芳賀明夫の思いつくままに

フィジーから帰国して

陸奥藤原氏の繁栄

2006年06月29日 | Weblog
藤原清衡は、本拠地を江刺郡豊田の館(えさしぐんとよだのたて)から平泉に移し、陸奥出羽の国内一万あまりの村ごとに寺を建て、白河の関以北の道筋一町ごとに、金色の阿弥陀像の絵をを描いた傘塔婆を立てた。また安倍氏の旧跡衣川に二十二年の歳月と巨万の金を費やして中尊寺を建立して平和の聖域とした。中尊寺域の中央に多宝塔を建て、釈迦多宝像を左右に安置し、その間を旅人が通れるように道を通した。
藤原清衡の二子、基衡・惟常兄弟は跡目相続争いの末、勝った基衡は、中尊寺を遥かにしのぐ毛越寺(もうつじ)の大伽藍を建立した。本尊薬師仏は運慶に依頼し、手付けとして金百両、引き物として鷲の羽百尻、直径七間のアザラシ皮六十余枚、安達郡産の絹千疋、希婦の細布二千端、糠部産の駿馬百疋、白布三千端、信夫郡産のモジズリ千端などをはじめ山海の珍味を仏像が出来上がる三年間送り続けたという。
別の贈り物としてスズシの絹を船三艘で送り届けたところ、運慶が冗談で、
「実にありがたいが、練り絹だともっと好かったのに」と言ったというのを聞いて、すぐに、練り絹をまた船三艘で送ったという。

中世の登米

2006年06月27日 | Weblog
文治五年(一一八九)九月、平泉藤原氏を滅ぼした源頼朝は、毛越寺南大門に安堵状を掲げさせ、それまでの藤原氏と変わらぬ政策をしくことを約束し、「吉書始(きっしょはじめ)」の儀式を平泉で行い、平泉藤原氏の旧領地を全て、鎌倉ご家人に分配した。下総国(千葉県南部)葛西庄を領していた葛西清重(かさいきよしげ)は、平泉を中心とした胆沢、磐井と宮城県北部の登米、牡鹿などが与えられた(『吾妻鏡』)。
登米の南東隣りにある津山町の横山不動尊は、平泉藤原氏の保護下にあり、不動尊の胎内にある黄金像は保元時代(一一五六~五八)に韓国の百済から招来したと言い伝えられる。津山町は現在登米市になったが、もとは本吉郡で、南隣りの桃生郡、牡鹿郡とあわせて南三陸金華山国定公園に入っている。
従って、葛西の領地は現在の岩出県南部と宮城県北部の相当広い地域にわたっている。しかし、葛西の本流は鎌倉にとどまり、一族にこの東北の地を経営させたようだ。
これより伊達政宗がこの地を領するまでの約四百年間の登米の詳しい歴史ははわからない。

軍場山

2006年06月23日 | Weblog
軍場山は、登米町の北西部にある小高い丘で我が家の田んぼが南に面して丘上にある。その麓に前九年の役、後三年の役の戦場跡と記した看板が立っている。前九年の役(一〇五一~六二)は陸奥の俘囚長、安倍頼時、その二人の子息貞任、宗任と源頼義・義家父子との間の戦いで、義家は出羽山北の俘囚主清原の光頼・武則兄弟の助けを得てやっと平定した戦いだ。これにより、俘囚主清原武則は、従五位下鎮守府将軍に任命され、安倍氏の故地ももらい、ますます大きな豪族となった。後三年の役(一〇八三~八七)は、その子孫である清原家衡・その叔父武衡と清原(藤原)清衡、源義家の間での戦で金沢柵(かねざわのき)で清衡たちが勝ち平泉藤原政権が確立した。
俘囚とは蝦夷のことで、京都の朝廷が陸奥を平定する過程でそこの人たちを蔑視した言葉だ。陸奥には群雄割拠していたことがわかる。
我が家の田んぼを軍場山の上に開墾したときには、たくさんの文化財が発掘されて、それは登米高校に保存されているという。
軍場山は、遠方まで見晴らせ、頂上が軍隊を集結させるのに十分広いから、格好の基地になったのであろう。

狐峯山瑞昌院本覚寺

2006年06月19日 | Weblog
浄土宗本覚寺
本覚寺は瑞昌院の菩提所だ。浄土宗の本覚寺は真賀部道英住職によると、光連社照誉(こうれんじゃしょうよ)が、水戸から来て慶長二年に開山したという。その時代からの本尊阿弥陀如来は、三尊像の形でまつられている。瑞昌院の祖父、織田有楽斎は織田信長の弟、東京の有楽町に名を残す茶人であった。瑞昌院は仙台伊達第二代藩主忠宗の側室で登米伊達第四代藩主宗倫の母だ。忠宗が万治元年(一六五七)亡くなると瑞昌院は仙台から登米に移り住んでいたが、宗倫を継いだ村直が元禄二年に登米の臥牛城の北館に造った喜庵館に移った。喜庵館は、天文5年、葛西晴胤が石巻から寺池に居城を移した時、高屋喜庵が晴胤に従って、寺池館に入り、この北館に住んだのにちなむという。瑞昌院は、本覚寺第七代住職運哲に帰依していたので、元禄七年に亡くなると、村直によって一貫文の寺領を寄進されて本覚寺が瑞昌院の菩提所になった。本堂左裏山にその五輪の塔がある。本堂は、平成十七年に大改築され、本堂の流れ向拝の銅板葺き屋根の下にある額「本覚寺」は真賀部道英住職の子息覚誉道賢の書だ。

旧伊達家の奥座敷(奥御書院)

2006年06月17日 | Weblog
館山の同級生、米本君の隣に子供の頃、星野家があった。その家は、庭が立派で、生け垣に囲まれ、近付き難い雰囲気があった。今回、登米の歴史を調べていたら、その建物が、旧伊達家の奥座敷(奥御書院)で、夫人の化粧室だったことが分かった。臥牛城と呼ばれた伊達家の寺池館は、戊辰戦争で負けた時に、官軍の土浦藩の心ない取締役によって焼き払われ、7日7晩燃え続けたといわれる。本丸の館神に守られたのか、隣り合わせの北隅に山を背にして鶴亀の石組みの心字池を擁する庭園とこの奥座敷は奇跡的に類焼を免れたのだそうだ。南側に十畳三室が並び、中の間の北に六畳間がある。米本君が管理しているであろうから、見せてもらいにいった。米本君の奥さんがいて、茅葺きの屋根が2年ほど前から落ちて雨漏りがひどく、荒れるにまかせる状態だと説明しながら中も見せてくれた。今は、星野家の長、次男たちの所有で、自分達の代では売る気はないといっているそうだから、この貴重な建物は、その子たちによって失われることになるのだ。中の間と六畳間は上を見ると空が見え、雨が降っ込んで、床が濡れてギシギシいっている。
この建物のつくりは、私の家とよく似ていて、東の十畳間の丑寅方向に床の間があり、その左隣が、押し入れだ。その北が納戸だったところであろう。それにつけても文化財がみすみす失われるのは惜しいことだ。

登米懐古館と天山公脇の暴れ地蔵

2006年06月16日 | Weblog
登米懐古館
日本鋼管社長、東北開発総裁、明治大学理事長などを歴任した登米町名誉町民の渡邊政人が、昭和三十六年の古稀記念事業として、自ら蒐集していた文化財のなかから登米伊達氏に縁のあるものと、それを保管収蔵する施設に懐古館と命名して、併せて町に寄贈したのを受けて同年から一般に公開された。昭和六十三年から増改築を行い、展示内容を一層充実させて平成二年に新装開館した。
天山公脇の暴れ地蔵
廟に向かって右隣に通称「あばれ地蔵」が南向きに座っている。台座の地蔵は、いくら直しても向きを変えることからこう呼ばれるようになった。かつては「縄かけ地蔵」とも言われ、横綱風の縄がかけられていたという。伊達家の姫君が不義いたずら者によって殺されたので、この地蔵を建立して供養したと言い伝えられている。

伝統芸能伝承館 「森舞台」

2006年06月15日 | Weblog
伝統芸能伝承館 「森舞台」
登米町には藩制時代から伝わる登米能をはじめ岡谷地南部神楽 、とよま囃子など伝統芸能が町民の手で長年受け継がれてきています。
伝統芸能伝承館 「森舞台」は、宅地約九五四平方メートル、山林一万八千六九五平方メートルの旧高橋鐵郎邸(通称お鍛冶屋)が、平成4年に一千万円を添えて町に寄付されたのを受けて、それら地域文化に活動拠点を供するため、本格的な能舞台を備えた伝統芸能の伝承施設として、平成8年に落成しました。建築家隈研吾が、能というドラマツルギーを室内から美しい森に解放して、能が演じられない日にも舞台を巡る人々の想像のなかに「見えざる能」が再構築されるように設計したという。能舞台正面奥の鏡板に、老松と若竹を描いた日本画家千住博は、日本文化の奥行きの深いダイナミズムを感じられるよう、天然の緑青と群青を用いて、虚実の実を松に、虚を竹に表現したという。展示デザインはアートディレクター原研哉により本格的な能舞台となっている。この能舞台は平成9年、日本建築学会作品賞を受賞した。
背後には美しい竹林や立木が広がり、静かで厳かな自然のなかにあるこの森舞台の施設には、能舞台
室内見所、稽古場、展示室などがあり、演能や仕舞・謡・邦楽の稽古のほか、春には茶会にも利用されている。
展示室には、能装束や能面等をはじめ登米能に関する資料を展示していて、演能のビデオも見ることができる。

仙台の地名の由来

2006年06月14日 | Weblog
高校3年の時、応援団長の選挙があり、同級の宮川君が私を推薦して、私が田舎の登米に休みで帰っている間に選挙があり、学校に戻ったら次点だからという理由で応援団の副団長になってしまっていた。そのため、二高との定期戦などで応援旗を振って応援歌を歌う機会が多かった。仙台一高の凱歌に、
「喜びに満つ五城楼、戦い勝てり、うま酒を酌みて」という一節がある。
五城楼は、仙台の別名だ。仙台の地名の由来については、だから知っていたが、
伊達宗弘氏が『みちのくの和歌、遥かなり』で詳しく書いているから改めてここで紹介してみる。
入りそめて国豊かなるみぎりとや千代とかぎらじせんだいの松
という和歌は、伊達政宗が岩出山の城から、仙台の城に移った慶長6年(1601)に仙台の末永い繁栄を念願して作り、これにより千代(ちよ・せんだい)を仙台の地名にかえたのだ。
漢の文帝が紀元前2世紀に仙遊観という壮大な宮殿を造営したのを、唐の詩人韓こうの七言律詩「同じく仙遊観に題す」でことほいだという故事からとっている。
その最初の句が、
仙台初見五城楼(仙台、初めて見る、ごじょうろう)
で、ここからとっている。伊達氏によると、岐阜の地名も中国の故事からとっていて、そういう地名は少ないようだ。


菅野芳郎邸

2006年06月13日 | Weblog
この屋敷は、旧片平氏邸である。
片平氏は、天保5年(1834)、25石の小姓通りに召し出された家柄で、武家としての歴史はないのだが、天保7年の大飢饉に大量の救恤米(きゅうじゅつまい)を施したので、その功により41石に取り立てられ、屋敷も現在地になったのである。その元となったのは財力で、片平家の造作は他の一般武家屋敷には見られない豪勢なものである。
まず目につく武家屋敷特有の長屋門、その入り口には饅頭金具を打った両開きの扉、その前の石橋も立派なもので、昔のままである。門をくぐって一歩中に入ると、すぐ目につく枝ぶりの良い多行松(たぎょうしょう)。そして舞良戸の建つ玄関と式台である。玄関はそのまま広間に通じ、右手は書院で賓客の応接用である。書院の前に中庭があり、その奥に茶室がある。中庭は石の配置や樹木にまで気が配られ、茶室と相まって風流の薫りが高い。
中庭と玄関とを仕切る塀には塀重門(へいじゅうもん)があり、この門の冠木(塀重門には冠木がない。笠木?)にも透かし彫りがしてあるなど、贅を尽くしている。
母屋は解体されてしまって今はない。屋敷の表通りに面したところには、登米武家屋敷共通の樫の木が植えてある。

登米伊達家再訪

2006年06月12日 | Weblog
登米伊達家の第16代当主伊達宗弘氏に、50数年ぶりに会った。今度造る『登米物語』の巻頭言を書いていただくためだ。私は小学校6年生の時に館山の子供会の会長だったので、夏休みによく伊達さんの広い庭を借りて、ござも借りて、それに座って宿題の勉強会をした。1級下の伊達ゆうちゃんや3級下の宗弘君もその時一緒に勉強した仲間だ。伊達さんのお宅とは、母親同士が友達ということもあり、
「きくちゃんのところにこれを届けて」と言われて母の用事で行くことも時々あったから、伊達さんのお宅にお邪魔したのも数十年ぶりで、97歳になられたというお母さんとお会いするのも、だから、数十年ぶりである。
宗弘君に会う前にお母さんがわざわざ居間の2重の戸をお嫁さんにあけさせて、足が不自由らしく、椅子の上から挨拶して下さった。耳が少し遠いと謙遜されるが、私の母に比べればずっと良く聞こえる。
帰りがけにきくお母さんの部屋にお邪魔したが、私の母よりもずっとお元気で、非常に懐かしがって下さり、
「お母さんはお元気ですか。私のほうが年上ですが、おいくつになられましたかね」と私の母を気遣って下さるくらいに気持ちもしっかりしていらっしゃる。だから、
「母は91歳で、今日は、デイ・サービスというので、出かけています。母の方がずっと耳が遠いですよ」と応えると、
「デイ・サービスですか」とすぐ納得されていた。
伊達宗弘氏は、宮城県図書館の館長を退職してからも、名誉館長を務めていると聞いていたから、月曜日は休みで在宅であろうと朝電話すると、
「最近は、講演に行くことが多くて、今日の午後1時から2時の間なら」と指定された。伊達氏の館は、同じ館山で小学校からちょっと坂を上った所であるから、我が家から5分もかからない。昔の坂は使っていなくて、天山公廟の建物に通じる道から入った。
館は昔とかわらず、初めて通された応接間は、昔ながらの趣のある部屋で、椅子と机も重厚だ。
先週は、3日も講演をしたとかで、講演の内容をまとめて本を出版していると著書にも記してあったが、宗弘氏も
「講演が多すぎるから、このごろ書く時間がなくて」と言っている。
古歌について書いている本が多いから、調べるのに相当時間がかかるのではないかとたずねると、
「伊達家は子供の頃から古歌を叩き込まれているから百人一首ばかりでなく、たくさんの古歌を空んじているんです」と、日本史と切り離せない話の端はしで、万葉集から伊達政宗、明治天皇の作った歌までも、次々と披露してくれる記憶力に圧倒された。
日本文化そのものを体現している。竹子さんという宗弘氏のおばさんが私の母に下さった『北上川』という歌集を見たことがあるが、そのおばさんの影響もあるのだろうか。
『みちのくの和歌、遥かなり』『武将歌人、伊達政宗』『みちのくの文学風土』とこの数年来次々と上梓している本にも古歌がちりばめられている。
わたしは、俵万智との共著『光そへたるーー源氏物語の恋の歌』と大沢和泉の絵で現代語・ヒンディ語訳した『竹取物語』を差し上げ、伊達氏には『みちのくの指導者、凛たり』に署名して頂戴した。文学ばかりでなく、政治的な話も、
「今の政治家に人々をリードする志も気概もなく、米国の枠に組み込まれた政治に流されている。江戸時代は幕藩体制を維持する役割をもしたが、朱子学が学問を発展させた」と、私の考えと共通する論を述べたので、つい長くなり、3時までしゃべってしまった。
昔一緒に子供会をした庭の広場に私を案内されたので、
「あの松の大木はどうしましたか」と訪ねると、
「枯れてしまいました」と残念そうである。
「この広い庭を維持するのは大変ですよね」と、同情してしまった。現在の税制は、一介の公務員になってしまった伊達家の子孫にかける税金はあまりに大きいのである。講演を次々と引き受けざる得ないであろう。