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山下吹(7) 足尾銅山(維新前)の山下吹

2020-08-30 08:49:59 | 趣味歴史推論
 足尾銅山(あしおどうざん)は、栃木県下野国上都賀郡足尾町(現在の日光市足尾地区)にあった銅山である。口碑に伝うる所は、慶長15年(1610)の開始なりという。以来、江戸幕府直轄の鉱山として採掘された。慶長18年(1614)頃より産銅総額の5分の1をオランダに輸出し、延宝4年(1676)より貞享4年(1687)まで12ヵ年間には吹床31坐を設けて、年々精銅1320~1500トンを産出した。
 足尾銅山の米国シカゴ万国博博覧会(1893.5~10)出品解説書(古河鉱業 明治25年 1892.5編)に記された足尾銅山の維新前の製錬法は、以下のとおりである。

「往昔より当山に行わるゝ製錬法は、すこぶる混沌なるものにして、最初に精選鉱1トンを土竈(径1m突深さ2m突にして地面を掘り石を畳みて造る)に装入し、日数15日ないし20日間をもって煆焼し、これを熔解に供す。熔解の方法は山下吹と称する本邦固有の法式にして、炉の構造は地面を掘り下げ石と粘土をもって畳み、その内部は炭末と粘土の混和物にて塗り固めたる径610mm突深さ1m突の円底炉にして、操業の始めには炭火をもって炉内を乾燥し、一吹の量は焼鉱1トンと木炭564kgを交々装入し、送風にはフイゴを用い、およそ6時間にして熔解を終る。装入物すでに熔解したる時は、送気を止めて、鉱瘴を掻除し、銅鈹の鏡面に水を散布するか、または外気の自然作用によりて冷凝せしめ、薄片としてこれを剥ぎ去り、下部に沈溜する荒銅は鉄杓にて型に汲み入る。かくすること2面をもって熔解炉1日の工程とす。銅鈹は、鉱石の煆焼に使用するものと同一なる土竈において酸焼したる後、再び熔解して荒銅を製出す。」

考察
1. 足尾銅山では、煆焼した鉱石の熔解を山下吹で行っていると書かれている。これは、素吹に相当する吹きである。すなわち素吹を山下吹で行ったということである。この素吹で得られた銅鈹を焙焼窯と同じ土竈で酸化し、次いで炉で熔解還元して荒銅を製造していた。この後半は、いわゆる奥州吹といわれるやり方である。
2. ここでの問題は、「山下吹」の素吹はいつから行われていたか、初めから山下吹と言っていたのかということである。足尾銅山開坑の慶長期に、多田銀銅山で山下吹が発明されたと筆者は推測しているので、すぐ足尾銅山に伝わるには、早すぎると思う。山下吹が導入されたのは、もっと後であろう。またそれを山下吹と言っていなかった可能性もある。明治25年の解説書を書いた技術者が「これは山下吹に相当する」と考え、書いた可能性もある。このあたりの事情はさらに調査が必要である。

まとめ
明治維新前の足尾銅山では、素吹は、山下吹であった。その続きは、奥州吹であった。

注 引用文献 
1. 米国万国博博覧会(1893.5~10)出品解説書「足尾銅山」(古河鉱業 明治25年(1892.5編)
 web. 足尾銅山跡調査報告書5 史料3. P9(日光市教育委員会 2014.3)より