気ままな推理帳

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からみ・鍰の由来(24) 「かなめ」と「からめ」

2021-07-18 08:33:05 | 趣味歴史推論
 「からめ」「からめる」を調べているうちに、「かなめ」は、この「からめ」が転訛してできた言葉ではないかと筆者は考えるようになった。そこでまず過去の「かなめ」の由来についての説を検索したところ、二つの文があったので、本報で紹介、考察する。

1. 無機顔料の研究者で多田銀銅山に詳しい鶴田栄一は、随筆「砕女石(かなめいし)について」(1993)の中で以下のように述べている。
鉱石を砕き選鉱する作業を砕女(かなめ)と云っておりました。同じ砕女と書き関東以西ではかなめですが、関東以北ではからめと云っておりました。また砕女と漢字を当てますが、砕(かなめ)と一字で書いている場合もあります。資料によりますと、佐渡ケ島では両方の呼称がありました。これは両地区からの技術移転の歴史を残す証左と云うことが出来ると思います。事実、技術集団の移動が行われるのは鉱山の常態でした。鉱山の盛衰により、その移動の行われた例が多かったようです。この作業種が通常かなめ、からめでありましたが、またこれに従事する人達もかなめ、からめと呼ばれていました。そのとき鉱石粉砕の台として使用された石がかなめ石、からめ石であった訳です。」

2. 石見銀山の郷土史家鳥谷芳雄は、覚書「かなめ石のかなめについて」(2006)の中で、以下の説を提示している。
「岡山県の方言では、かなこは単に鉱夫のことを指していた事例も知られている。この例から類推すれば、かなめは、男性名詞であるかなこと対になる、鉱山労働に従事した女性を呼ぶ用語であったとも考えられる。いずれにしても、もともとかなめは女性名詞であって、これに漢字をあてるとすれば、金女(銀女・銅女)と書いたのではなかろうか。かなめが鉱山で働く女性を言ったのであれば、なにも選鉱作業に限って呼ぶことはなかったようにも思われる。しかし鉱山のおける女性の役割が選鉱作業に最もよく表れていたとすれば、ごく自然の流れであったと考えたい。
 つまり、本来鉱山で働く女性を言ったはずのものがのちに変化し、女性の代表的な作業行為である選鉱作業を指して言うようになった。その結果、かなめはかなめすと動詞化するとともに、用字も金女から離れて、砕石する女性の具体的な姿から砕女の字を充てて表現するようになったと推定する。

考察
1. 鶴田説では、既に知られたことを確認しているので、なぜ「かなめ」が「砕女」と書かれるようになったのかについては言及していない。ただ東北の「からめ」と関西の「かなめ」が同じ作業を表していると指摘していることは重要である。これについては、鳥谷も注(10)で、「また、本文では触れなかったが、同種の選鉱作業を「かなめ」とは言わず「からむ・からめて」と表現したものがある。17世紀後半の黒澤元重著「鉱山至宝要録」にみえる例や、秋田県院内銀山の「からめ石」と解説した文献があるのを付記しておく。」と記している。

鶴田は「これに従事する人達もかなめ、からめと呼ばれていました」と書いているが、筆者が調べた範囲では、佐渡や奥羽地方の鉱山で、作業者が「からめ」と呼ばれたという記録はなかった。前報の佐渡の「石撰・いしより・いしえり」や続報の尾去沢の「笊揚・ざるあげ」などである。

2. 鶴田は、「かなめ・砕女・かなめ石」の史料での初出、または例示として、宝暦4年(1754)の「日本山海名物図会」や、享和元年~文化2年(1801~1805)の「鼓銅図録・鼓銅録」を挙げている。大規模の銅山開発では先駆けとなった多田銀銅山の古い史料には、かなめ・砕女は見られないようである。古い記録として、「佐渡金銀山の鶴子間歩の製煉(宝永年間(1704~1710)の報告)の研究では、鏈(鉱石)642荷(1荷は、22.5kg)を処理するのに、荒割30人工、砕女321人工を要したと述べられています。」を挙げ、佐渡にも砕女の存在があったことを述べている。
よって鶴田によれば、「砕女」の初出は、宝永年間(1704~1710)である。

3. 鳥谷は、「かなめ・砕女、かなめ石」の史料での初出について、次のように記している。
別子銅山の史料で、元禄7年(1694)の「覚書」には、砕女小屋の記載が見える。砕女小屋は、大工小屋・鍛冶小屋などと併記されるから、大工・鍛冶仕事と並び、かなめ仕事、すなわち選鉱作業をするための施設であったと推測できる。管見ではこれが「砕女」の字を充てた今のところ最も古い史料であり、この用例が少なくとも17世紀の終わり頃までは遡れる。
かなめ石の確実な史料は、延享4年(1747)の「銀山覚書」で、これには「かなめ石 鏈をくだき候石」「かなめるとは 石を去り鏈を細かにくたき候を申候」とみえる。」
鳥谷によれば、「砕女」の初出は、元禄7年(1694)別子銅山の「砕女小屋」である。
石見銀山では、古い史料がたくさんあるにもかかわらず、延享以前に「かなめ」の記録がなかったということである。

注 引用文献
1.  鶴田栄一「江戸期鉱山で使われた粉砕道具--砕女石(かなめいし)について」粉砕 37号 p115~123(1993)
 web. FunsaiNo.037-1993.pdf - Hosokawa Micron
2. 鳥谷芳雄「かなめ石のかなめについて」季刊文化財112号 p54~62(島根県文化財愛護協会 2006)