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芳賀明夫の思いつくままに

フィジーから帰国して

登米市市役所職員の責任感

2008年06月20日 | Weblog
我が家の近くで、自動車事故が起きるのではないかと危惧するのには、理由がある。
10数年前になるが、母親が、旧登米高等尋常小学校の前の横断歩道を渡っている時に、勤務を終えて帰宅をいそぐ町役場の職員に轢かれ、瀕死の重傷を負った。佐沼病院に救急車で運ばれたが、腕などの骨折の中でも、骨盤が二つに割れたのが、出血多量を招き、私が、東京から仙台どまりの新幹線とタクシーを乗り継いで、駆けつけた夜中の2時頃には、医者に、血圧が50まで下がっているから、もう駄目かもしれないと言われ、諦めかけたが、母の気力で奇跡的に生き延びた。80歳の母に手術の為の麻酔をかけるとぼけるからかけられないとのことで、縦に割れた骨盤をつなぎ合わせる為、ハンモックで足におもりをむすばれて半年程吊り下がられていた。轢いたのは、福祉課の小堀某で、母は、当時母子福祉会の会長をしていたから、福祉課の職員たちとは行事のたびに同行して親しかった。一年程入院して足を固定された為、足の指を始め足が変形して地面に足の裏全体がつかなくなっていたので、リハビリになったが、もうこれ以上治らないから、退院するように強制され、やむなく古川の病院兼老人福祉施設に入院させ、リハビしてもらった。しかし、足は元に戻らなかった。自動車事故の保険の申請をしたが、その佐沼の副院長である医者は、足の変形は、元からかもしれないから、と、変形は自動車事故とは関係ないと診断書に書いた。私は、園医者と農協の保険である共済の方との癒着を疑ったが、命は助けられたのだから、それに対して追求しなかった。その福祉課の職員の一人の退勤時の事故であったが、小堀某は、保険金が出ることになった時、事故の直後に支払った一時金を返すように言って来た。私は、その20万だったかを見舞金と思っていたが、返却した。また、役所の職員の退勤時の事故なのに、役所からも見舞金すら貰わなかった。農協の共済掛け金だけで弁償されたのだ。
その職員たちがそのまま、今の市役所職員である。小学校と家の前で起こったりした事故に責任を取るはずがないではないか。

最近の事件と教育

2008年06月19日 | Weblog
我が家は、道路を挟んで小学校のそばにある。家の南側に小学校が借りている梨の木園という農園がある。その農園の一部が駐車場になっているが、その駐車場が最近、倍に拡幅されて、10台以上おけるようになった。我が家の前には、朝、夕、小学生の送り迎えの車が列をなすが、その農園の一部の駐車場は、小学校の職員の為の駐車場であり、毎日、そこに出入りする車がばたんばたんとドアを開け閉めする音がうるさいだけでなく、車が増えることにより、我が家の門前は危険度を増す。私が子供の頃は、車で送り迎えなどなかったから、門からいきなり出ても危なくなかったが、今は、自転車で我が家の門を出るときは、車に気をつけないと危ない程、車が集中して通るようになった。こんなド田舎でと思うが、電車はないし、バスも一日数本だから、車がないと合併した隣町の市立病院などに行くには、不便である。ただ、静かな住宅街に、大きな駐車場が作られるのは、ご免蒙りたい。少なくても、作るなら、先ず、迷惑をかける隣近所に、伺いをたてるのが、常識である。ところが、この学校の校長にしろ、それに許可を出す、教育委員会にしろ何の連絡もなしに工事をして、駐車場を作るというのは、まるで常識のない教育者たちだ。このごろ、嫌な事件が多いが、そのような常識のない教育委員会や教育会のトップたちでは、そこで教育を受けた人達のなかに、他人に迷惑をかけるのが多くて当たり前だ。秋葉原の事件に鑑みてこんな思いを強くした。

東北地域環境研究室を訪ねる

2008年06月18日 | Weblog
昨日会った志賀秀一さんは、我が家をあとにして、南三陸町に行き、町長や、気仙沼市長と話になり、そのあと、夕食も一緒にしながら、今後の市政、町政について話し合いしたようだ。そこには、東北電力気仙沼支社長もいたらしく、「登米物語」を上げて、先ず、地元について知ることが大事であると力説したらしい。というのは、今日、仙台に行き、東北地域環境研究室を訪ねて、昨日、島谷留美子さんにも「登米物語」を上げなかった私の気の利かなさを詫び、本をあげて、しばらく、島谷さんと話し、佐沼高校時代や東北学院大学時代のことを聞いて、コーヒーをご馳走になった。志賀さんは、朝から、得意先での会議に出席していて、留守だった。観光学会でどんなことを話し合うのかは、わからないが、東北全体や、仙台のことが中心になるのであろうか。おそらく、私が、登米や佐沼の観光物産協会からで門前払いを食った「宮城・仙台DCが話題の中心であろう。平泉の観光振興にも話が及ぶかもしれない。いずれにしても載れる話なら、面白い話にしたいと思う。

志賀秀一さんとの再会

2008年06月17日 | Weblog
先日、全く、偶然に私が、仙台で、公衆電話を掛けてそこから歩道に出たら、私を見て、「芳賀さんでないですか」と声をかけられた。見ると、かつて寂聴さんと天台寺で良く仕事をしているころにやはり、天台寺で寂聴まんじゅうを売りに来ていた志賀秀一さんだった。あまりの奇遇に直ぐ一緒に飲みに行った。東北地域環境研究室の代表をしているという。宮城県を始め、平泉などの観光振興の仕事をしているそうだ。南三陸町と登米市にもよく来るという。登米に来た時に寄ってくれるという再会の約束をして、別れた。それからまだ、数日しかたっていない今日、突然彼が助手の島谷留美子さんを伴って寄ってくれ「登米物語」を沢山買ってくれた。彼が関わっている、宮城仙台DCの中心人物である、七十七銀行の会長たちにそれを配ってくれる上に、観光学会が仙台で来月もよおされる時に私も招くという。お互いに町起こしに関わっていて、今彼が考えていた企画に「登米物語」がぴったりなのだそうだ。和賀氏の家を見て、南三陸町での会議に出るからと4時前に車で帰って行った。彼とは、新安比温泉にも一緒に泊まったり、ともかく親しくしていたが、私が退職してからは、全くのご無沙汰だった。町起こしという同じ方向を見ているもの同志が逢うのだから、何かの引き合わせであろうか。 

岩手・宮城内陸の直下型地震

2008年06月16日 | Weblog
たまたま、よそでテレビを見たら、大地震だったことが分かった。震源地から近かったわりには、被害が少なく、学生時代のボート部の記念品で、立てかけてあるミニ・オールが、落ちていたが、これは、いつものことである。あとは、どういうわけか、2カ所の戸が、鍵がはずれて、少し開いていた。泥棒が入って少し開けたまま帰ったようにみえるが、地震のしわざで鍵まで外して泥棒のようなことをするのだ。前の宮城県沖地震では、ガラス戸が外れて倒れ、ガラスが割れたり、ふすまが外れていたりした。前回の地震で、特にひどかったのは、お墓の灯籠の屋根が、ふたつとも墓地の階段を転げ落ちて少し欠けたことだった。
今回は、直下型ということで、震源地の上にある地域だけに被害が集中したようだ。
それでも、良く買いに行く、古内肉屋の親父は、丁度、豚を飼っている羽沢にいて、山鳴りがすごかったのと、電話が通じなくなったのとで、直ぐ、店に帰って来たと言う。

岩手県南部震源の地震

2008年06月14日 | Weblog
岩手県南部を震源とする大地震が襲ってきたが、幸い無事である。多くの方々から、お見舞いのメールをいただいたので、無事の旨メールで返信はさせていただいたが、この場所を借りて、改めて、無事であることをご報告する次第だ。基本的にテレビを見ないので、岩手県南部地震という名称でいいかどうかわからないが、要するに宮城県内では、栗原市が大変だったようである。そちら方面のバスなどは停止しているようだから、相当大きな地震だったのだ。ただ、私は、宮城県内の大きな地震を2度経験しているので、確かに電灯の傘など、大揺れしたが、家が潰れるほどではなかった。
まずは、ご報告まで。


芭蕉と門人たち

2008年06月13日 | Weblog
芭蕉の文章を読んでいると、ともかく、先人の文章からとった美文であり、そのつなぎ合わせである。これは、紫式部の源氏物語もそうで、古今集などから借りている文章が多い。芭蕉もこれほど人の文章を活用してもいいのであろうかと思えるくらいである。しかし、先人の美文であるから、それをさらに凝った文章にしていて、それはそれでかなりの読めるのである。
ところで、三島由紀夫も美文であり、美文というと、同性愛を思い浮かべてしまうのは、私のかつての仕事柄かもしれない。芭蕉と、曾良がどういう関係だったか、芭蕉と、笈の小文の旅に同行した杜国がどういう関係であったか。興味が持たれる。

芭蕉と西行2

2008年06月12日 | Weblog
芭蕉が、あれほど、憧れていた西行の菩提寺ではなく、木曾義仲の菩提寺に葬られることを望んだのはなぜかわからないが、芭蕉が奥の細道に旅立ったときの、目的は、西行などが、旅した後を旅して、その歌枕をたずねることであった。おくのほそ道の旅に出かけたとき、白河の関や、松島、平泉を目指していたことは、その文章で明らかで、そこは、西行も訪ねているところであり、平泉には、西行が69歳のときに、再訪している。そして、『おくのほそ道』は西行が庵を結んでいた、伊勢の二見が浦に、向かい、西行の「今ぞ知る二見浦の蛤を見合わせておほふなりけり」を借りて、
蛤のふたみにわかれ行く秋ぞ
で結んでいる。

西行と芭蕉

2008年06月11日 | Weblog
芭蕉は、西行に憧れ、かつ、木曾義仲に引かれていたことは、遺言であろうが、木曾義仲の葬られている義仲寺に、芭蕉も葬られた。しかし、その憧れの西行が、木曾義仲を嫌っていたことは、次の歌で明らかだ。

木曾ともうす武者死に侍りけりな、
木曾人は、海の怒りをしづめかねて死出の山にも入りにけるかな

もし、憧れの西行が木曾義仲を嫌っていることを知っていたら、芭蕉は木曾義仲をやはり嫌ったかもしれないが、この西行の歌が出てきたのは、昭和になってから、伊達家の私蔵文書から出てきたのだから、芭蕉はそれを見る機会がなかったのだから、そこまでは、西行には入れ込めなかったのだ。
芭蕉も京都の文化を大事に思っていたが、西行もそうで、木曾義仲が、京都を、蹂躙したことを許せなかったとこの歌からは見える。


人生の晩年を遊行で

2008年06月10日 | Weblog
佐沼城を攻略の後、伊達政宗の家臣の間で、手柄について争論があったと、口論か取っ組み合いかどうかわからないが、中島宗求と原田左馬助の間であったと、『伊達治家記録』に書かれている。一人の中心人物がいて、その部下なり、家臣なりが手柄を争うのはいいが、そういうのは、煩わしいことでもある。芭蕉の弟子1000人といわれたうち、直弟子たちの間でも、芭蕉の晩年に争いがあったという。孤独を愛して、籠るか、旅に出るのを好んだ芭蕉にしてこうである。
誰しも、人間関係をたつことはできないが、インドには、古くから、人生の最期を遊行のうちに終わらせるのを理想とする考えがある。サニヤーサという。しかし、その生き方を全うするのは、インドでも難しいらしい。