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からみ・鍰の由来(22) 万延元年南部藩主に尾去沢銅山で鉑つぶしの女たちが披露した「石からみ節」

2021-07-04 08:45:47 | 趣味歴史推論
 万延元年(1860)南部藩主利剛に尾去沢銅山の金場(かなば)で働く女性たちが、唄いながら「からめ」作業を披露した様子を、随行者の上山守古が、「両鹿角扈従(こしょう)日記」に「石からみ節」として記している。1)

「両鹿角扈従(こしょう)日記」(1860)
万延元年8月9日
・田郡沢(たごおりさわ)人家77軒ばかり 金場長さ15、6間 幅3間ばかりの長屋にて、上の方に役人出役処高くこれ在り中土間にて、両側に1間ずつ仕切りを付け、その内に山石二つずつ据えてこれ有り。ここにて1仕切り2人ずつ入りて、掘り出しせ上山しままの鉑を脇に置き、それの上にて大なる金槌にて砕く、自ら善悪を分け、又は先に尾去沢の所に書し如く、ゆり流しもここにてする。尾去沢にてはここより運びたるを精製することなり。
 何れの沢もかくのごとく由、この鉑つぶしも女どもの業なり。暁より取り付き、夕七つに休むと云う。その一人前の賃いささか5、60銭なりと聞けり。一人前の定めは、5合ばかりなり。この升目は、珍しきものなり。鉑の1枡は、米にて3斗5、6升のかさなりという。その者の働き次第、二人分も三人分も働きてその賃を取り候由、当世天下に有るまじき下直なる日雇いなり。これらをもって銅山を一世界とはいうならむ。
今日は上様の御出とてそれぞれ相応の晴れ着物、皆婦人の働きは丈短き踏み込み様の物を着けり。皆粧い、40人ばかりも有るべし、御免有りて常の通り働き申すべく旨仰せられ出候ところ、敷内改め役差図して、唄いながら鉑を打つに調子に合わせて槌音よく揃えり、いと面白き事なり。その唱を石からみ節という。数々これ有り由なり。聞しまま1、2を記せり。
   西は台所 東は床屋 いつもとんとん音がする
   赤沢山より元山よりも 鉑の出る山 田ごおり山
   親父大黒 かかあ恵比寿顔 一人娘は弁才天
   直り親父の金場を見れば 鉑で山築(つ)く富士の山
   金のべごこに錦の手綱 我も我もと引きたがる
 この節、直りに相成り候えばかくのごとく鉑出来候由にて、重さ5、6貫目も有るべしと見ゆる大塊、実に汚物なき物と見ゆ。
・尾去沢御役処よりこの金場まで都合25丁程。
 ・尾去沢にて床屋働きの者へ200疋、ここの金場へ100疋下されし由、然るにこの金場にては数人ゆい偶(を)上様より頂きとて唯遣い捨てにてはもったいなしとて小さき堂を造りその金を祭りし由なり。2)
 ・この度上様御通行に付きお目通りに働きとて、その日の粧は元よりの事、衣服用意せし者もあり、及ばず者は借用等致し候よし、奉行の計らいにて容顔余り見苦しからぬ者を択び、中には金場へ出候事無きものも容顔のよき者択びしよしなり。何者なるかこの度出るとていささか衣類等用意せしが、容顔宜しからずとて除かれ出るようなしと悔しける者有りという、この二ヶ条は後に聞きしままこれを記す。

考察
1. この文書がからめ節に関する最も古いものと見られているようである。そのためか、この中の「石からみ節」が「からめ節」の元とされている
藩主が見たのは、踊りではなく、からめ作業そのものである。それを唄いながらしたということである。踊りは付いていない。
選にもれた女の人は、さぞ悔しかったろう。辛い日になってしまった。
2. 1,2を記せりとして、5節を記しているが、特徴的な1節「からめからめとおやじがせめる-----」が記されていない。特徴的で名称のもとになっている節を書かずに済ますことはないのではないか。当日その節は唄われなかったか、その節は、当時はなかったかである。
「石からみ節」と記されている。「からむ」が名詞形になっている名称である。「石からめ節」であれば、「からめ」は命令形であり、「からめからめとおやじがせめる-----」の節があったからこそ「からめ節」の名称になったのだと思う。当時には、「からめ」が「からみ」に変化していたのか、もともと「からみ節」だったのか、あるいは、「め」を「み」に聞き間違ったのか。しかし上山は、現場の人に確認して日記を書いているはずで、現場でも「からみ」と言われていた可能性が高い。ということは、鉱滓の「からみ・鍰」と鉑石を砕く選鉱の「からみ」があったことになる。一つの語「からみ」で二つの意味を表すので、注意する必要がある。
3. 「からめ節」と書かれた江戸初期、中期の古文書、唱の本はないのだろうか。

まとめ
 鉑を打ち砕くことに由来する「からみ」という語があった。

注 引用文献
1. 郷土史学習会編「両鹿角扈従日記」p27~28(鹿角市立花輪図書館 1978)
岩手県立図書館より入手。日記の原本は、もりおか歴史文化館所蔵 
日記解説を解読学習会の郷土史家安村二郎が記しており、抜粋して以下に示した。
「この「両鹿角扈従日記」は、万延元年(1860)庚申8月、南部藩主第40世利剛公が鹿角地方を親しく巡視した際、中奥御小性として終始側近に侍した上山守古が、約1ヶ月に及ぶその間の記録を詳細に綴ったものである。両鹿角としたのは、鹿角一郡が花輪通・毛馬内通の両通に分かれていたからで、扈従はこじゅうともこしょうとも訓ずる。利剛は嘉永2年の襲封、相次ぐ天災飢饉や百姓一揆、蝦夷地出兵、戊辰戦争と物情騒然たる裡に、治政20年で南部藩最後の藩主となった人である。上山守古については今のところよく知らない。万延元年御城下身帯帳をみると、上山氏はただ一家で、225石 上山半右衛門とあるから、守古はその嫡男ででもあろうか。表紙の扈従日記と題した傍らに廣崇扣と記しているので、諱をかく称したものと思われる。(以下略)」
2. web.「言葉を面白狩る」>金百疋
【疋】(岩波日本史辞典)
 江戸時代の金の貨幣単位。主に儀礼の際に用いた。銭10文を1疋と称したが、金1両が銭4貫文と公定されたことから、小判・一分判をそれぞれ金400疋・金100疋と称して授受した。

図 「両鹿角扈従日記」尾去沢銅山の部分



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