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立川銅山(23) 佐々連鉱山のはじまりは「みょうが」間符か

2023-02-12 09:19:22 | 趣味歴史推論
 佐々連鉱山(さざれこうざん)が元禄2年に大坂屋によって開坑されたということを裏付ける史料を探がしているが、見つからない。江戸期の情報を得るため、住友史料館史料で佐々連鉱山廻りの銅山見分記録を探した。「宝の山」に1ヶ所、「諸国銅山見分扣」に4ヶ所、「別子銅山公用帳一番」に1ヶ所あった。これらについて、場所や時期を検討する。なお「別子銅山公用帳一番」の箇所は、以前の本ブログ「立川銅山(20)」で、新宮鉱山を指すのではないかと書いたが、「いやだに」が阿波の祖谷渓ではなく、小川山村にあった「弥谷」であることが、今回の検討でわかったので、「立川銅山(20)」から削除し、ここに移した。

Ⅰ. 住友史料の記録  1)
「宝の山」(宝永末年頃~元文5年(1710~1740))→写1
1. 一柳
・大樽山銅山    役に立ち申さず候。
 同領
・小川村銅山    役に立ち申さず候、 但し先年三嶋の者稼ぎ申す由。

「諸国銅山見分扣」→写2
2. 元文3年(1738)
伊予国松山御預り所
宇摩郡小川山村御林の内銅山
・めうか(みょうが 茗荷 冥加?)間符1ヶ所 凡そ20間程掘り入り。
・大さこ(おおさこ 大迫)間符1ヶ所 凡そ16,7間掘り入り。
但し川之江御代官石井武兵衛様より、見分致し候様に仰せ付けられ、立川銅山手代重右衛門・この方市兵衛 同道にて罷り越し、見分致し候所、宜しからず候故、その趣書付をもって、川之江御陣屋へ申し上げる、望之無き候。
3. 明和元年(1764)11月、手代半兵衛・山留岡右衛門見分
 当国宇摩郡
 ・小川山村の内さゞれ山の上、ふと尾裾
 但し先年この方市兵衛・大坂屋重右衛門見分致し候めうが(みょうが)鋪の続きにて、横𨫤、大堅石のかみ出し、とう金鉑2,3寸面顕これ有り、用立ち申さず、望なし、重ねて見分無用に候。
4. 明和8年(1771)
 伊予国松山御預所
 ・宇摩郡小川山村御林の内銅山之有り、大坂銭屋四郎兵衛手先者の由、両人荷持1人召し連れ、川之江亀屋金八と申す者案内にて見分に罷り越し、宜しき見うけ候か、津ノ口・中宿・道法等まで見届け帰り、重ねて罷り越し候様に風聞専らこれ有りに付き、川之江御手代衆並び御用聞より、右の趣内々申し来り候に付き、捨て置きがたく、これによって、明和8年(1771)卯5月、炭方役頭嘉兵衛、山留義右衛門・横番1人召し連れ見分致し候処、右大坂者見分の場所、古鋪水溜まり、引立相見え申さず候に付き、またまた取明見分、同月左の人数差し遣わす。
 手代 勘助、 山留 勘平、 堀子 1人、手子 4人 〆て7人
5. 明和8年(1771)
 伊州宇摩郡松山御預り所の内
 ・小川山御林の内、ばんしょう山(番城山)金山谷めうが(みょうが)と申す処古鋪1ヶ所
 但し、四ツ留より21間下り、水溜りこれ有り、5間余り取明、見分致し候処、四ツ留より焼け幅3尺ばかり通りこれ有り候えども、段々下るにしたがい、𨫤筋小さく相成り、青石に飛び付きこれ有り候えども、引立手前1尺ばかりにて食い詰め候に付き、底へ𨫤筋通り申すまじきと相見え、用立ち申さず候。
 ・同所の内、下りとぢと申す所古鋪1ヶ所
 但し、14,5間程走りこれ有り候、四ツ留にては焼けこれ有り候えども、1間も走り候てより、残らず千枚(せんまい 雲母片岩)に相成り、何もこれ有り物とは相見申さず候。
 ・同所の内、大ざこ(大迫)と申す処古鋪1ヶ所
 但し、これは潰込(つえこみ)おり申し候、四ツ留にて見分致し候えども、青の堅石にて望これ無しゆえ、取明申さず候。
 ・同所の内、おも谷と申す処古鋪1ヶ所
 但し、4,5間程走りこれ有り、これは青葉ふしにて、何もこれ無し、ことに谷端にて、水出候時は致し方無しの鋪にて、望これ無し候。
 ・同所中ノ川の奥、灰釜と申す処、焼けこれ有りよし申すに付き、参見候処、躰もなき薄焼けにて、用立ち申さず候 
 〆5ヵ所

6. 「別子銅山公用帳一番」(元禄5年(1692))2)→写3
 乍恐奉願上銅山の御事 
・宇摩郡御支配所小川山村の内さざれ・い屋谷の間、あしざこと申す野山にて、銅山に成るべき所見立て、当秋御両所様に御断り申し上げ候。御林山近所にて御座なく候に付き、引き割り仕り見申し候所に、鉑筋御座候。問吹き仰せ付けられ下され候はば、歩付をたしかに以て成銀元・受人相立て、願書差し出すべく申し候、尤も問吹き仕り候節は、御両所様へ御断り申し上げべく候、恐れ乍ら 殿様へ仰せ上げられ下され候はば、ありがたく奉るべくあり候。 以上
                 妻鳥村  市郎兵衛 印
 元禄5申年11月
是は吉左衛門様御在京の内申し登り、問掘仰せ付けられ候


Ⅱ. 小川山村の村域や地名、領主などの調査
 先ず、上記古文書に書かれた地名の場所を特定し、現在の地図に書き込むことにする。
地名:小川村、小川山村、みょうが、大さこ、おおざこ、さざれ、さざれ山、ふと尾裾、ばんしょう山、下りとぢ、おも谷、中ノ川、灰釜、い屋谷、あしざこ 等
1. 小川山村の村境
「伊予国絵図 寛永図」3) 「元禄伊予国絵図」4) 「天保伊予図絵図」5)には、村名と石高は記載されているが、村境はわからない。そこで、明治17年(1884)に編纂された伊予国宇摩郡誌6)、附地図7)により推定することにした。
小川山村地誌(明治17年 1884)
 本邦は往昔より宇摩郡山口郷に属し領域変せず、名称元 苧川山(おがわやま)と書せし処、年月不詳 小川山と改む。
領域
 東は、山字池の峯に起線し山字境之谷裾に至る山および溝をもって、本邦馬立村に界し、それより字魚梁場(やなば)1032番地に至る金砂川中央をもって同村に界し、それより山字長尾(ながお)に至る魚梁場川中央および山をもって同村に界す。
 南は、山字長尾に起線し山字佐々連尾山(さざれおやま)に至る山嶺をもって、土佐国長岡郡立川村(たぢかわむら)に境し、それより山字番城山(ばんしょうやま)西谷に至る山嶺をもって、土佐国長岡郡汗見村に界し、それより山字弥谷(いやたに)に至る山嶺をもって、本郡寒川山村に界す。
 西は、山字弥谷に起線し山字雨久保(あまくぼ)に至る山および溝をもって、本郡平野山村に界す。
 北は、山字雨久保に起線し山字堀田に至る山嶺をもって、本郡中曽根村に界し、それより山字鈴岡に至る山および溝また山をもって、本郡上柏村に界し、それより山字池之峯に至る山をもって本郡三角寺村に界す。

 この地誌を基にして、附地図と伊予三島市史の図 8)を参考にして、小川山村の村境を以下のように推定した。
「池の峯」とは、「三角の池」(三角寺)から望む峯と考え、今の「平石山」とした。「魚梁場川」は今の「中ノ川」である。「長尾」は長い尾根を表しているので、今の「三ツ足山」から「カガマシ山」であろう。「番城山」は今の「大森山」であろう。弥谷(いやたに)は、小川山村と寒川村と平野山村が交わる所である。附地図によれば、赤羅木山の南東の裾に、三つの村の村境の交点がある。赤羅木山は、今の赤良木山(1198m)である。9)10) 雨久保は、今の翠波峯(附地図では水波峯)の高原である。堀田は、附地図の村境が大代山とあることから推定して 798mの山付近とした。そこから東へ794mの山まで行き、そこで北へ向かい、鳶畑の縁で東に曲がり、少し行った地点を鈴岡と推定した。
 描いた地図を示した。→図
地名は今の地名と旧名が混じって書かれている。享保期の村の中心は小川(上小川)である、枝郷12ヶ所があった。12) 図には、元禄期に開発されたという佐々連坑に加えて、金砂坑(明治36年発見)、金立坑(大正5年発見)、金泉坑(昭和28年発見)を参考のために書き加えた。場所は、土井正民の地質図幅説明書の図を参考にした。11)→写4、5
 地名について
①「赤良木山」は、土居大庄屋加地家文書(享保)の平野山村の項に「赤原木山」とあり13)、地誌附宇摩郡地図(明治)には「赤羅木山」とある。
②「カガマシ山」(土佐人の呼び名)は、土居大庄屋加地家文書(享保)には「花山尾山」とあり、宇摩郡地誌(明治)には「花尾山」とある。(宇摩人の呼び名)
③「苧川」は、「小川」で、「上小川」という表示もあり、地誌附宇摩郡地図(明治)には「安井川」と記されている。
④小川山村付近の「銅山川」は、寛永図に川名が記されてないが、元禄絵図と天保絵図に「栗ノ下川」と、地誌附宇摩郡地図(明治)には「金砂川」と記されている。 

2. 小川山村の元禄期の状況
 元禄期の状況の記録はないが、享保期の土居大庄屋加地家文書が参考になるので、以下に示した。
加地家文書(享保13年(1728))14)
小川山村 
年号知らず 加藤左馬之助様の検地の由* (*元和9年(1623)である。15))
・高76石  本田畑  
  高2石4斗  田2反6畝 石盛り9斗2升3合
  高73石6斗  畑18町2反13歩 石盛り4斗4合3勺余
   内高9斗5升    2反3畝23歩永荒れ
   残高72石6斗5升 17町9反3畝20歩
小物成
・銀28匁1分 定納綿代  これは綿351匁2分代、但し100目に付き8匁づつ
・銀23匁5分 定納山手銀
・銀6匁5分  定納鉄砲役 これは鉄砲3挺分 但し男皮2枚 但し1枚に付き6匁づつ 女鹿皮1枚代4匁5分。〆3枚代
・銀30匁 定納入木代  これは入り木60束代 1束に付き5分づつ
・銀14匁6厘  定納茶代 これは中茶1貫875匁代 但し200匁に付き1匁5分づつ
・銀4匁6分5厘  定納漆代 これは漆155匁代 但し100匁に付き3匁づつ
・銀11匁4分 御蔵前入り用
・米1斗5升2合  御六尺給
・米5升3合  御伝馬宿
・御年貢津出しは、当村より川之江村まで道のり2里半歩行持ち、それより新居浜浦まで海上7里船廻し、両銅山師へ渡し申し候
花山尾山
・御林、檜、梅、樅 木数7800本 小木共
さざれ尾山
・御林 右同断 木数3500本 小木共
はんじょう(番城)尾山
・同、右同断 木数2600本 右同
・御運上鉄砲3挺 但し玉目3匁づつ 持主 六郎兵衛 関助 源太郎
・草刈り場は、当村の刈り畑の内へ今治領中曽根村・柏村・妻鳥村より入り込み申し候
・御高札2枚 切支丹 火付けもの 外に御村内に2枚御座候
家数203軒 内165軒本百姓 38軒家来
 人数567人 内男322人 女245人 牛17疋
当村枝郷12ヶ所
 田口へ半里、くぼた(久保ヶ市)へ2里、大谷へ2里、桑ヶ市へ半里、開野へ2里、鳶の畑へ2里、中の川へ2里、引地へ1里半、船方へ1里、黒瀧(蔵)へ2里半、大萩(藪)へ1里半、池の尾へ1里半
・米7斗6升 銀80目 庄屋給 ・銀100目 組頭給 ・銀50目 使い番給 ・米5斗5升 小走り給。
・大川1筋、橋あり  外に小川2筋有り
・庄屋惣囲 13間に15間 本家座敷6畳 次の間10畳 台所10畳 竃屋2間に5間
・諏訪権現宮 ・山城四社大明神 ・新田大明神 ・四社大明神 ・四社大明神 ・四社大明神 ・六地藏堂 ・阿弥陀堂 ・阿弥陀堂 ・観音堂 ・阿弥陀堂
・当村は川之江村より2里半程南に当たる 山分峰越し
  厘付け
・申年米15石1斗1升6合 毛付け2ツ8厘2毛余
・同 見取り場1斗2升 但し申年御年貢皆済後、御加免の趣
 ・取り米15石2斗3升6合
・酉年米16石5斗6升2合 毛付け2ツ2分8厘2毛

3. 小川山村の領主の変遷
 1. 慶長5年(1600)~寛永4年(1627) 加藤左馬助嘉明
 2. 寛永4年(1627)~寛永11年(1634)蒲生忠知
 3. 寛永12年(1635) 幕領
 4. 寛永13年(1636)~寛永19年(1642)一柳直盛(2カ月)→直家 (直家は直盛の二男で川之江陣屋に入る)
 5. 寛永20年(1643)~延宝6年(1678) 幕領(松山藩預り 松平氏)
 6. 延宝6年(1678)~享保6年(1721)  幕領(直轄)
 7. 享保6年(1721)~幕末(1867) 幕領(松山藩預り 松平氏)


一柳川之江藩は、寛永13年(1636)から寛永19年(1642)のわずか6年間の短いものであった。
元禄2年(1689)は、幕領(直轄)であった。


4. 小川山村の名の変遷と由来
(1)寛永、元禄、天保の絵図では、主に村名と石高が記載されているが、小川山村は 寛永図に「小川」村とあり、「山」がついていない。以後、元禄絵図に「小川山村76石」、天保絵図に「小川山村77石」とあり、地誌附宇摩郡地図(明治)にも「小川山村」とある。
文書では、加地家文書(元和7年(1621))の「江戸御共衆人足わり帳宇摩郡」に「小川山村」とあり16)、慶安元年伊予国知行高郷村数帳(1648)に「小川山村」とあり17)、加地家文書(享保13年(1728))にも「小川山村」とある。
結論としては、遅くとも、元和7年から「小川山村」であった。寛永図にのみ、「山」がついていないのは、絵師への情報がそうだったのであろう。
(2)小川山村地誌(明治17年 1884)には、元の名称は、「苧川山(おがわやま)」であったが、いつかはわからないが、「小川山」と改めたと書かれている。
「苧」は「からむし」である。「日本の野生植物2」(平凡社 2016)によれば「からむし」は、
「原野・人家の附近の多い多年草で茎は高さ1~1.5m、短い伏毛が密生する。古くから繊維を利用するために栽培した。靭皮繊維は長く丈夫なので、昔から各地で織物を作った。有名なのは越後上布、薩摩上布である。和名カラムシは繊維をとるのにカラ(茎の幹の意)を蒸して皮をはいだことによると説明されているが、やや強引な説に思える。マオ(真麻)、クサマオの名もある。」
日本国語大辞典(小学館 昭和49 1974)には、
 「からむし苧 日本書紀 持統7年3月「詔して、天の下をして桑、紵(からむし)、梨、栗、蕪菁(あおな)等の草木を勧め殖え令む」」とある。
奈良平安時代には、番城山から発した川沿いの原にからむしを栽培して(または野生のからむしを採集して)繊維や織物をつくっていたのではないだろうか。そこでその川を苧川(おがわ)と呼んだのではないか。しかし江戸期以前に「苧」に代えて簡単な「小」を使うようになったのではないか。

5. さざれ、佐々連尾山、佐々連鉱山の名の由来
 「さざれ」という地名が元禄期に存在していたことがわかった。上に挙げた「別子銅山公用帳一番」(元禄5年(1692))の 「乍恐奉願上銅山の御事 ・宇摩郡御支配所小川山村の内さざれ・い屋谷の間、あしざこと申す野山にて、銅山に成るべき所見立て、--」で、これが地名「さざれ」の初出である。
「佐々連尾山」は、土居大庄屋加地家文書(享保13年)に「さざれ尾山」と記され、これが初出である。地誌附宇摩郡地図(明治)に「佐々連尾山」とある。 
「さざれ」の地から望む山とその尾根を宇摩人は「さざれおやま」と呼んだのであろう。
「さざれ」は、「小川」の上流と「中ノ川」の上流で挟まれた地域すなわち、佐々連坑のあったあたりを指していたと思われる。
「佐々連鉱山」は、大正12年(1923)岩城鉱業(株)が、佐々連坑、金砂坑、金立坑を合わせて名付けたものである。
「さざれ」とは、日本国語大辞典には、
 「さざれ [細]」 ①名詞に付いて、「わずかな」「小さい」「こまかい」等の意を添える。「さざれいし」「さざれなみ」「さざれがい」など ②さざれいし(細石)」とある。
「さざれいし(細石)」は万葉集や古今和歌集に詠まれている。
両上流の間の土地には、「さざれいし」が特徴的に存在したのではないだろうか。鉱脈の存在を暗示するような細かい石だったのではないか。銅を含んだ鉱石片やザクロ石などかもしれない。それを津根の金属関係者や、宇摩郡の金採集者、山師、修験者等が見つけていてこの山地を「さざれ」と呼んだのではないかと想像する。
 宇摩郡土居町津根には、平安時代はじめに、国家の貨幣を鋳造する鋳銭所が設けられていたことが「三代実録巻18(901)」でわかる。18)
「清和天皇貞観12年(870)11月17日  天皇詔して宗像神の前に申し賜えと申さく、年序漸く積み貨幣已(すで)に賤(すたれた)により、饒益神宝(じょうえきしんぽう)を改めて貞観永宝(じょうがんえいほう)と為す。常の鋳銭司 路遠く妨げ多きによりて、太部を加えて山城国葛野郡において鋳作らしむ----」
この「常」は明らかに「津根」を指しているようである。残念ながら、津根は都から遠くて不便だったのである。奈良時代の和銅2年(709)に、すでに津根の郷に、金集史(かねあつめのふひと)一族が住み着き、金属資源の採集に従事していたことは、明らかであり、秦浄足(はたのきよたり)らもこれに参加していたと考えられる。19)
奈良~明治の間、銅山川と苧川(上小川)の合流点 川口(こうぐち)では、砂金採集をしていたのだから鉱物や採鉱には詳しかったであろう。川口は、昭和28年に完成された柳瀬(やなせ)ダムで出来た金砂湖に沈んだが、近くに「史跡 砂金採集跡」の標識がある。20)21)
佐々連と津根は地図上直線距離にして10kmほどの近くである。

Ⅲ. 小川山村の銅山についての検討と考察
 住友史料の記録の銅山、間符、鋪について、佐々連坑との関係について検討する。
1.「宝の山」
 一柳・大樽山銅山は、「大樽の滝」が、加茂川の上流の谷川へ入る場所にある(西条市藤之石庚)ので、この付近の山にあった銅山と思われる。この山は、一柳小松藩の飛び地と考えられる。一柳直盛の三男一柳直頼が1万石を分与され興した小松藩は、寛永13年(1636)から明治4年(1871)まで続いた。よってこの銅山は、寛永13年以降に見つけられたものと言える。但し今回の対象ではない。
小川村銅山について検討する。
「同領(一柳)・小川村銅山 役に立ち申さず候、但し先年三嶋の者稼ぎ申す由。」
 「一柳領 小川村」と記されている。前述したように、確かに寛永図だけは「小川村」であったのであるが、「小川山村」に違いない。元和7年(1621)に既に「小川山村」と記されていたのであるから。
小川山村が一柳領であったのは、前述したように、寛永13年(1636)~寛永19年(1642)のわずか6年で、領主の一柳は、川之江陣屋の一柳直家である。小松藩ではない。
記述によれば、寛永13年(1636)~寛永19年(1642)に小川山村に銅山があり、時期は不明だが三島の者が稼行していたことになる。「宝の山」が書かれたのは、(1710~1740)年であり、約100年経ってからである。書かれた頃は、小川山村はずっと幕領であったので、(一柳領)とは書かないはずである。「先年」とはいつを指すか、この銅山が佐々連鉱山の前身なのかはわからない。いずれにしても寛永期に小川山村で銅山が発見されていた。

2.「諸国銅山見分扣」
(1)「元文3年(1738)伊予国松山御預り所 宇摩郡小川山村御林の内銅山
めうか(みょうが)間符1ヶ所 凡そ20間程掘り入り
大さこ(おおさこ 大迫)間符1ヶ所 凡そ16,7間掘り入り
但し川之江御代官石井武兵衛様より、見分致し候様に仰せ付けられ、立川銅山手代重右衛門・この方市兵衛 同道にて罷り越し、見分致し候所、宜しからず候故、その趣書付をもって、川之江御陣屋へ申し上げる、望之無き候。」 
① みょうが間符は、あとの明和元年、明和8年にも出てくるので、かつては最も重要な間符だったのであろう。
「みょうが」は、「明和8年(1771)小川山御林の内、ばんしょう山(番城山)金山谷めうが(みょうが)と申す処古鋪1ヶ所」とあることから、地名と考えられる。植物の茗荷がたくさん生えていた場所なのであろうか。あるいは「冥加」(神仏の加護によるありがたい)と感激した場所なのか。
みょうが間符の場所は、明和8年では、ばんしょう山(番城山)金山谷である。明和元年では、さゞれ山の上、ふと尾裾の近くである。今の山の名でいえば、大森山の谷あるいは佐々連尾山の裾である。後の佐々連坑付近ともとれるが、確定はできない。が可能性は大である。
② この見分が立川銅山大坂屋の手代重右衛門と別子銅山泉屋の手代市兵衛とで行われたということが非常に重要である。元文3年(1738)頃は、両銅山は競合しており、泉屋が立川銅山譲渡の願書を松山藩に提出したのは延享4年(1747)であり、両銅山一手稼行が許可されたのが宝暦12年(1762)とずっと後だからである。
ではなぜ大坂屋手代が同行したのであろうか。見分した「みょうが間符」がかつて大坂屋により開坑された間符だったからではないのか。20間余り掘ったのは大坂屋ではないか。川之江代官所では、それを知っていたので、大坂屋も同行するように指示したのではないだろうか。ただ元禄2年は元文3年の49年前とかなり時間が経っている。川之江御代官石井武兵衛は、川之江常詰で享保12年(1727)2月から元文5年(1740)11月まで在任したことが 御預り所歴代役人表で確認できた。22)
「元禄2年大坂屋開坑」の彫刻が「みょうが間符」にあった可能性がある。
大さこ(おおさこ 大迫)間符の「大さこ」について 
さこ[谷・迫] 山の尾根と尾根の間をいう。ちいさな谷。 方言 山あいの窪地(愛媛県) (日本国語大辞典)であり、地域をさす一般名詞なので、場所の特定は難しい。後に出てくる「あしざこ」のことかもしれない。
(2)「明和元年(1764)11月、手代半兵衛・山留岡右衛門見分 当国宇摩郡
 ・小川山村の内さゞれ山の上、ふと尾裾
 但し先年この方市兵衛・大坂屋重右衛門見分致し候めうが(みょうが)鋪の続きにて、横𨫤、大堅石のかみ出し、とう金鉑2,3寸面顕これ有り、用立ち申さず、望なし、重ねて見分無用に候。」
かつて大坂屋も一緒に見分したみょうが鋪の場所続きに、今回の泉屋手代の見分の所すなわち「さざれ山のふと尾裾」がある。これによれば、みょうが鋪は、佐々連尾山のふもと近くにあるということになる。
かみだしは、かみいだす[噛出]けものなどが、歯や牙をかみ合わせるようにしながら、むきだす。(国語大辞典)ここでは、横𨫤と大堅石とのかみだしであろう。
(3)明和8年(1771)5月に見分した小川山村御林の内銅山とは、名が書いていないので、「みょうが」と特定できない。
(4) 明和8年(1771)の見分箇所
 ・みょうが古鋪
 ・下りとぢ古鋪 不明
 ・大ざこ古鋪 前出
 ・おも谷古鋪
 ・中ノ川の奥 灰釜と申す場所
 たくさんの古鋪があったことがわかるが、どれも望み薄のようである。
(5)「別子銅山公用帳一番」(元禄5年(1692)乍恐奉願上銅山の御事
 ・宇摩郡御支配所小川山村の内さざれ・い屋谷の間、あしざこと申す野山で鉑筋を見立て、泉屋吉左衛門から問掘りを仰せ付かり、得た鉱石の問吹きを願う文書が川之江代官へ、三島の妻鳥村市郎兵衛によって出されている
前述したように、「い屋谷」は「弥谷」で赤良木山近くの所であることが今回わかった。「あしざこ」は、「足谷 足迫 芦硲」と書かれ、山と山の谷間の地を指す。山が迫った土地である。
さざれが佐々連坑口付近と推定すると、さざれと弥谷との間とは、後に発見された金泉坑や金砂坑のあたりになるのではないか。
①この市郎兵衛の願書と ②立川銅山大坂屋の手代重右衛門と別子銅山泉屋の手代市兵衛がみょうが間符を見分していることから、筆者は以下のように推理した。
元禄5年の「さざれ」では大坂屋がすでに開坑しており、そこから弥谷の方へ少し離れたところで妻鳥村市郎兵衛は鉑筋を見つけた。切り上り長兵衛が立川銅山(大坂屋)のすぐ隣で有望な鉑筋(別子銅山)を見立て、泉屋に伝えたように、市郎兵衛もこのあしざこの鉑筋が有望だったら、泉屋に権利を売りたいと考えたのではないか。泉屋は、「さざれ」では大坂屋がすでに開坑しているのを知っていたので、市郎兵衛に問掘りを仰せ付けたのではないだろうか。立川-別子の関係で「さざれ」-「あしざこ」の関係を予想したのではないか。
以上、①と②に基づけば、元禄5年以前に大坂屋が「さざれ」で銅山を開坑していた可能性があるといえるのではないだろうか。すなわち、「元禄2年大坂屋開坑」の彫刻があってもおかしくはない。

まとめ
1. 寛永期に小川山村で銅山が発見されていた。
2. 地名「さざれ」の初出は、元禄5年(1692))の妻鳥村市郎兵衛の問吹き願い(別子銅山公用帳一番)であり、「さざれ尾山」の初出は、享保13年(1728)の土居大庄屋加地家文書である。
3. 元文3年(1738)に泉屋手代と大坂屋手代が見分した「さざれ」付近の古い「みょうが」間符は、元禄2年大坂屋開坑の間符の可能性がある。
4. 妻鳥村市郎兵衛の願書と後の見分に大坂屋手代が同行したことなどから推理して、元禄5年以前に大坂屋が「さざれ」で銅山を開坑していた可能性がある。
5. 小川山村のさざれ付近には多くの古鋪があったが、どれも望み薄の見分結果であった。結局、江戸期には、この付近では別子銅山廻りほど有望な箇所を発見できなかった。


注 引用文献
1. 住友史料館「宝の山・諸国銅山見分扣」p114,142,180,185(平成3年 1991)
「宝の山」は、宝永末年(1710頃)に泉屋大坂本社で執筆に着手し、30年後の元文5年(1740)迄段々書き綴られたものである。
「諸国銅山見分扣」は、元文4年(1739)から別子銅山で着手されたもので、各地の銅山を調査する毎に次々と書き続けそのまま過去の調査記録も取り入れながら、約90年後の文政13年(1830)まで及ぶものである。
2. 住友史料館「別子銅山公用帳一番」p155(思文閣 昭和62年 1987)
3. web. 愛媛県歴史文化博物館 絵図・絵巻デジタルアーカイブ「伊予国絵図 寛永図」
  寛永図をもとに作成されたもの 寛文10年(1670)以降の情報も書き込まれている。
4. web. 愛媛県歴史文化博物館 絵図・絵巻デジタルアーカイブ「元禄伊予国絵図 四枚之内一番」
5. web. 国立公文書館デジタルアーカイブ 「天保伊予図絵図」(天保9年(1835))
6. 小川山村地誌 「伊予国宇摩郡地誌」(明治17年編) 伊予三島市史上巻 p830(昭和59年 1984)
7. web. 愛媛県立図書館デジタルアーカイブ 「地誌附宇摩郡地図」(年不詳)
 地誌は明治17年(1884)編なので、附地図も同じ明治17年と筆者は推定した。この地図の凡例の脇には、「愛媛県伊予国宇摩郡全図」「愛媛県令 関新平、県主任七等属 宮脇通赫」と書かれている。関新平(せきしんぺい)(1842~1887)は、明治13年~19年愛媛県令であったので、明治17年著作は妥当である。宮脇通赫(みやわきみちてる)(1834~1914)は、この地図の著作者である。この地図は、詳細に地名が書かれていて、貴重である。
8. 本ブログ「三島村今村祇太夫は「油屋」で46才の貞享4年に別子の露頭を源次郎に試掘させた」の図「近世宇摩郡の村々」伊予三島市史上巻p333(1984)より 
9.  ブログ「むらくも」(佐々連尾山・大森山・赤良木山)(2010.11.5)
10.  ホームぺージ「YAMAP」(佐々連尾山の活動日記)
11. web.「GSJ三島 13-041 5万分の1地質図幅説明書」土井正民著 (地質調査所 昭和39年 1964)土井正民氏が住友金属鉱山(株)佐々連鉱業所に在勤中、昭和27~32年の間、鉱床調査に必要上調査した結果を基礎にしてまとめたものである。
12. 千葉誉好編「新居郡・宇摩郡天領二十九箇村明細帳(土居大庄屋加地家文書)」p81(平成4年 1992)
 本文書が書かれた年は、享保13申年(1728)と推定する。最新記事として、「享保12未年霜月より大坂屋永次郎立川銅山申し請け仕成し申し候」、3つの用水池の修繕、普請年の逆算からは享保7年、各村の「申年取り米の石数、毛付け」項目があるのが推定根拠。
13. 同上p85
14. 同上p79
15. 伊予三島市史上巻 p326(昭和59年 1984)
16. 土居町郷土史料第3集「西条藩土居組大庄屋加地家文書目録Ⅱ」p9(土居町教育委員会 村上光信著 1984)3番「元和7年(1621)3月24日付、「江戸御供衆人足わり帳宇摩郡」に宇摩郡の村名を列挙した内に「60石は 小川山村」」が記されている。
17.  愛媛県立図書館編集「伊予国旧石高調帳」p4(愛媛県教育委員会 昭和49年)
慶安元年伊予国知行高郷村数帳(1648)には「高76石 小川山村 内 田方2石4斗 畠方 73石6斗 はえ(生)山有 柴山有」と記されている。
18.  web. 国立国会図書館デジタルコレクション「三代実録巻18」(藤原時平著 明治16年 1883) コマ8
19.  伊予三島市史上巻p210(昭和59年 1984)(合田正良著)
20. ホームぺージ「村影弥太郎の集落紀行」川口
21. いちろーたの別子銅山オタクサイト>愛媛の鉱物・鉱山ページ>赤石・宇摩地域>新宮地域>砂金(銅山川)
22. 川之江市誌p176(昭和59年 1984)

写1. 「宝の山」


写2. 「諸国銅山見分扣」


写3. 「別子銅山公用帳一番」


写4. 「佐々連鉱山付近地形ならびに坑内図(1961.4現在)」土井正民著「5万分の1地質図幅説明書」より


写5. 「佐々連鉱山坑内截面図(1961.4現在)」土井正民著「5万分の1地質図幅説明書」より


図. 享保期の宇摩郡・諸村と小川山村の境界



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