覚醒が起こるだろうと思っていたので、とりあえず今日のところは、これでよしとしようと自分で慰めた。自分が煩悩的で、修行を怠った事が、体験をしない原因なのだろうと考えた。

 しばらく後になって、尊師のシャクティーパットについて、こんな話が流れてきた。どういう話かというと、シャクティーパットの最初の頃は、霊的な体験をさせることに重きが置かれていて、アストラル世界に働きかけるものだった。最後の頃になると、コーザルにダイレクトに、尊師の菩薩のデータを植えつけるシャクティーパットになったため、体験しづらくなったと言うのである。おそらく、シャクティーパットで体験をした人が、少なかったのではなかったかと推測される。信徒から、文句が出ないように、以前のものより高度なシャクティーパットであったかのように、言ったのではないだろうか。菩薩の種子を植えつけたなどと言われると、単純に喜んでしまう体質が、オウムの信徒にはあると思う。

 しかしながら、私は、この後、ケイマ正悟師、ヤソーダラー正悟師、マイトレーヤ正悟師のシャクティーパットを受けたが、4回とも何ら劇的な経験は無かった。
ヤソーダラー正悟師には、何を言われたか覚えていないが、ケイマ正悟師には、「怒りを無くすよう努力しましょう。」と言われた。マイトレーヤ正悟師には、「嘘」と言われた。「俺は、そんなに嘘をついていたかなあ?」確かに、現世で生きていると、嘘が多くなるけどね。

 これら、シャクティーパットに関する、一連の出来事について、私の意見をここで書き込むことは止めておく。私には、これといった体験はなかったが、他の信徒さんの中には、劇的な体験をした人もいたので、ここでは、私に起こった事実だけを、書き込むようにしたい。
 今後の、書き込みのスタイルも、出来るだけ当時の、状況を忠実に表現出来るように努力していきたいと考えている。したがって、教祖のことを、尊師と言ったり、当時のステージで、成就者を呼んだりするが、その点に関する突っ込みは、ご勘弁願いたい。

ミラレパ大師との出会い

2006-09-26 02:27:31 | Weblog
 とりあえず、オウム真理教に出会うまでの経緯は書いた。ここから先は、どんな内容を書き込んでいこうか。時系列に沿って書いていけば、分かり易いのだろうが、事細かにオウムでの出来事を記録に残すのが、私の意図ではない。それは、松本英明氏のような、内部にいた方が、事細かに書いているので、そちらにお譲りする。私は、在家信徒が、何を考えオウム・アーレフという教団と関わってきたのか、少しでも表現できれば、それで満足なのだ。

 したがって、かなり大雑把な内容になるし、時系列も曖昧だし、時にはうろ覚えのことを書いて、事実と違うことを書いてしまうこともあるかもしれない。もし、間違いを見つけられた方は、コメント欄で、御指摘いただければありがたい。即座に訂正するつもりだ。

 88年から入信して、現在まで、足掛け18年近く、オウム・アーレフの在家の信徒でいたわけだ。よく続いたと我ながら思う。もう、いいかげん、苔が生えてるような信徒だ。しかし、正直、一昨年までは、自分なりによく頑張っていた信徒だったと思う。しかし、今回の分裂によって、私の中で、何かが大きく崩れてしまった。そのため、今は、ほとんど傍観者として、教団を見ている。

 今現在の私の目に、教団がどう映っているのかを、書くことも大事なのだが、かつてのオウムという教団が、一信徒にとって、どういう意味を持っていたのかを、表現することが、実は、今後の教団のあり方を考えていく上で、大切な作業なのではないかと考えている。
 もちろん、教団の大きな動きがあった時には、その事件をメインに、書き込みをしていくが、それ以外と時は、過去に自分が関わった、オウム・アーレフの人達の話を中心に、話を進めていこうと考えている。

 堅苦しくなく、実際にあったエピソードを交えて、書き連ねていこうと思う。先ほども書いたが、時系列的な順不同が起きてしまう事だけは、ご容赦願いたい。実は、記憶で空白な部分がかなりあるのである。その理由は、事件前に、無理やり受けさせられた、ナルコのイニシエーションによって、記憶が消失してしまった部分があるからだ。そのことに関しては、後に、詳細を書こうと考えているが、そんなわけで、かなり記憶は曖昧である。したがって、思い出した出来事から、順に書いていくことにする。

 まずは、ミラレパ大師との出会いから書いてみよう。先述したように、私は、88年当時、女性問題で、大きな苦しみを抱えていた。その苦しみを、オウムの修行で、取り除けるのではないかと、大いなる期待をしていた。しかし、実際成就者という者に、会ったことも無く、話を聞いてみたこともなかった。当時は、仙台に支部がまだ無かったので、身近で成就者の話を聞く機会はなかった。

 宗教などと言う、敷居の高いものに入る前に、一度自分の目で、教団を見てから判断しようと考えた。休日を利用して、久しぶりに上京し、世田谷の本部道場に向かった。学生時代によく乗った、なつかしい世田谷線に乗り、松原駅まで行くと、駅のすぐ近くにオウム真理教の道場があった。

 おそるおそる、ドアを開けたら、女性スタッフが現われた。何か御用ですかと聞かれたので、成就者の方と、お話がしたいのですが、ということを話したら、早速取り次いでくれた。その時に、面談してくれたのが、ミラレパ大師だった。

 マハーヤーナに載っていた、見たことのある成就者が、目の前にいた。結構、緊張したような覚えがある。すらっとした青年で、物腰は、柔らかだった。どのような、お話ですかというので、実は今、女性問題で悩んでいて、こうこうこうで、どうすべきか分からないでいますという話をした。ミラレパ大師は、蓮華座をきれいに組んだまま、姿勢をまっすぐにし、静かに目を閉じて、私の話を聞いていた。私の話が終ると、静かに目を開け、説明を始めた。そんなに、たくさんの話をしたわけではないが、アナハタチャクラに傷がありますねと言われた。それと、スヴァジスターナチャクラにエネルギーが集中しているので、修行によって、それを昇華させれば、今の苦しみは、確実に取り除かれますよとのことだった。
(後に、別の正悟師や師にも、アナハタチャクラの傷の話を聞かされたので、不倫した者は、アナハタに傷がついているというのが、オウムの定説のようになっているのかなと思った。)

 面談は、それほど長い時間ではなかったが、なんとなく、満足した気持ちになった。自分の苦しみを、分かってもらえたような気分になったからだろう。それと、会った人達が、それほど変な印象を与えなかったので、帰ってからまもなく入信の手続きを取った。

 その後も、尊師の説法会や、イニシエーションなどで、ミラレパ大師にお会いする機会があった時も、挨拶程度は交わしていた。そのミラレパ大師こそが、後のミラレパ正大師(新実智光氏)である。あの物静かな青年が、坂本弁護士一家殺人事件など11事件で、計26人を殺害したとして、殺人罪に問われ、死刑判決を言い渡される人物になるなど、誰が予想出来ただろうか。

オウム真理教との出会い

2006-09-25 03:13:05 | Weblog
 実家に戻ってからも、彼女とは、電話のやりとりを結構していたし、週末を利用して会うことも出来た。ただし、実家にいては、以前のように、頻繁に会うことは出来なかったのは確かである。今考えると、かえってそのほうが、二人のためには、良かったのかもしれない。近いところに一緒にいて、しょっちゅう会っていると、どうしても、自分のエゴをぶつけたくなりがちである。特に、独身者の私は、自分のことだけを、考えていれば良かったが、家庭を持っている彼女は、そうはいかない。結局、失うものが無い私が、煮え切らない彼女を、攻めるという構図が出来上がっていた。しだいに彼女が、独身者でなく、妻帯者と不倫をすれば良かったと思うようになったのもわからないでもない。

 そう、彼女は、私が実家に戻って2年ほどたった時、妻子ある男性と関係を持つようになるのである。その男性は、私の行きつけのスナックに、よく飲みに来ていた消防士であった。私もよく知っている男だった。

 しかし、このことを書く前に、最も大切な出来事である、オウム真理教との出会いについて触れなくてはならない。

 私が実家に帰ってから、1年ほど過ぎようとしていた時である。彼女との関係は、相変わらず進展を見ず、闇の中を、いつ出口が見えるのかわからないまま、日々の生活を送っていた。実家に帰っても、酒の量は減らず、ほとんどアルコール依存症のように、毎日飲んでは、憂さを晴らしていた。

 子供たちとの関係についても触れておきたい。本当は、子供たちに申し訳なくて、あまり書きたくないが、懺悔のつもりで、あえて書かせていただく。私生活で、こんなに、ぐちゃぐちゃになっている教師が、良い教育など出来るわけがない。頭の中は、女のことでいっぱいなんだから、全てにおいて上の空である。子供の本当の内面を探るわけでも無く、上っ面だけで判断する薄っぺらい教師になっていた。おまけに、毎日深酒をして、二日酔いで、酒臭いまま教壇に立っていた。午前中はグロッキー状態で、ぐったりしていて、給食を食べてようやく復活するような教師である。子供たちがついてくるわけがない。子供との関係も、ぎくしゃくしており、それを、どう修復していいのかも分からず、全くのお手上げ状態だった。

 自分の私生活にも、職業にも自信が持てず、途方に暮れていた頃、本屋で一冊の本に出合った。「マハーヤーナ」という本であった。表紙には、ピンクのサリーのようなものを着た男が、横を向いて微笑んでいる写真が載せてあった。「なんじゃこの男は?」。ものめずらしさから、本を手に取ったのが最初だった。もう一冊、マハーヤーナの第二巻も置いてあった。こちらには、きれいな女性が微笑んでいる写真が載せられていた。この女性の微笑みに引き付けられた。中を見ると、なんと、悟り、解脱について書かれた本であり、おまけにヨガをベースに修行をするらしいということが分かった。学生時代、精神世界の本を捜し歩いていた頃の記憶がよみがえってきた。

 早速、2冊とも買って、家に帰ってむさぼるように読んだ。チャクラやクンダリニーなどの言葉は、すでに知っていたので、あまり抵抗無く頭に入ってきた。しかし、アストラルやコーザル、ラジャス、タマス、サットヴァなどやたらカタカナの言葉が出てきて、言葉を理解するのに苦労をした。しかし、悟り、解脱こそが、私の出口の見えない現状を打破する、唯一の方法であると思った。
 ケイマ大師の成就体験記は、かなりインパクトがあった。こんな体験が出来るなら、修行してみたいと思った。

 そこからはもう、オウムの本を買いまくって、片っ端からむさぼるように読んだ。とにかく面白かった。私の興味関心の全てに合致していた。悟り、解脱、ヨガ、超能力、神秘性、大乗の救済。私の欲しかったものが、全てそろっていたのだ。当然のごとく、のめり込んだ。読み進めていくうちに、シャクティパットなるものがあることを知った。これは、クンダリニーを目覚めさせるために、絶大な効果を発揮する技法であるらしい。私はすでに、クンダリニーが、人間を驚異的に変革させる原動力であることを知っていたため、なんとかしてクンダリニーを目覚めさせたいと考えていた。それが、シャクティーパットで実現できる。なんとしても、シャクティーパットを、受けてみたくなった。

 オウム神仙の会から、オウム真理教に変わったばかりの時で、なんだよ、宗教か~、どうしようと少々迷った。しかし、シャクティーパットの誘惑には勝てず、入信することに決めた。1988年のことである。
 
 入信してからは、出版された書籍を買い漁り、分からないなりにも、教義を一生懸命学んだ。我々には、なぜ生老病死があるのか、仏教的な戒律が、なぜ必要なのか、どうすれば苦しみから解放されるのか、スパスパと自分が長年疑問に思っていたことが解決されていき、学ぶのが本当に楽しくて仕方が無かった。

 自分が見つけた素晴らしいものを、人に教えたくなるのは人情。彼女に会った時、オウムについての話をした。オウム真理教という、教団に入信したことを話し、このような、すごい教えがあってね、解脱、悟りが得られるんだよと言う話をした。そうしたら、彼女に「私は、宗教をやるような弱い人間は嫌いなの。」と言われた。彼女の中には、宗教は、現実に向き合えない弱い人間が、神仏の力にすがるものというイメージがあったらしい。いやいや、そうではないのだよという説明をしても、なかなか理解してもらえなかった。

 教義の理解もいくらか進んできたある日、彼女から、電話で、別な男性と付き合っていることを打ち明けられた。物理的に離れているとはいえ、彼女を信じていた私は、話を聞いた時、我が耳を疑った。相手は、私も知っている男であった。また、泥沼の復活である。当然、電話で彼女を責めた。会った時も、どうしても、そのことで口論になる。なら別れればいいのに、彼女を失うことが怖くて、別れることすらも出来ない。泥沼状態のまま、月日だけが過ぎて行った。
 
 そんなある日、彼女と電話で話していて、いつものように、彼氏の関係について口論になり、私が、彼女をなじっていたら、彼女が、小さな声で「もう、許して。」と言った。その言葉を聞いた時、はっとした。私は、この世で最も愛したい相手を、苦しめていたのだと理解した。その時、愛と愛情は違うものなのだ、という教えを思い出した。愛情は、相手から見返りを求めるが、愛は、相手からの見返りを一切求めることなく、相手が成長するためなら、喜んで身を引くことが出来るのだという違い。私の感情は、愛情であったと理解した。そこで、全てが吹っ切れた。彼女を、本当の意味で愛する実践をしようと思った。その日を境に、彼女を責めることはなくなった。

 それからは、逆に、彼との関係や、子供に関する相談を聞いてやる、相談相手に徹した。もちろん、彼氏の話を聞かされる時、最初の頃は、嫉妬が湧き出てきて、苦しかったが、しだいに、それにも慣れていった。やはり、心が落ち着いていった背景には、教義の理解が大きかったように思われる。

 そんな、相談者と、聞き役の関係が続いていたある日、彼の浮気が、相手の奥さんにばれたらしいという話を聞いた。彼の家庭は、まだ子供が1歳になったかならないかくらいであった。奥さんは、怒りまくったらしい。しばらく日にちが過ぎてから、すさまじい話を聞かされることになった。

 なんと、怒り狂った、彼の奥さんは、彼女がいない時に、彼女の家に上がり込んで、旦那様を寝取ったというのである。なんとも、恐ろしい話である。奥さんは、復讐を果たしたのだろう。それを見せられた彼女は、怒り心頭で(私に言わせれば、自分が原因を作ったのだから、怒る必要はないと思うのだが)旦那様を責めたらしい。かわいそうなのは、彼女の旦那様である。さんざん、嫁さんに裏切られ続け、挙句に、浮気相手の奥さんの復讐のために利用されてしまった。結局、彼女は、旦那様と離婚。彼のほうの家庭も離婚。ダブル離婚という結末で、二家族が崩壊して全てが終った。一番の被害者は、子供達であったろう。今だから言えるが、私が、家庭を壊さなくて本当に良かったと思う。

 離婚後もしばらく、いろいろ相談にのってやっていたが、去るものは日々に疎し。しだいに、電話もかけなくなり、彼女との縁も完全に切れた。オウム風に言えば、カルマが切れたのだろう。

 長々と、過去の恥を書きなぐってきたが、オウムとの出会いに至る経緯を語る上で、どうしても避けて通れない話であったので、詳細を書かせていただいた次第である。

波乱万丈人生の幕開けpart3

2006-09-24 02:19:16 | Weblog
 「苦ありて信あり。」この言葉は、オウムに入ってから知った言葉である。まさに、彼女との出会いは、苦の始まりであった。もちろん、彼女が、一方的に悪いなどと言うつもりは毛頭無い。自分が、彼女に執着したが故の、苦悩だったからである。しかし、彼女との出会いが、オウムに入信するきっかけになったのだから、まさに、「苦ありて信あり。」を地でいったようなものである。したがって、不倫話は、少々長くなるが、私の心のリハビリも兼ねて、詳細に記述していくつもりだ。

 私のブログを眺める人など、あまりいないだろうが、不倫話に、もうしばらくお付き合い願いたい。 

 変な話で恐縮だが、彼女と最初に関係を持った時、彼女には申し訳ないが、私の心の奥底で、何か得体の知れないものに、捕らえられたような、妙な感覚があった。死んだ、ばあさんが、孫の私に、「男が身を滅ぼすのは、酒と女だから気をつけなくてはならないよ。」とよく言っていた。私の未来を、予言していたかのような言葉だった。しかし、私は、せっかくの、ばあさんの戒めを、両方とも一度に破って、奈落の底へ向かうトロッコに乗ってしまった。まさに、これが、カルマというものなのだろう。 

 彼女との関係が、深くなればなるほど、執着が強くなり、彼女の全てを自分のものにしたくなる。しかし、どうあがいても、彼女は自分のものに出来ない。この苦しみは、想像を絶するものがある。仏教的に言えば、求不得苦(ぐふとくく)、「得ようとしても、得られない苦しみ。」ということになるのだが、その当時は、当然そんな言葉は知らない。

 「不倫は、文化だ。」などと、のたまった芸能人がいて、一時期物議をかもしたが、お互いが、ゲーム感覚で欲望を満足させるために付き合うのなら、別れてもたいした傷も残らないかもしれないが、本気の不倫は、地獄を見る。

 確かに、会って二人きりの時は、この上も無く楽しいのだ。彼女を、自分が独り占めできるのだから。しかし、彼女は、時間がくれば、彼女を待つ、旦那様やかわいい子供たちのところに、帰さなくてはならない。それは当然のことなのだ。頭では分かっている。しかし、本音は、絶対に帰したくないのだ。彼女と別れた後、一人部屋に戻る寂しさ。彼女は、旦那様にも、私に見せたような笑顔を見せて、微笑むのだろうかと思うとやりきれなかった。

 私は、何度も、旦那さんと別れてくれないかと頼んだ。しかし、彼女の答えは、「子供のことを考えると、そんなに簡単に別れられない。もう少し待って。」というものだった。冷静に考えれば、確かにその通りなのだが、その結果、私は、いつまでも出口の見えない、闇の中に居続けなくてはならなかった。

 この状態が、一日二日で終るなら耐えられるが、彼女との関係は、実に7年にも及んだ。今書いていても、よくそんなに続いたものだと、我ながら感心する。当然、こんな状態が、長く続けば、精神的にも、肉体的にもおかしくなってくる。そのバランスを保つために、酒の量が増え、気持ちがどんどん荒んでいった。飲んでいても、つまらないことで、他のお客さんにからんで、怒鳴りつけてみたり、記憶を失うほど酒を飲んだりした。酒を飲んでいない時は、砂を噛む様な気持ちというのか、鉄さびが胸に詰まっているような感じがいつもしていた。

 そんな私の気持ちを弄ぶためなのか、嫉妬する様を見て、私の愛情を推し量ろうとしたのか、分からないが、彼女は、他の男と飲みに行って、ちょっかいを出された話や、旦那様との、夜の営みの話などをすることがあった。若い私は、嫉妬で気が狂いそうであった。いやもう、すでに、半分狂っていたのかもしれない。

 ある時、部屋で彼女と酒を飲んでいて、いつものように、別れろ、別れられないという口論になった時、もう全てを終わりにさせたくなって、台所にあった包丁を持ってきて、彼女に突きつけた。「一緒に死んでくれ!」涙を流しながら、声を振り絞って叫んだ。彼女も、泣きじゃくりながら「お願いだから、殺さないで。子供たちがいるの!お願いだから・・・。」と私に叫ぶように哀願した。「子供がいるの!」と言われて、正気になった私は、包丁を床においた。あまりにも、自分達が惨めで、その夜は、二人で抱き合って泣いた。

 僻地経験は、4年が満期になっている。いよいよ、彼女のいる町から、物理的に、離れなくてはならない時がやって来た。実家の近くの、自分の母校への赴任が決まっていた。4年間の付き合いで、さすがに、私も彼女も、疲れ果てていた。精神的なリハビリもかねて、実家に帰るのは良い事だろうと考えた。もちろん、彼女と別れるのは、死ぬほどつらかったが、会おうと思えば、車で1時間くらいで来れるし、電話も出来るだろうと思った。

 実家に帰ってから後も、3年間彼女との関係が続いた。それは、つまり、さらなる地獄が、口を開けて待っていたということだ。

波乱万丈人生の幕開けpart2

2006-09-23 01:16:33 | Weblog
 電話に出ると、女性の声で、「もしもし、私、覚えてる?」 と言われた。聞き覚えのある声だった。心臓がどきどきしていた。「はい。覚えています。先日はどうも・・。」と答えた。「この前のお店にいって、あなたの名前を聞いたのね。それで、電話帳で探してみたら、あったので電話してみたの。」と言うではないか。やっばーい。彼女に名前と電話番号知られちゃったのだ。私は、声の調子を変えずに「そうなんだ。」と答えて、平静を装ってはいたが、心臓はバクバクしていた。

 こちらの動揺をよそに、彼女は 「これから会えない?」と切り出してきた。私も、これは、なんとかしなくちゃならない。早めに、きちんと彼女と話し合っておかなくては、まずいことになると思い、会うことを承諾した。

 もう、暗くなっていたが、人気の無い場所で、私の車に二人で乗り込んで、先日のことについて、話し合った。最初は、他愛も無い話をしていたが、いよいよ本題に入り、先日は、飲んだ勢いとはいえまずかった、これっきりでやめましょうと言う話をした。そうすると、彼女は、私は気にしていないのよ、大丈夫だからと言った。何が大丈夫なのか分からないが、これっきりにするのは嫌だと言う事だったらしい。

 しばらく沈黙があった後、手を握られ、おもむろにキスをされた。面食らった私は、今までの話はどこへやら、理性のタガが吹き飛んでしまい、夢中で彼女を抱きしめていた。今になって考えてみると、彼女にとっては、年下の男などちょろいものだったのかもしれない。何がどうなったのか今となっては、詳細を思い出せないが、別れる話をしに来たのに、あろうことか、二人でそのままホテルに直行してしまった。大馬鹿者の一丁上がりである。

 それからは、もう歯止めがきかなかった。彼女の旦那様は、彼女を信頼していたのか、結構、夜でも彼女を自由に出歩かせていた。そのため、夜も二人で飲みに行ったり、カラオケに行ったりする機会が多かった。休みの日は、昼間二人でドライブに出かけたりもした。もともと、小柄でかわいらしい感じの女性だったが、仕事はてきぱきこなすタイプで、私の好みの女性でもあった。そのため、最初逃げ腰だった私も、次第に彼女に引かれていき、どんどん執着していった。
 
 それは、まさに、蟻地獄に足を踏み入れてしまった蟻のようであった。気がついた時には、彼女無しの人生が考えられなくなっていた。大いなる苦悩の始まりである。

 彼女には、子供が二人いたが、下の子はまだ、当時幼稚園に通っていた。身体も小さく幼かったので、彼女もまだ、私との関係を怪しまれないだろうと考え、一緒にドライブに連れて行ったりして遊んでいた。3人で一緒にドライブに出かけた帰り、彼女が車を運転し、助手席で、私が子供をだっこして帰ることがよくあった。その時に、この子供たちを引き取って育てようと本気で考えていた。形は不倫と言う許されない恋の形でも、困ったことに私は、本気になっていたのだ。

 「金曜日の妻達へ」や、明石家さんまさんの出演した「男女七人夏物語」で、不倫ブームが起きるのは、もう少し後のことである。

波乱万丈人生の幕開けpart1

2006-09-22 12:22:38 | Weblog
 大学卒業後は、地元で教員になろうと考えていた。大学でも教職課程を履修しており、中学・高校の社会科の教員免許を取得していたが、当時、地元のほうでは、社会科の教員の枠が無く、入れない状況だった。仕方が無いので、玉川大学の小学校課程に編入学し、一年間のスクーリングで小学校過程を終え、小学校の教員免許を取得した。その年に、地元の教員採用試験を受け、なんとか合格。晴れて小学校の教師になった。

 ここからは、波乱万丈人生の幕開けになり、書くのも少々気が重くなる。いろいろなことがあって、悔やまれることのほうが多いかも・・・。ほとんど、受け持った子供たちへの懺悔のつもりで書こうと思う。

 新米教師の配属先は、全校生徒54人の小さな学校だった。私の地元では、教員になると、一度は僻地と呼ばれる小規模校に勤務しなくてはならない決まりがあった。私の場合は、最初の赴任校が、僻地の小規模校であった。僻地と行っても、20分くらいで町に出れるような便利なところで、私は、隣の町から車で、通勤していた。春になると学校の目の前のこんもりとした山に、ピンクの桃の花が一面に咲き誇り、それはそれは美しい風景を楽しむことが出来た。そこで、5年生12人と教師生活が始まった。子供たちは素直でかわいかったし、親御さんも協力的で、新米教師を盛り立ててくれて、順風満帆の教師生活を送れるはずだった。

 そんな生活が崩れたのは、赴任してから半年くらいすぎた頃だろか。もともとお酒が好きで、学生の頃から居酒屋やスナックに飲みに行っていたのだが、一人の寂しさもあって、アパート近くのスナックによく行くようになった。ある日、そのスナックで、一人の女性と知り合った。私より少し上かなと思っていたが、話が面白くて、意気投合してしまった。二人でしこたま飲んで、さらに、私の部屋に行って飲んで、そのまま、お泊りコースになってしまった。

 当時私は、25歳、若気の至りとはいえ、何をやってたんだか・・。今考えると冷や汗が出てくる。後で分かったのだが、彼女は当時29歳、私より4つ年上で、旦那様と二人の子供がいた。次の日、目が覚めたときには、彼女はもういなかった。二日酔いの寝ぼけた頭で、昨夜のことを思い出して、彼女が旦那様の事を話していたことを思い出して、青くなった。飲んだ勢いとはいえ、不倫してしまった。旦那さんにばれたら、一巻の終わりだと思った。

 幸いというかなんというか、彼女は、私の苗字も知らなかったし、電話番号も知らないし、このままおとなしくしていようと思って、さすがに飲みにいくのもやめて、2,3日家でおとなしくしていた。3日ほどたって安心していた私の元に、夕方一本の電話が入った。彼女からだった。血の気が引いた。

オウムと出会う以前(大学時代part2)

2006-09-22 00:50:22 | Weblog
 大学時代、その他、何に感化されただろうかと、つらつら思い返してみると、幕末に生きた人物達に大変な興味を持ったことを思い出した。特に吉田松陰と坂本竜馬、高杉晋作あたりにはかなり心酔していたように思う。坂本竜馬は司馬遼太郎の著書で、ファンも多いと思うが、私は吉田松陰が好きでたまらなかった。なにより、彼の純粋な生き様が好きだった。私心を無くし、公のために生きる。そこには、己が命さえも顧みない潔さがあった。そんな、生き方ができれば、男子と生まれし本懐を遂げられると思った。たまたま、アパートが松陰神社のそばにあったので、在りし日の松陰先生の姿を思い描いて、歩いてよく神社に御参りに行ったものである。

 そういえば、高校時代に学生運動に関する本を読んで、自分も大きな時代のうねりの中に身を置きたいなどと考えていた時もあった。しかし、私が大学に入った頃には、すでに学生運動は下火になっており、そんなものに参加するのは、少々時代遅れであった。ここら辺が、幕末の人物にのめり込んでいった原因かもしれない。自分が、現実の世界で出来なかったことを、幕末の志士達の生き様に投影させて、ヒロイズムを感じていたのかもしれない。

 その他には何があっただろう、そうそう、結構大きな影響を与えたのが、平井和正著の「幻魔大戦」であった。この本は、後に映画にもなった。映画はあまり面白くなさそうだったが、小説のほうは、面白くてむさぼるように読んだ。宇宙の絶対なる破壊者である幻魔が、地球を破壊しようとやってくるが、それに対して、前生から転生した地球上の超能力者が結集して立ち向かう話である。闇の勢力に対して、光の軍勢ががどのように立ち向かうのか、そこがなかなか読み応えがあった。しかし、長編の上に、新説やらなにやらいろいろ出てきて、最後は、どうなったのか分からないまま尻切れトンボになっていたように記憶している。平井和正さんには、是非最後まで書き終えていただくことを要望する。

 あと忘れてならないのが、「仏陀再誕」とい本である。これは、ラーマクリシュナ・パラマハンサの生涯を描いた本であるが、これには非常に感動した。現在でも時々読み返してみるが、何度読んでも、彼の言葉には新たな感動を呼び起こされる。ヴェーターンダ哲学や不二一元論などについてもその時初めて知った。

 あとは、宇宙船艦ヤマトの映画もあった。映画を見に行ったりもしたが、それほど大きなインパクトは受けなかったように思う。

 まとめると、大学時代の特徴としては、本山博氏の著書に巡り合って、修行の真似事を始めたことと、幕末の志士達の生き方に心酔したこと、幻魔大戦の小説に出てくるような、光と闇の戦いに興味を持ち、超能力に対するあこがれがさらに強まったことなどが挙げられる。
 その他には、ノストラダムスの大予言から幻魔大戦まで、ハルマゲドンに象徴される世紀末思想を、強く引きずっていたことも、特徴として挙げておきたい。そんな中で、ラーマクリシュナ・パラマハンサという、偉大な聖者の存在を、知ることが出来た意味合いは大きかった。