白龍のオウム・アーレフで過ごした日々

オウム・アーレフと新団体「ひかりの輪」について考える。

オウムとサリン事件

2012-06-17 19:20:48 | Weblog

ついに最後の逃亡犯高橋容疑者が逮捕されました。

見つかって良かった。正直そう思います。17年間どんな思いで隠れていたのだろうか。真理を実践している意識はあったのだろうか。捕まったときオウムの本を十数冊持っていたそうだが・・。

 しかし、改めて、なぜオウムにあれほどまでにのめり込んでいったのか自ら振り返ってみた。まず入信前の自分は、私生活がぐちゃぐちゃだったということに加え、諸々の思いが交錯していた。

 たとえば、お金の大切さは当然のことながら知っていても、拝金主義的な考え方には到底なじめず、軽蔑すらしていた。しかしながら社会では、大金持ちは人々に認められ、金のない者は鼻も引っかけないのが現実。自分も大金持ちになってみたいが、そう簡単になれるものではない。特別な能力があるわけでもなく、自分が何か大きく認められるような努力をしているわけでもない。ただ普通に仕事をして日々無為に時間が過ぎていくだけ。

 混迷を続ける世界を救いたい気持ちはあるが、救える力があるわけでもない。自分になんらかの能力があるなら、その能力を発揮して人々を救いたい。しかし現実には、世の中の矛盾を横目で見ながらなんとなく生きている毎日。自分の存在意義はあるのだろうかと問う毎日。日々生きていく生活の中で感じる大きなストレス。その苦しみを超えたい。今の自分を変えたい。変わりたい。そんな心の葛藤や屈折した思いが強かったように思われる。

 別に最初は麻原彰晃のオウム真理教でなくてもよかった。何らかの形で自分の能力が発揮でき偉大な存在に自分を変革させてくれるものがあるなら、そこに自分の身を置いたのだと思われる。たまたまオウムが、解脱を謳いヨガによりクンダリニーを覚醒させてくれるところだったので入ったのであった。クンダリニーの覚醒で自分の中に眠っていた能力が開発され、発揮できたら素晴らしいことだと思われた。

 実際、教団機関誌に載っていたクンダリニー覚醒の体験談は大変魅力的であった。ここで麻原からシャクティーパットを受ければ簡単にクンダリニーが覚醒して、自分も聖者の仲間入りができるのではないかという大きな期待を抱かせた。宗教嫌いな人間でも、能力開発という形なら、なんら違和感なく修行をしてみようかという気持ちになった。

 麻原がどのような能力を持っていたのか定かではないが、シャクティーパットを受けた人間に、何らかの体験をさせることができたのかもしれない。「かもしれない」というのは、私自身は何も感じずに終わってしまったから・・。しかし、まわりのサマナや信徒の中には、普通に目を開けた状態で相手のオーラの光を見たり、相手の考えていることを言い当てたりすることができたりという不思議な体験をする人たちが当たり前のようにいた。

 その延長線上に解脱や悟りの境地があるのではないかと思わせる要素がいろいろとあった。解脱の境地に至りたいという思いと、神秘体験をしてみたいという思いが強くあったにもかかわらず、全く自分の身にはそのようなことが起こらないと、自分は汚れが強く暗性だからそのような状態になれないのだと思ってしまう。

 そこで、自らの汚れを速やかに取り除くためにイニシエーションを受けまくり、お布施をしまくって汚れを取り除こうとする。そのような場合の借金は、オウムでは賞賛されたのだ。そしてもっと修行し教学をし真理のデータを多く入れ、清らかな自分を作り上げなくてはならないと考えた。

 そのような意識状態になってきたときに、真理の教えの体現者である麻原尊師の教えの全てを受け入れ、グルと一体になることこそが解脱への最も近道だと教えられる。そして、グルの手足となること、グルのコピーとなることを目指すようになった。

 そうこうするうちにヴァジラヤーナの教えが出てきて、真理を見通すことのできる者(物事の原因と結果を見通せる者)が、自らの身が地獄へ堕ちようとも、他の魂を救済する目的のため、悪業をなす魂を殺生したとしてそれは立派なポアになるというような考え方が出現した。

 ただし、この時は単なるお釈迦様の前生談(ジャータカ)の一つを使い、ヴァジラヤーナの教えを説明したに過ぎず、それを現実世界で行うなどということは、だれも考えてもいなかっただろうと思う。

 しかし、麻原は現実世界でヴァジラヤーナの教えを実践しようとした。オウムでは「ステージの低い者はステージの上の者の深い考えは理解できない」という考え方があり、グルの与える課題が、自分に理解できなくても疑念を持つことなく行うことこそが、帰依であり大切な修行であると考えられていた。グルのコピーとなることを目指していた人間が、グルの指令を阻止しようなどと思うわけもなくサリン噴霧に邁進したのだろう。

 この汚れた世の中に存在する魂を救うために、自らが地獄へ堕ちることを覚悟した上で殺生を行うことは偉大なポアという行為なのだと思いこみ、彼らをサリン事件へと走らせてしまったのではなかろうか。麻原の思惑はどこにあったのか?そんなことは、本人の口から語られない限り分からないが、少なくとも弟子達は魂の救済のためにやっているという意識があったと思われる。

 実行した人間は、通常ならそんな恐ろしいことをできるような人たちではない。しかし、真理に縁のない魂に真理との縁をつけ、真理勝者との縁をつけてあげるという「魂の救済」という大義名分のためなら、彼らは常識の壁を簡単に打ち破ってしまう。

 無限に続く輪廻の流れの中で、他の魂の救済のためなら、今生自らが極悪人となり世間から罵倒されようとも良しとする教えの中に身を置いてしまったのである。新見さんなどはその典型ではなかろうか。あれほどひどい極悪非道の事件を起こしても、うすら笑いさえ浮かべて逮捕されている背景には、自らはグルの意志を実現し、多くの魂を救済したという自負があるからではなかろうか。

 死刑を言い渡された人たちの中には、自らが偉大な救済の業を行ったと思いこんでおり、大満足で死を迎える者がいるかもしれない。その場合、被害者や被害者家族の方々をはじめ、社会の人々との意識のギャップは永久に埋まることはない。