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からみ・鍰の由来(23) 佐渡金銀山で、元和2年「からめ鏈」、天保に「からみ鏈」あり

2021-07-11 09:35:47 | 趣味歴史推論
 佐渡金銀山における「からむ」「からめる」「からめ」の記録について、田中圭一「佐渡金銀山の史的研究」を調べた。その結果、元和2年(1616)とかなり古い時期に「からめ鏈」があったので、以下に示した。

1. 「元和2年 諸間歩出鏈高」(1616)1)
各間歩のひととおか(一十日)実質9日分の鉱石産出高の記録である。1荷は鉱石5貫入りである。
(1)~(3)略
(4)滝上越中仁兵衛間歩出鏈之事
 ・60荷は    本敷  集鏈
 ・36荷は        中鏈
 右は辰の3月中10日分に出候者也 以上
 辰の3月21日     草間 宇右衛門
         山主  山根弥三右衛門
  御奉行様
(5)下松平明石文右衛門間歩出鏈之事
 ・90荷は     からめ鏈
 ・24荷は     なかし(流し)土辺(どべ)
 右は辰3月中10日分出申処実正也 
 辰の3月21日     田中□兵衛
         山主 早川筑後
  御奉行様
(6)下松源左衛門間歩出鏈之事
 ・102荷は    集鏈
 ・30荷は    ざるとおしどべ
 右は辰の3月中10日出申処実正也、但分前は3ヶ山主に被下候、以上
 辰の3月21日      井上 猪兵衛
          山主 大坂惣右衛門
 御奉行様
(7)もちや大横相本□間分出鏈之事
 ・合62荷    集鏈
 右は辰の3月中10日に出申候処実正也
 たつ3月21日       鈴木茂左衛門
           山主 石見角右衛門
 御奉行様
(8)采女平越中次兵衛間歩出鏈之事
 ・46荷は      但からめ鏈
 ・26荷は      但ながしどべ
 右は辰の3月中10日に出申候処実正也
 辰の3月21日      市川孫兵衛
           山主 石田太兵衛
 御奉行様
(9)~(46)略

2. 「ひとりあるき」上(1830~1843)2)
 右建場(たてば)一件鏈撰方之訳並びに遺道具図末に記
・鏈石撰候者を石撰(いしより)と云、女の業也。かなこ之もの雇い入れ候て鏈撰を候者也。賃金は鏈石多少に構いなく1日に3時ばかり32文より26文位まで撰也。明6つより暮6つ迄撰詰候えば、2枚肩とて右の1倍遣わす。尤も右賃銭時々増減有之。
・----
・鏈石撰候内、白石勝なるをばからみ石とて除置外、鏈撰仕舞候跡にて、白き石を鎚にて打落し、上中下を撰分候、これをからむという。右白き石打落し候鏈を、からみ鏈という。
・-----

考察
1. 元和2年の46ヶ所間歩の出鏈高の事には、鏈としては、からめ鏈の他に、あらい鏈 洗鏈 あつめ鏈 われと集鏈 洗集鏈 などが記されている。
「からめ鏈」とは、砕いて小さくした鏈や砕いて脈石部分を捨て去った鏈を指すものと推定される。かなり後の「ひとりあるき」によれば、脈石が多く付いているので「からむ」作業にまわし白石を打ち落とすべき鏈石を「からみ石」と云い、この白石を取り除いた鏈を「からみ鏈」と云う。「ひとりあるき」には、「からめ鏈」がなくなっているので、時代とともに「からめ鏈」→「からみ鏈」へ変化したと思われる。
「からみ石」は、全てが脈石ではなく、何割かの鏈がくっ付いているのであり、「からめ」作業に廻し、良い鏈を処理した後、処理される。ここにも「鍰」と同じ発音の「からみ」が見られる。
2. 「からめ鏈」という語は、「佐渡金銀山の史的研究」およびその付録史料には、上記の他は見当たらなかった。しかし、たしかに「からめ鏈」という語は佐渡で1616年と古い時代に使われていたのである。「からむ、からめる」を南部藩鹿角の方言としていたが、佐渡でも「打つ、叩く、殴る」の意味の方言としてあったのではなかろうか。鉱山で使われたのは、佐渡の方が南部藩より早かった可能性がでてきた。

まとめ
 佐渡金銀山の元和2年(1616)に「からめ鏈」があり、「からむ・からめる」が使われていたと推定される

注 引用文献
1. 田中圭一「佐渡金銀山の史的研究」付録史料3 p484~492(刀水書房 1986)
  相川郷土博物館所蔵文書
2. 「ひとりあるき上」(独歩行) 同上 付録史料11 p588~589 佐渡高校船崎文庫所蔵文書
  史料解説(p463)によれば、「上巻は金銀山稼方で、天保年間(1830~1843)の相川金銀山立合名、稼方諸入用品、鏈撰方、鉱石の名称、仕分け勘定、相川の山師、銀山間歩、1ヶ年入用を記録する。」