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芳賀明夫の思いつくままに

フィジーから帰国して

和賀氏の終末

2008年05月30日 | Weblog
阿部三朗氏は、先日わたしが書いたブログで、伊達綱宗と綱村のことについて、詳しくメールしてくれて、私の記憶の正しいことを確認してくださった。また、最近書いた支倉常長についても私の知識を補ってくださった。ほんとによくご存知だ。仙台駅前のドトールで話したときも、登米初代伊達氏が再興を支援してならなかった和賀氏が、仙台の護国尼寺で、自刃した話に付け加えて、その奥方が登米の家老に後妻できてその墓が登米にあることまで教えてくださった。龍源寺の上、八幡さんの後ろにあるようだ。いずれまた確認してみるつもりだ。

登米出身の方たちと会う

2008年05月29日 | Weblog
昨年からこのブログを見ていて、『登米物語』をメールでご注文下さった阿部三朗さんに、仙台でお会いした。作並温泉で同級生と会っての帰りに仙台で途中下車して下さり、10:47仙台着の仙山線でいらっしゃるというので、10:50に待ち合わせていたら、やはり登米出身で、仙台で道路会社をまだ現役で経営される大槻国徳さんに車で送られたとご一緒に待っておられた。大槻さんは途中で病院の予約があるからと帰られたが、阿部さんとは、ともかく登米について詳しく知っていられて14:00近くまでお話が弾んだ。現在は、芭蕉のおくのほそ道の勉強会を横浜で仲間をつのって進めていられるそうだ。話は尽きないが、切り上げて、別れた。

支倉常長5

2008年05月28日 | Weblog
支倉常長の晩年については、分からないことが多い。どこでどのような死に方をしたか分からないのだ。何しろ、帰国したら、キリシタンバテレンは御法度になっていて、それでも、仙台に帰って来られたのだが、当然、取り調べを受けたであろう。その息子がキリシタンバテレンで処刑されたのは分かっているから、一族がキリシタンバテレンになったのだろう。しかし、新しい技術をもたらしたのだから、その技術者をみすみす殺すようなことを伊達政宗がしたであろうか。仙台藩の身分の複雑さは、敵を皆殺しにするのではなく、敵をそれなりの処遇をすることで、無駄な戦いをせずに生かして、取り立てたことによる。ちょっと将棋の駒の使い方に似ている。その為に、後に、その身分に拘る為に登米も含めて仙台藩の人達の序列意識は非常に強く、集まりのときの席次を極端に意識することと併せ、人の意見を中々聞かないということが弊害になっている。明治維新時の戊辰戦争のときの官軍に対する態度の決め方の遅さにそれが現れたのは、小田原評定に似ている。
しかし、伊達政宗はその点では、機転が利いていて、必要な人物は意かしたであろうから、支倉常長も密かに行かしたのではないかと思われる。米川のあたりにキリシタンバテレンの里があるのはそれを証明しているように思う。長崎などのキリシタンバテレンが大勢、この東北に避難して来たと言うではないか。米川から釜石にかけては、鉄や、金の産地だ。

支倉常長4

2008年05月26日 | Weblog
芳賀あさのは、私の祖母だが、現在は、石巻市になっている渡波の出身で、その父親は、渡波港に入る船に食料や水を積む仕事で繁栄していたから、あさのは、宮城学院から、日本女子大へ進み、叔父がいた神戸に行き、神戸女学院に学んだという。そのときに登米出身の船乗り芳賀明と一緒になったのだそうだ。芳賀明も中学は東北学院に一時いたというから、神戸の教会で知り合ったのであろう。
あさのは、旧姓高橋で、その父の代で、渡波港の積み荷の仕事は終わったそうだ。月の浦から支倉常長が出かけたのは、西暦でいうと、1600年代の初めだから、その頃は、渡波港は、まだなく、月の浦のあたりがいい港だったのであろう。高橋の親戚には、竹下という一族もいて、その人たちが何をしていたかわからないが、昔からその地域には住んでいて、あるいは、支倉常長の頃もその関連の仕事をしたかもしれない。と思うと、なかなか面白い。ま、全然関係ないかもしれないが、想像をたくましくすることだけはできる。

支倉常長3

2008年05月25日 | Weblog
1000人ばかりの小さな会社で、派閥争いがあり、私もそれに巻き込まれ、「群像」から文芸出版部を経て、学芸出版部に異動になった。それからまた10年ほどたったあるとき、新潮社から、『侍』という題で、遠藤周作の純文学特別書き下ろしの本が出た。その主人公は支倉常長だった。私から遠藤周作の担当が何代かかわった後のことである。
私自身は、その頃は、別の仕事で忙殺されていたから、それに対して、著者がそれでよければそれでいいと思ったが、支倉常長に関する興味は尽きなかった。最近になってやっと仙台に近い故郷に帰ったし、仙台には、高校時代から大学時代の友人が多いので、仙台に行く機会も多く、関心のあるところを見て回るようになった。高校時代には、知らなかった店などにも興味を持つようになり、そんなところにもよることがある。
故郷登米の北に、米川という、隠れキリシタンの里があるが、それと支倉常長の関わりなどもあるのではないかと思っている。

支倉常長2

2008年05月23日 | Weblog
なぜ、支倉常長に拘るかというと、私が「群像」という雑誌の編集にいたとき、遠藤周作の担当であった。遠藤周作氏は、支倉常長に興味を持ち、それを「群像」に書くことになっていたので、ちょうど、私が、宮城県出身ということもあり、月の浦などに案内した。当時、宮城県立博物館の館長だった伊達篤郎氏にも面会して、その頃は、まだ二つ折りのまま仕舞われていた支倉常長の肖像を見せていただいた。しかし、そのときは、支倉常長の墓は訪れなかった。遠藤周作氏が望まなかったせいもある。支倉常長の名前を冠した通りなど、仙台には、その名がよく残っているが、いつからのものか分からない。支倉常長のこと自身忘れ去られていたのだが、明治時代になって、日本から派遣された明治政府の役人たちが始めてローマで教えられて、そのような時代にすでにヨーロッパを訪れた日本人がいたこと分かったのだ。支倉常長の墓がいくつかあるということは、それが後に建てられたのもののように思われる。


支倉常長の墓

2008年05月22日 | Weblog
かねてから、行ってみたいと思っていた支倉常長の墓に詣でた。北仙台駅の近くに有る光明寺の墓地の奥にある。案内板があるから容易に探すことが出来た。その隣りに支倉家の墓がいくつかあり、そばには、ソテロの記念碑もあった。墓の入口には大きな石板があり、漢文で支倉常長の事績が記してある。明治時代に建てられた石碑で、文章の撰は、大槻文彦がしている。書は、佐沼の亘理氏による。真新しい花が供えられていた。毎日のように詣でている人が花を替えているとみえる。
支倉常長の墓と言われるものは、このほかにも黒川などにいくつかある。その長男がキリシタンで、刑死しているが、その後支倉家は名誉を回復したいる。ただ、支倉常長の晩年がよく分からない。


登米伊達家第5代伊達大蔵村直は誰の子か

2008年05月20日 | Weblog
伊達宗倫は、江戸の品川の伊達藩邸に蟄居させられている兄、仙台第三代藩主伊達綱宗に相談してその子を養子に迎える約束をして帰る途中に客死した。綱宗は、仙台藩の政争から離れられたせいか、長生きし、子供も多い。その綱宗の第4子が登米第5代館主村直だ。綱宗の長子亀千代は、3歳で仙台藩第4代藩主となった綱村だ。綱村は晩年養子を迎えて仙台藩第5代とした。養子を迎える藩主が自分の子をよそに養子にやるわけがない。
登米伊達家第5代伊達大蔵村直が誰の子かというのを不安になって、取りあえず手もとの『登米町誌』第一巻で調べたがやはり私の記憶が正しかった。

『奥の細道』岩波文庫と角川版の間違い

2008年05月19日 | Weblog
仙台の青葉祭りをみがてら、書店を回ってみた。金港堂は前よりまた売れて後5冊の在庫になっていたが、「登米物語』は、ベストセラーのコーナーからは外されてもとの棚に戻されていた。それでも、売れ続けているからま、いいか。芭蕉の関係の本を調べたら、花泉の涌津は、岩波文庫の萩原氏の本では正しく涌津であった。私の写し間違いだった。ところが、登米伊達の第5代村直は、新版なのに直っていないで、相変わらず、綱宗の子となっているままだ。
さらに驚いたことに、信用していた、尾形仂氏の角川版でも同じ間違いをしているではないか。どちらかが、間違いをしていて、それをそのまま孫引きしているのだ。給料をもらって研究職にある人たちがこの間違いでは、と思う一方、私が間違っているのだろうかと疑心暗鬼になる。

工業立国のあるべき姿

2008年05月18日 | Weblog
農業従事者が将来見込めない現状では、農業従事者を増やすための政策が今、喫緊のことだ。そうでなければ、今、余っている米もすぐに足りなくなるのは目に見えている。日本は、工業立国を目指しているが、そのためにも農作物を、工業従事者が安心して入手できるようにしなければならない。しかし、米国を始め、その国で余っている国の農作物を買うことによって、工業製品を売りつけているが、代わりに買うものはほかにもあるのではないか。米国の場合は、米国の債券を異常に買ってそれが焦げ付く恐れにさらされているのだが、焦げ付かないように米国を支えすぎているのだ。