気ままな推理帳

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元禄期に別子銅を天満浦から大坂へ運んだ銅船の船主は?

2020-08-23 08:41:20 | 趣味歴史推論
 切上り長兵衛を追善供養した濱井筒屋忠七は宝永6年(1709)から記録があるが、それ以前の記録を探していた。住友史料叢書「銅座公用留」に元禄14年(1701)の別子銅船の記録を見つけたので、以下に示した。1)

元禄14年(1701)
3月12日 板屋彦右衛門船上着 与州銅 124丸 凡13640斤 (8.18トン) 1)のp12,42
3月13日 川ノ江清右衛門上着 与州銅  50丸 凡5500斤 (3.30トン)  p43
3月19日 蕪崎善左衛門上着  与州銅 100丸 凡11000斤 (6.60トン) p32 p43
3月27日 手舟左七郎上着   与州銅 121丸 凡13300斤 (7.98トン) p43
3月27日 手舟又八上着    与州銅 135丸 凡14850斤 (8.91トン) p43
3月27日 手舟八左衛門上着  与州銅 135丸 凡14850斤 (8.91トン) p43
正月より3月晦日迄銅入払目録 予州手山銅上り高476750斤 (286トン)  p48
4月6日  黒嶋惣兵衛船・黒嶋吉郎兵衛船上着 与州銅201丸(13.27トン) p59
4月7日  黒嶋彦市郎船・黒嶋新七船上着   与州銅230丸(15.18トン) p61
4月11日  天満与市兵衛船廻着        与州銅101丸(6.67トン)  p71
5月2日  黒嶋彦市郎着           与州銅130丸(8.58トン)  p98
5月6日  4艘入津             与州銅465丸(30.69トン)  p101
5月14日  廻着                 銅139丸(9.17トン) p106
5月17日  廻着               与州銅80丸(5.28トン)  p112
9月7・8日  入津                 270丸(17.82トン) p175         
別子銅廻着の見積もり
与州銅凡40~50万斤(240~300トン)但し9月21日より11月中迄着船可仕哉と奉存候 p178
元禄15年(1702)
5月8日(11日予定)入津 与州銅375丸(24.75トン)うち120丸(7.92トン)は 黒嶋庄九郎舟 9日出しにて、日ノ丸御船印差上る、初登り。p290
別子銅廻着高の覚
 正月分  798丸 (52.67トン)
 2月分  1580丸 (104.28トン)
以降は、船主、船頭の名前の記載はなし。

考察
元禄15年(1702)8月に新居浜口屋が開設され、銅の送り出し港が新居浜浦に移った。開坑の元禄4年(1691)から元禄15年(1702)の間は、別子銅山から、(第一次)泉屋道を通って天満浦から送り出された。上記記録は、その時のものである。
1. 船主または船頭の名前は、地元天満浦周辺の出身や籍を示している。板屋(いたや 板谷と推測)、川ノ江、蕪崎(かぶらざき)、黒嶋(くろしま)、天満(てんま)であった。これらの村名を伊藤玉男「あかがねの峰」中の図に書き入れて示した。2)→図1 
黒嶋籍が最多であった。以前から黒嶋は大島に次いで廻船業が盛んであったので、小型廻船を銅船に向けたのであろう。3)
2.  新居浜浦の忠七の名はなかった。忠七は、新居浜口屋が開設されてから、銅船を開業した可能性が高い。
3. 銅積載量が 120~130丸程度で、後の250丸程度の約半分である。船は、100石積より小さそう。天満浦が浅瀬のためか?
4. 別子銅を運ぶために泉屋は少なくとも手船3艘を所有していた。4)
5. 元禄15年に別子銅を積んだ黒嶋庄九郎舟が初めて日ノ丸御船印(みふねのしるし)を掲げて、天満浦から大坂へ航行した。

まとめ
浜井筒屋忠七は、新居浜口屋が開設されてから、銅船を開業した可能性が高い。

注 引用文献
1. 住友史料叢書「銅座公用留・銅座御用扣」(思文閣 昭和64年 1989)
2. 伊藤玉男「あかがねの峰」巻頭図1 (発行責任者 山川静雄 第2版1994.6)
3. 気ままな推理帳「切上り長兵衛の位牌をお祀りしてきた加藤家は新居浜井筒屋に違いない」(2019.4.26)
4. 手船(てぶね) 國史大辞典9 p911(吉川弘文館 昭和63.8 1988)より
 「近世、水運に利用するため自分で所有する船をいう。手船の所有者には幕府・各藩藩主、回船問屋・河岸問屋など運輸業者のほかに物資輸送に関与する商人や農民などもいた。藩主が年貢米や台所用物資あるいは商人荷物の運送に使用する船を藩手船ともよんでいる。運輸業者は雇船で荷物を運送するより問屋手船を使う方がより収益が大きかった。」
図1.  別子銅を天満浦から大坂へ運んだ銅船の船主の出身地(伊藤玉男「あかがねの峰」巻頭図1に記入)