気ままな推理帳

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市之川鉱山のアンチモンが奈良の大仏に使われたのか

2018-01-14 15:02:00 | 趣味歴史推論
 平成29年3月5日西条市で、田邊一郎先生の「私が市之川鉱山に学んだこと」講演会があることをたまたま知りました。愛媛県に住んでいますが、この鉱山と輝安鉱のことはあまり関心がありませんでした。鉱物、石マニアでもないのですが、ただ 多くの元素の有機金属化合物をCVD材料として合成していたことがあり、元素や結晶には興味を持っていました。そこで、先生の講演を聞きたいと思い、先生のホームページやブログを拝読し、随想に引き付けられました。2月17日に西条市郷土博物館で、素晴らしい輝安鉱や鉱山の歴史を見て、解説の英文に、「奈良の大仏の建立に錫の代わりに約7.5tのアンチモンが使われていたとも言われ、このアンチモンが市之川産の可能性がある。が歴史的記録はない」と書かれていることに見つけました。(この文は、あとでWikipedia市之川鉱山の参照文献 から「市之川鉱山の未来を考える会」の小冊子からとられたものとわかりました。)
もう少しはっきりしたいと思い、先生の著書「市之川鉱山物語」を調べたところ、p163に「なお、東大寺要録巻二 の白鑞12618斤(約7t)の白鑞は比率の重量からするとアンチモンではなく、錫をさすのであろう」と書かれていました。
その根拠をはっきりしたいと思い、インターネットで調べ、まとめました。

調査の流れ
1. 大仏殿碑文の「白鑞」はアンチモンSbか錫Snかをはっきりさせる。そのために、
①  奈良大仏の奈良時代の仏体部分の組成分析値を探す→Sb分析値が約1.7%な    ら、白鑞はアンチモンといえる。
② アンチモンでなく錫Snであるなら、Snを供給した鉱山を特定する。
③ 不純物量のアンチモンなら、銅からもたらされている可能性があるがどこの銅山か。
2. 市之川鉱山の奈良時代のアンチモンについての伊予国や郷土の史書、寺伝、言い伝え、遺跡などはあるのか。

結論 
  奈良建立時の大仏に使われた「白鑞」は、アンチモンSbではなく、錫Snである。
  よって市之川鉱山のアンチモンが使われたことはなかった。
根拠
① 創建時の仏体と推定される3か所のSb 分析値が0.06~0.08%と不純物量である。
② Snが大分県佐伯市の木浦鉱山から、供給された。
③ 市之川鉱山近くにある僧行基建立といわれる保国寺や、伊曽乃神社、王至森寺などで、この鉱山産出の白鑞が、大仏に使われたという伝承、遺物などが見つかっていない。


1. 奈良の大仏の建立時の分析値
奈良の大仏は、二度の火災で再建されており、「Wikipediaの奈良の大仏」では、「頭部は江戸時代、体部は大部分が鎌倉時代の補修であるが、台座、右の脇腹、両腕から垂れ下がる袖、大腿部などに一部建立当時の天平時代の部分も残っている」とある。その部分の分析値が見つけられれば、簡単であるがなかなか見つからなかった。奈良の文化財研究所などにはあるのであるのかもしれない。見つけた分析で最も詳しいものは、石野亮(1)の報文の14点の分析値である。なおこの分析(昭和32年)は、荒木宏(2)であるようだ。
第3表の注にNo.11(背部下の入口1m上)、No.12(上部入口付近)、No.13(左膝下部)は創建当時のものと推定とある。また江本義理(3)の第2表には、No.11に相当する部分の備考欄に「奈良時代の火中の形跡」と記載がある。
分析値は添付表参照。
この分析によれば、
    Cu   Sn   Pb   As   Fe   Bi   Sb   Au   Ag 
No.11 93.57  1.43 0.57 2.91 0.16 0.16 0.06 0.00817 0.1657
No.12 93.10 2.45 0.60 3.14 0.28 0.12 0.08 0.00886 0.1414
No.13 92.78 1.77 0.49 2.99 0.30 0.13  0.08 0.00236 0.1421

3点平均 93.15 1.88 0.55 3.01 0.25 0.14 0.07 0.00646 0.1497

  よって建立時の部分と推定される3か所の分析値平均は Sn 1.88% Sb 0.07%であり、白鑞配合割合=白鑞/(白鑞+熟銅)12618斤/(12618斤+739560斤)=1.68%に近いのは、Sn 1.88%である。よって奈良の大仏の白鑞はSnの可能性が大である。
碑文に書かれた配合物は、熟銅と白鑞のみなので、0.07%のSbは、銅か錫の不純物として含まれていたと考えられる。
また0.55%の鉛Pbは、銅の不純物か、錫の不純物か、白鑞としての錫に意図的に加えられたものか、のうちのどれかと考えられる。
2. 錫を供給した鉱山の特定
大分県佐伯市字目にある「やど梅路」のホームページ4)によれば、奈良大仏の錫は大分県木浦(きうら)鉱山産出であることが2004年にほぼ立証されたとのことです。この時点で、奈良の大仏の「白鑞」は錫であることが確実である。関係部分をコピーして貼り付けると以下のとおりです。
そうだじゅんのブログ5)にもいきさつを考察した記述がある。
 
1) 『金梅仙』。697年(奈良時代初期)韓国経由で渡来した中国系鉱山技術者。秦の武帝を崇拝した優れた霊能者。山岳信仰でムラ興しに貢献して霊亀(715年)頃、現在の木浦に定住。この地を最初に「木浦・モッポ」と呼び、武帝に祈りをささげた岩に今は御霊が宿っています。天平元年(729年)夏の終わり、権力争いに巻き込まれて山中に逃れたとき「きうら」と呼ばれるようになったようです。奈良の大仏造立の際、佐藤大膳、植木武平治、金梅仙は義兄弟の堅い契りのもと、錫と鉛を産出。長門の国へ送ったと言われ、今も「大字木浦鉱山字長門町」という地名がのこっています。
2)下段の岩の写真は、梅路の上方、西の方角に当たるセリバ谷の極めて古い壊れた坑口です。奈良の大仏建立の時、長門の国から錫と鉛を取りに来ていた力の強い人がいたので、「大字木浦鉱山字長門町」と地名が残っています。さらに地質学会の権威者によって、この坑口から微量要素のホウ素が検出されました。
2003年11月11日、分析通知書 造幣局広島支局長 神徳茂夫 印 の中で微量要素としてホウ素が認められたとあり、ほかの坑口のサンプルからは検出されていないので、セリバ谷から掘り出された鉱石を長門町錫製錬所で製造された錫だと科学的に立証され、2004年1月12日、大分県の地質学会の総会で報告されました。
3)2016年07月07日
理学博士 野田雅之 元地質学会の会長先生  昭和40年代7人ほどで木浦鉱山の錫を研究されたそうです。現在はおひとり。ご高齢になられ長い間収集されてきた貴重な鉱石サンプルはジオパークに取り組み中の豊後大野市三重町の博物館に寄贈されたとか。ご自宅でサンプルを整理されておられるのを聞きつけたバイヤーも見えるそうですが、お金に換える人に渡すとすぐバラバラになるから売らない。梅路なら大切にするだろうから寄贈するよと言って下さいました。それで鍵のかかるケースを2台新調して玄関に展示させていただきました。先生の作成された説明書付きですから、もっと広いところできちんと展示すべきですが、今はこれが限界で心苦しく存じております。先生のご尽力で500年代開発された水晶の鉱脈、鉛の谷で二次鉱物の緑鉛鉱も発見。700年代半ば、奈良の大仏造立の時、大量の錫を採掘した極めて古い鉱口のサンプル分析で微量要素のホウ素を確認。私は広島の造幣局でサンプルを分析。「長門町錫製錬所遺跡」からホウ素が検出されました。「セリバ谷の極めて古い坑口」から掘り出された鉱石が、長門町錫製錬所で製錬され、長門の国の銅に混ぜて奈良に送られた事が科学的に立証され2004年1月12日大分県の地質学会の総会で発表されました。現在「大字木浦鉱山字長門町」と町名が残っています。

3.  奈良時代の市之川鉱山アンチモンの奈良の大仏への供給を示唆する、郷土での、歴史記述、伝承、遺跡、遺物などはあるか

奈良の大仏の建立は国家の一大事業であったので、国司や官の技術者が絡んでいたはずであり、また当時の約7tのアンチモンは非常に大量であったから、その製造に携わる人も多く、採掘や製錬の痕跡を示す遺跡、遺物があってもよいはずである。

1) 伊予国の国府は今治市桜井付近にあり、市之川鉱山と40km程度離れている。
 743年聖武天皇は大仏建立を決心し、行基(668-749)に協力を頼んだ。行基は伊予にも訪れ、寺や堤防、橋などを民衆とともに作った。
2) 鉱山から直線距離で3km内に、聖武天皇時にはすでに建てられていた4つの寺や神社がある。伊曽乃神社(6)、保国寺(7)、真導寺、王至森寺(8)である。このことから市之川鉱山近くは開けていたと思われる。
3) 特に保国寺は行基の開山といわれているので、奈良の大仏の造立に、もし市之川のアンチモンが使われているのであれば、「白鑞」のことが寺伝や付近の伝承としてあってもおかしくないが、ネットで調べた限りでは見つけられなかった。
4) よって今のところ、郷土では、市之川鉱山の「白鑞」が奈良の大仏に供給されたという、寺伝、社伝、伝承、遺跡、遺物は見つかっていない。
5) 続日本紀の698年に「伊予国献白 」「伊予国献 鉱」と記述されるものが、市之川鉱山産出の白鑞アンチモンであることを裏付ける寺伝、社伝、言い伝え、遺跡、遺物を、これらの4つの所から発見したいものである。冨本銅銭や古和同銅銭に多く含まれるアンチモンの出所の可能性に対しても、伝承や遺物を発見したいものである。

4. 銅を供給した銅山
銅は主に長門国(山口県)長登鉱山のものであった(9)。
ヒ素AsとコバルトCo が多く含まれるのが、この鉱山の銅の特徴である。
酸化銅鉱石の還元製錬を主とし、硫化銅鉱石の酸化製錬もしていたであろうと推定されている。新井宏(10)によれば、前者で得た銅の微量不純物は、鉱石組成の他に、製錬温度の影響が大きく、ヒ素やアンチモンは、銅の融点降下に働くため一定量銅に入るとのことである。大仏鋳造にヒ素の多い長登の銅は、好都合であったと言われている。
1989年京都府大山崎町の山崎院跡で、円盤状の銅地金6枚が出土した(最大2680g)。
大仏鋳造に使われた長登鉱山の銅に多く含まれるコバルトや錫が検出され、鉛同位体比の分布もほぼ一致したことがわかり、平成22年秋に発表された。山崎院は大仏建立に貢献した行基が建立した寺院であることから、余った銅の一部が褒賞として山崎院に下賜されたとも考えられている。あるいは、大山崎は、水陸交通の要衝で長登銅がここを通り、奈良に運ばれ、精製され鋳造に供されたという可能性もある(11)。
この円盤状の銅地金の分析値(wt%)(12)
Sn   Pb   As   Fe   Bi   Sb   Au   Ag   Co
0.015  0.002  6.8   3.8  0.001  0.036  0.019  0.11  0.021
 
引用文献
(1) 石野亨「奈良東大寺大仏の塗金」現パ-68-6 p7  https://www.jstage.jst.go.jp/article/sfj1954/15/6/15_6_7/_pdf 
(2) (2)荒木宏 「技術者のみた奈良と鎌倉の大仏」有隣堂(昭和34)
(3) (3)江本義理「金属製文化財の材質研究」 10巻1号p52  https://www.jstage.jst.go.jp/article/materia1962/10/1/10_1_50/_pdf
(4) やど梅路 yado-umeji.jp/topics/index.html
(5) そうだじゅんブログ「民俗学伝承ひろいあげ辞典」大仏と錫 その二
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/49167647.html?__ysp=5aWI6Imv44Gu5aSn5LuPIOS9leWHpuOBrumMq%2BmJseWxseOBiw%3D%3D
(6) Wikipedia伊曽乃神社 社伝によれば、第13代成務天皇7年(4世紀半ば?)に創建。文献では、古く続日本紀天平神護2年(766)条において、「伊曽乃神」に従四位下の神階を授けるとともに神戸5烟を充てる旨が記されている。
(7) Wikipedia 保国寺 727年、行基によって創建されたと伝えられる。聖武天皇の勅願寺として創立したといわれる古刹。伊曽乃神社の裏手にある。
(8) 王至森寺 西条市在住の人(たかし)のホームページ四季の風車
http://verda.life.coocan.jp/s_history/s_history35.html  寺伝によると、舒明天皇(在位629~41)が道後温泉へ行幸の途中、燧灘で暴風雨に遭い、この時、森の中の寺で難を避けた故事に因み王至森寺と称したという。創建年(伝)舒明12年
(9) 新井宏「金属を通して歴史を観る. 奈良の大仏の銅の製錬」Boundary 2000.3 p64  http://arai-hist.jp/magazine/baundary/b15.pdf

   古代長登銅山跡の発見 池田善文「美東町史・通史編」(平成 16 年 11 月 3 日発行)http://www.c-able.ne.jp/~naganobo/mitoutyousi.pdf
(10) 新井宏「青銅器中の微量成分と製錬法」情報考古学 6(2), 29-37,( 2000)
(11) 山崎院跡出土の銅塊http://www.jcda.or.jp/Portals/0/resource/center/shuppan/dou172/d172_03.pdf#search=%27%E5%A5%88%E8%89%AF%E3%81%AE%E5%A4%A7%E4%BB%8F+%E6%88%90%E5%88%86%E5%88%86%E6%9E%90%E7%B5%90%E6%9E%9C%27
(12)  かまさい「冶金の曙」 山崎院跡出土の銅地金 http://www.geocities.jp/e_kamasai/zakki/zakki-12.html