藤原清衡は、本拠地を江刺郡豊田の館(えさしぐんとよだのたて)から平泉に移し、陸奥出羽の国内一万あまりの村ごとに寺を建て、白河の関以北の道筋一町ごとに、金色の阿弥陀像の絵をを描いた傘塔婆を立てた。また安倍氏の旧跡衣川に二十二年の歳月と巨万の金を費やして中尊寺を建立して平和の聖域とした。中尊寺域の中央に多宝塔を建て、釈迦多宝像を左右に安置し、その間を旅人が通れるように道を通した。
藤原清衡の二子、基衡・惟常兄弟は跡目相続争いの末、勝った基衡は、中尊寺を遥かにしのぐ毛越寺(もうつじ)の大伽藍を建立した。本尊薬師仏は運慶に依頼し、手付けとして金百両、引き物として鷲の羽百尻、直径七間のアザラシ皮六十余枚、安達郡産の絹千疋、希婦の細布二千端、糠部産の駿馬百疋、白布三千端、信夫郡産のモジズリ千端などをはじめ山海の珍味を仏像が出来上がる三年間送り続けたという。
別の贈り物としてスズシの絹を船三艘で送り届けたところ、運慶が冗談で、
「実にありがたいが、練り絹だともっと好かったのに」と言ったというのを聞いて、すぐに、練り絹をまた船三艘で送ったという。
藤原清衡の二子、基衡・惟常兄弟は跡目相続争いの末、勝った基衡は、中尊寺を遥かにしのぐ毛越寺(もうつじ)の大伽藍を建立した。本尊薬師仏は運慶に依頼し、手付けとして金百両、引き物として鷲の羽百尻、直径七間のアザラシ皮六十余枚、安達郡産の絹千疋、希婦の細布二千端、糠部産の駿馬百疋、白布三千端、信夫郡産のモジズリ千端などをはじめ山海の珍味を仏像が出来上がる三年間送り続けたという。
別の贈り物としてスズシの絹を船三艘で送り届けたところ、運慶が冗談で、
「実にありがたいが、練り絹だともっと好かったのに」と言ったというのを聞いて、すぐに、練り絹をまた船三艘で送ったという。