気ままな推理帳

本やネット情報から推理して楽しむブログ

文武2年伊予国献上の白は市之川鉱山のアンチモンか

2018-01-17 10:42:43 | 趣味歴史推論
インターネットと書籍の情報によって推理する。
調査のながれ
1. 「続日本紀」に表れる 白 を洗い出し、この文字が アンチモンであるとすることが妥当かを調べる。
2. 「日本書紀」持統天皇5年の伊予国司献上の宇和郡御馬山の白銀がアンチモンを表すのかを調べる。
3. 「続日本紀」の白は、市之川産アンチモンであるのか。

検証
1. 続日本紀 索引年表 1) によれば、白 は以下の4個所に表れる。は俗字で、鑞は正字である。
① 文武2年(698)7月17日 伊予国献白。
② 文武2年(698)11月5日 伊勢国献白。
③ 霊亀2年(716)5月21日 勅。大宰府佰姓家有蔵白。先加禁断。然不遒奉。隠蔵売買。是以鋳銭悪党。多肆奸詐。連及之徒。陥罪不少。宜厳加禁制。無更使然。若有白。捜求納於官司2)。
④ 天平神護2年(766年)7月26日
散位従七位上昆解宮成得下似白者上以献。言曰。是丹波国天田郡華浪山所出也。和鋳諸器。不弱唐錫。因呈下以真白所鋳之鏡上。其後。授以外従五位下。復興役採之。単功数百。得十餘斤。或曰。是似鉛非鉛。未知所名。時召諸鋳工。与宮成雑而練之。宮成途窮无所施奸。然以其似白。固争不肯伏。寶亀八年。入唐准判官羽栗臣翼齎之以示楊州鋳工。僉曰、是鈍隠也。此間私鋳濫銭者、時或用之3)。

(1)同じ年に伊予国と伊勢国が白を献上している。これは同じ金属を表しているに違いない。
(2)伊予国と伊勢国には、アンチモン(輝安鉱)鉱山、鉱床があるのでアンチモンSbを表している可能性は高い。
その時代に採掘されていたかは不明であるが、本報告では、近代までに存在した鉱山、鉱脈を挙げることにする。その時代に採掘された可能性がゼロではないから。
伊予国のアンチモン鉱山、鉱床4)は、寒川鉱山、市之川鉱山、弘法師鉱山(砥部町川登、明治43年~)、万年鉱山(砥部町、江戸~)、優良鉱山(砥部町川登)、銚子滝鉱山(砥部町千里)、久万町富重鉱山(明治中期~)大宮鉱山(1961~、砥部市)、古宮鉱山(砥部町)、鳴滝鉱山、横道鉱山(江戸時代~、砥部市)、栃の木鉱山(伊予市)、富重鉱山、竜沢寺鉱山(江戸時代~、西予市)、嵐鉱山(宇和島市津島町嵐)、三間(宇和島市三間町の戸雁、是能)
など多数ある。
伊勢国のアンチモン鉱山、鉱床5)は、森鉱山、見江島、船津鉱山(隣の紀州国)、鈴鹿鉱山、丹生鉱山などである。
(3)伊予国と伊勢国には錫鉱山、錫鉱床はない6)。よって、白は錫Snではない。
(4)僅か2年後の文武4年(700)2月8日 令丹波国献錫。 とある。
丹波には錫鉱山6)として明延鉱山(平安初期から 日本一の錫鉱山)、多田鉱山,赤金鉱山、赤松鉱山、入角鉱山があり、飛鳥時代に錫を産出してもおかしくない。続日本紀の著者編者は、 白と錫を別の金属と認識していて、異なる字を使ったと推定する。
続日本紀で、「錫」の字で金属を指して使われた箇所は、「丹波国献錫」 と④の「不弱唐錫」の2か所だけである。
(5)①の僅か10日後に、文武2年(698)7月27日 伊予国献。 とある。
わざわざ一項目として献上し記載することは、非常に見栄えのする鉱石であるはずで、とは輝安鉱の大きな結晶である可能性が大きい。錫は伊予国では産しないし、錫(Sn)鉱石では見栄えはしないので、単独に献上したり記載したりはしないであろう。
2の日本書紀の持統天皇5年(691)の伊予国宇和郡御馬山の白銀(アンチモンと本報告の後半で推定する)の献上の場合も「あらかね」を一緒に献上しているが、それに倣った感がある。
(6)③では、大宰府の長者(おさ)が白を私蔵しており、それが私鋳銭に使用されているので、白を見つけ出して官司に収めよ との勅が出された。
「続日本紀 和銅三年(710)大宰府が銅銭を献上」の記録から考えると、年代的に私鋳されたのは古和同銅銭であり、古和同銅銭の分析値ではアンチモンが数%オーダーあるので、白はアンチモンを指すと推定される。
(7)④については、かまさい「冶金の曙」サイト7)では「宮成詐欺事件」として詳しく書いており、白を純度の低い錫(Sn)、華浪山の鉱物を輝水鉛鉱(MoS2)と推定している。
これに対し、谷口徹8)は、白を輝安鉱(Sb2S3)、華浪山の鉱物を輝蒼鉛鉱(Bi2S3)とすると内容がうまく説明できるとしている。
宮成詐欺事件の時期は、766年と①②③の半世紀も後のことである。奈良の大仏には、アンチモンSbでなく錫Snが使われていたことは、前報9)で述べたが、その時の錫Snは、大仏殿碑文(752年)で「白鑞」と表されていた。天平年(729)以降では、銅と合わせて合金を作るのは、錫Snあるいは(錫Sn+少量の鉛Pb)が主になっており、それが「白鑞」と呼ばれていたと思われる。新和同も錫Snとの合金になっている。もはやアンチモンSb は使われなくなっていたのであろう。
この④の白は、Snを指すのかSbを指すのかを決め難い。

以上のことから、総合的に判断すると、伊予国献白は、アンチモンSbである。

2. 持統天皇5年(691)7月3日伊豫國司 田中朝臣法麻呂等 獻宇和郡御馬山白銀三斤八両。鑛(アラカネ)一篭。
「白銀」は何をさすのか。
可能性があるのは、銀Ag アンチモンSb 水銀Hg スズSn である。

(1)「銀」の文字は 日本書紀全文検索1) によれば、32ヵ所あり、うちこの1か所だけが「白銀」という表記である。
その31か所の銀の出方を分類整理すると以下のようになる。
① 金銀 例 金銀之国、金銀彩色、金銀霞錦、金銀珠玉、金銀など 18か所
② 金銀銅 例 金銀銅、金銀銅鐵、金銀鐵            3か所
③銀 例「誕受銀郷」「大小靑冠之鈿、以銀爲之」「銀始出于當國」「凡銀有倭國初出於此時」「用銀莫止」「賜陰陽博士沙門法藏・道基、銀人廿兩」など8か所
④銀銭 例 「稻斛銀錢一文」「莫用銀錢」            2か所

31か所の「銀」はしろかね、しろがね、ぎん などとふりがなをし、読まれたかもしれないが、明らかにAg を表している。すなわち Ag =「銀」の一文字 である。
よって「白銀」は、Ag ではない。
(2)伊予国に銀鉱山ないので、「白銀」は 銀ではない。
もし、伊予国から 銀を献上したなら、対馬の銀と同じように「銀」一文字で表記されるはずである。日本書紀によれば、「御馬山の白銀」の17年前に対馬国から銀が発見され、献上された。初めての産銀である。
天武天皇3年(674)3月7日對馬國司守忍海造大國言。銀始出于當國。即獻上。由是大國授小錦下位。凡銀有倭國。初出於此時。故悉奉諸神祇。亦周賜小錦以上大夫等。

(3)水銀鉱山4)としては三間の東10kmのところの日吉地区に 双葉鉱山(日吉鉱山、父野川鉱山)がある。そこ産の水銀Hgが献上されたとの可能性があるが、飛鳥時代にはすでにHgは「水銀(みづかね、みづがね)」「汞」「銾」「水金(みづかね)」として表記されていたので、「白銀」と表記することはない。
また、同時に「あらかね」として鉱石が同時に献上されているが、水銀の鉱石は硫化水銀HgSで、辰砂、朱砂、朱沙、丹、丹砂など の名称でよく知られているので、そう書くはずである。実際はそうでないので、「白銀」は 水銀ではない。
但し日本書紀には、「水銀」「汞」「銾」辰砂、朱砂、朱沙、丹、丹砂は全く出現していない。
(4)錫の鉱山鉱床は伊予にはないので、「白銀」は錫ではない。
(5) 以下、「白銀」はアンチモンSbであるとする根拠を述べる。
① アンチモンSbは、銀白色に輝く金属なので、白銀と書くことは、十分考えられる。
② また同時に𨥥、鑛、「あらかね」を篭に盛って献上している。日本書紀に「あらかね」は、この1か所しかない。他の金属(銀、銅、錫)を献上するときにその鉱石を合わせて献上した例はない。なにか特別な理由があって、「あらかね」を献上しているはずである。それは、「あらかね」が見栄えのする特記すべきものであったからにちがいない。アンチモンの「あらかね」である輝安鉱Sb2S3は、非常に美しい結晶なので、同時に献上する価値がある。
③ 三間町誌10)によれば、「白銀」を産出したという御馬山とは、戸雁金山(とがりかなやま)の城山のことをいっているのではないかととりざたされてきた。昭和62年(1987)度より三か年間にわたり行われた三間町遺跡分布調査により、坑道跡から輝安鉱を発見でき、アンチモン坑道跡であることが実証された。但し、坑道が飛鳥時代に掘られたかは確認できていないようである。また、ここから西方3kmの是能の山中にも昭和16年頃まで稼働していたアンチモン鉱山がある。三間町のアンチモン鉱山の存在は御馬山が三間の山であったと言えそうである。三間付近には、金属や鋳造に関係ある地名が多くあり、伝承もあり、古代から開けた地域であったと思われる。
戸雁には、第41番札所 龍光寺がある。龍光寺の開基は空海であり、山師でもある空海は、すでに三間町戸雁でアンチモンが採掘されているのを知っていて、ここに寺を建てたと推測する。
以上のことから、「白銀」は、アンチモンSbである。


3.「続日本紀」の白が市之川産アンチモンである可能性を問う。
(1) 1.2.より、持統天皇の白銀、天武天皇の白は、アンチモンSbであった。
献上したのは、伊予国司 田中朝臣法麻呂であり、伊予総領~国司として、689~699(または703)の間あった。11)
このころアンチモンを献上した理由は、国が銅銭鋳造を本格的に行うために、銅と合金を作るアンチモンに注目し、求めていたためであろう。富本銭や古和同銅銭の原料としてである。
法麻呂は、天皇の代が変わったので、再びアンチモンを献上し、自身と伊予国をPRしたと考えられる。以前と同じ御馬山のものを再び献上したかもしれない。あるいは、新鉱山から得られたアンチモン塊をまず献上し、そして同時に送られてきた非常に立派な輝安鉱結晶を10日後に献上したとも考えられる。そうであれば、新鉱山が市之川鉱山である可能性はある。しかし伊予国には市之川以外にも砥部周辺をはじめとして、多くのアンチモン鉱山があるから、特定することは難しい。

(2)銅銭用アンチモンの点から検討する。
斎藤努らは古和同銅銭と新和同銅銭と銅産地の鉛同位体比分析を行った12)。その結果、古和同の銅産地は豊前国(福岡県田川郡香春町)の 香春岳(かわらだけ)であり、「続日本紀 和銅三年(710)大宰府が銅銭を献上」の記録から考えると、大宰府で古和同の鋳銭を行っていた蓋然性が十分あるとしている。新和同の銅は長門国長登が多い。古和同銅銭と新和同銅銭の鉛同位体比分析結果は、古代銭貨の研究者が「和銅産出と和同開珎に直接的関係はない」という説を支持している。「和銅」は、製錬しなくてもすでに金属になっている銅「自然銅」のことである。
また和同開珎25点の金属組成分析の結果、古和同銅銭の3点のSbは6.2,12.8,2.7とバラツキがあるが、それ以外の新和同が概ね0.3~0.7で、最大でも2.1であるのと比較すると、高い特徴があった。
また、飛鳥藤原宮跡発掘調査部 村上隆によれば、古和同様のSb 6.2,6.1,2.3 (Sn 0.4~1.3)であり、古和同より古くに鋳銭された富本銭は、Sb 5.1, 11.9, 7.2 (Sn 0.8~2.6)と高かった13)。
680~720年頃の銅銭(富本銭、古和同)は、銅にアンチモンSbを加えて鋳造されたものであり、Snを加えたものでなかった。錫Sn(または鉛Pb)を加えた銭は、720年以降であったと思われる14)。
大宰府で古和同銅銭の鋳銭を行っていたとすると、香春岳の銅と合金を作るためのアンチモンは、少量だったので、輝安鉱鉱山のどこでも可能性がある。伊予国だけでなく、西日本には多くの鉱山があり、地元では、香春岳の南20km福岡県田川郡添田町に、妙法鉱山、日昭鉱山がある。
もし、市之川鉱山周辺から、古和同銅銭や富本銭が多数発見されれば、市之川鉱山の可能性が少しあがる。
柴田圭子「四国出土の和同開珎」15)によれば、市之川鉱山に一番近い所では、西条市小松町新屋敷の柏木古墓(市之川の西10kmにあり、その西2kmには飛鳥~白鳳期創建の法安寺がある)から、12点の和同開珎のみが出土している(7点が現存)。写真から古和同ではないようにみえるが、確認が必要である。できれば、蛍光X線分析でSnまたはSb の確認をしたい。

(3)市之川鉱山の発見のいきさつから検討する。
明治34年(1901)に曽我部家13代 政太郎が作成した「市之川鉱山沿革史」に以下のように記載されている。
「延宝7年(1679)9月5日保野山より市之川山に通ずる道路破壊せしに付、山民に命じて修繕せしむ。親信山民と共に保野山字佛ケ峠に於て午餐を喫し休息す。然るに足下の巌石と巌石の間に鎗(やり)の穂の如き形をなせる石あり(石英ならん)。直ちに山民に命じて掘出さしめしに、其下より燦然たる一塊の金を掘出す。名づけて白目と云う。延世7年(1679)より享保15年(1730)迄に開坑せし場処左の如し。」
市之川鉱山は、曽我部親信が江戸時代に道路修繕時に輝安鉱を、全く偶然に見つけたことが始まりである。 山師がアンチモンや銅の鉱脈を探していて、見つけたのではない。飛鳥奈良時代に、輝安鉱が出ていたら、もっと早くに開発され、古い坑道や伝承が残っていてもよいのではないかと思う。そうならば、山師が嗅ぎつけて鉱脈を探していたと思う。江戸時代の発見のいきさつから考えると、飛鳥奈良時代には採掘されていなかった。

(4)空海は市之川を訪れていない。既にアンチモンを採掘していれば、山師である空海が訪れたはずである。訪れたのは、市之川鉱山の西5kmにある第64番札所 前神寺(天武天皇(673-86)時に役行者小角が開基)であった。
よって空海の時代に市之川鉱山はなかった可能性が高い。

結語
文武2年献上の伊予国白は、アンチモンである。その7年前の持統天皇5年に献上された御馬山の白銀が、宇和島市三間町産のアンチモンであるので、文武2年の献上品も三間産である可能性が高い。しかし伊予の他の地産の可能性も残されている。
奈良の大仏建立のような大事業でないので、遺跡や記録の発見は難しい。
市之川鉱山産出を裏付けるには
① 市之川鉱山近辺の寺社や伊予国府跡で、文武2年に市之川産を献上したという文字記録を発見する。法安寺にはないか。
② その時代の坑道跡や製錬跡を発見する。
③ 鉱山近辺の地、寺社、墓、古墳などで富本銭や古和同銅銭を多数発見する。
④ 市之川鉱山博物館や西条郷土博物館などにあるアンチモン塊の数点を蛍光X線分析にかけ、正倉院のアンチモン塊16)と不純物を比較してみる。似ていれば、そのアンチモン塊が市之川産の可能性があり、当時の市之川鉱山の存在を支持する可能性があるが、違っていても、何とも言えない。

結論
文武2年の白は、アンチモンであるが、市之川鉱山産の可能性は非常に低い。

参考文献と注
1)続日本紀は国史大系 続日本紀 前編後編 (黒板勝美 昭和63.4 吉川弘文館)と
新日本古典文学大系 続日本紀1~5、索引 青木和夫ら(1989.3~2000 岩波書店)
 日本書紀は国史体系 日本書紀 黒板勝美 (昭和61 吉川弘文館)
 日本書紀の全文索引は以下http://www.seisaku.bz/search3/searchn.php?word=%E6%9C%B1%E6%B2%99&mode=%E6%A4%9C%E7%B4%A2
2)勅したまはく、「大宰府の佰姓が家に白を蔵むること有るは、先に禁断を加えたり。しかれども遵奉せずして、隠蔵し売買す。是を以て鋳銭の悪党、多く奸詐をほしいままにし、連及の徒、罪に陥ること少なからず。厳しく禁制を加え、更に然らしむること無かるべし。もし白有らば、捜り求めて官司に納めよ」とのたまふ。
3)散位従七位上昆解宮成、白に似たるものを得て献る。言して曰く、「これ丹波国天田郡華浪山(はななみやま)より出でり。諸の器に和(ねや)し鋳るに、唐の錫におとらず」といふ。よりて、真の白を以て鋳る鏡をたてまつる。其後、授くるに外従五位下を以てす。また役(えだち)を興して採らしむ。単功数百にして、十餘斤を得たり。或は曰く、「これ鉛に似て鉛に非ず。名くる所を知らず」といふ。時に諸の鋳工を召して宮成とともにまじりて練らしむ。宮成みち窮りて奸(ひすかわざ)を施ゐる所無し。然れどもその白に似たるを以て、固く争ひて伏することを肯にす。寶亀八年、入唐准判官羽栗臣翼これをもちて楊州の鋳工に示す。みな曰く、「これ鈍隠なり。此の間、私に濫銭を鋳る者は時に或はこれを用ゐる」といふ。
4)渡邊武男 沢村武雄 宮久三千年 「日本地方鉱床誌(3)四国地方」(朝倉書店、昭和48.8)
愛媛県総合科学博物館「愛媛の鉱山」
www.i-kahaku.jp/research/special/kouzan/index2.htm
平谷元典 「鉱床と鉱山-日本の鉱山-」広島大学
http://home.hiroshima-u.ac.jp/yhiraya/er/Rmin_K%26K(2).html
石原舜三[日本の主要アンチモン鉱床とその成因に関する考え方」資源地質Vol.62 158(2012) 
https://www.jstage.jst.go.jp/article/shigenchishitsu/62/2/62_151/_pdf

5) 三重県総合博物館ホームページの「輝安鉱」「三重県内でも、細かい針状結晶が亀山市、松阪市、渡会郡南伊勢町などで見つかっています」とある。
木村多喜生、森岡靖「三重県森鉱山のアンチモニー鉱物について」地学研究Vol.46(3)151(1997)
以下は、三重県総合博物館 学芸員 津村善博 氏による情報
文武2年に伊勢国から献上した白を産出した鉱山は特定されていません。
① 森鉱山 三重県松阪市飯高町森 
② 見江島 三重県度会郡南伊勢町鵜倉見江島
③ 船津鉱山(国境の紀州国にあり伊勢国には該当しないが)三重県北牟婁郡紀北町新田
④ 鈴鹿鉱山 三重県亀山市安坂山町坂本
⑤ 他には、三重県多気郡多気町五桂新田 や 多気町 丹生鉱山などで少量産出した

6)河勝 (2013ブログ)日本のスズ鉱山と古代製品出土分布図(元資料は村井章介ほか「境界の日本史」
https://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/55926482.html
Wikipedia「日本の鉱山の一覧」中の三重県のうちの伊勢国相当部分と愛媛県伊予国相当https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E9%89%B1%E5%B1%B1%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7#.E4.B8.89.E9.87.8D.E7.9C.8C

7)かまさい 「冶金の曙」 宮成詐欺事件
http://www.geocities.jp/e_kamasai/bangai/ban2.html

8)谷口徹のブログ「理学部のゴミ箱(副題 鉱物才集日記)」白は輝安鉱か
http://unkonshi.exblog.jp/19211670/

9)気ままな推理帳 「市之川鉱山のアンチモンが奈良の大仏に使われたのか」
blog.goo.ne.jp/hagiustar/e/715ca342b3e06a0f5fe6c6520a4de00a

10)三間町誌 平成6年11月編集三間町誌編集委員会
 Awatennbou ブログ 三間町史跡巡り(1)(2010.6.2)
http://blog.livedoor.jp/awatennbou/archives/1346487.html#comments

11)伊予国司 田中朝臣法麻呂の経歴。持統3年(689)8月伊予総領となる(伊予着任)。持統5年(691)伊予国司となる。文武3年(699)10月 遣---直大肆田中朝臣法麻呂。判官四人。主典二人。大工二人於越智山陵。---並分功修造焉。(法麻呂はこの時点では、伊予国守を退任していた?)大宝3年(703)8月 従五位上百済王良虞 伊予守となる(法麻呂はこの時まで任官していた?)。

12)斎藤努、高橋照彦、西川祐一 「古代銭貨に関する理化学的研究—皇朝十二銭の鉛同位体比分析および金属組成分析---」日本銀行金融研究所 IMES Discussion Paper Series 2002-J-30 2002年 9月
https://www.imes.boj.or.jp/research/papers/japanese/02-J-30.pdf

13)村上隆「飛鳥藤原地域で出土した銅、青銅、金属製品」奈良文化財研究所年報1996 30-31 (1997.3.15)
http://repository.nabunken.go.jp/dspace/bitstream/11177/5239/1/AN00181387_1996_30_31.pdf
村上隆 「材質から「富本銭」を考える」考古学ジャーナルVol.454 38-42(2000)
14)東野治之 「東アジアの中の富本銭」文化財学報 Vol19,23-41(2001)
http://repo.nara-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php/AN0000711X-20010300-1003.pdf?file_id=2544
 「皇朝十二銭の原料と制作技術」歴博 第44号(2007.9.20)
https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/rekihaku/144/witness.html
松村恵司 「お金の源 素材の歴史と作り方-銅貨」 広報誌 にちぎん NICHIGIN No.41 20-23(2015)
http://www.boj.or.jp/announcements/koho_nichigin/backnumber/data/nichigin41-6.pdf

東アジア史のなかの和同開珎 ―わが国の古代貨幣に関する新見解 添田馨(詩人・批評家)アジア太平洋研究センター年報 2011-2012 3-16
https://www.keiho-u.ac.jp/research/asia-pacific/pdf/publication_2012-01.pdf

15)柴田圭子「四国出土の和同開珎」奈良文化財研究所 和同開珎出土遺跡データベース(2008) http://mokuren.nabunken.go.jp/wadou/022.pdf
正岡睦夫・十亀幸雄「愛媛県周桑郡小松町柏木古墓出土の和同開珎」,『遺跡』第35号(1996)
16)成瀬正和「正倉院伝来のアンチモンインゴット」正倉院年報17号73-76(1995)http://shosoin.kunaicho.go.jp/en-US/Bulletin/Pdf?bno=0000000114

次の三人の方々の本、ブログは、全般的に大変参考にさせていただいた。

田邊一郎「市之川鉱山物語」(現代図書 2016.5)
愛媛の鉱物鉱山のページ
http://userweb.shikoku.ne.jp/mineral/menu.html

古賀達也の洛中洛外日記
 第495話 古代貨幣とアンチモン(2012.11.22)
 第496話 越智国のアンチモン鉱山(2012.11.23)
 第497話 大宰府とアンチモン(2012.11.28)
 第498話 「古和同」の銅原産地(2012.12.02)
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/nikki8/nikki496.html

かまさい 冶金の曙 「富本銭」など
http://www.geocities.jp/e_kamasai/bangai/ban3.html