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芳賀明夫の思いつくままに

フィジーから帰国して

筋書き通りの食糧政策

2011年07月31日 | Weblog
田舎住まいの楽しみは、自然に親しめることだった。
田舎住まいの楽しみが全て奪われてしまった。
放射能禍で地面は、高濃度放射能に汚染されているから、田舎の生活の楽しみだった茸、タケノコ、たらの芽、栗拾いはもうできない。
食事の最大の楽しみだった魚ももう食べられない。
米国から輸入する牛肉は、私の口には合わないが、好きな人は魚を食べずに、牛肉に走るから、牛肉を輸出する米国の思うつぼであろう。
東北の米もどの程度の汚染か分からないが、それよりは、米国や豪州のコシヒカリを食べるほうがましになるであろう。
実に筋書き通りの食糧政策ではないか。
ここ、大学構内を毎日歩くのが日課である。その一番高いところがガーンディー丘の公園だ。そこから遠方のもっと高いところにヒンドゥー教の神社が見えるが、そこまでは行ったことがない。そこに登ると、汗だらけになるであろうから。

インドの作家の言葉

2011年07月30日 | Weblog
昨夜、図書館長のご自宅に呼ばれ、軽い夕食をご馳走になって、宿舎の夕食に間に合うぎりぎりに帰ってきた。
昨夜は暑かったので、宿舎の前のテラスで白髪の作家が涼んでいた。
彼の名前は失念したが、感じの良い方で、以前にも話しをした事があるので、彼に呼び止められるままにそこで話し込んだ。
ついさっき、マラヤジャ図書館長と私が日本語教師できた理由の高濃度放射能の話しをまたすることになり、作家氏もそのことに関心を持ってくれた。
マラヤジャ図書館長同様に、今回の福島も、米国の輸出してきた第一原子力発電所一号機であることを話した。日本が、1945年の夏に米国によって原爆を広島と長崎に落とされたことを知っていて、三度も米国の原子力禍に曝されていることを知っていた。
彼の考え方が、私のと良く似ているので、彼の話しをそのまま書くと、世界は広島長崎の原子力禍をまるで、学んでいない。世界は、悪くなるばかりである。米国は、世界中をバーザールにして、金儲けをして世界を悪くしている一番の悪者だ。と言うのだ。
それに対して、私の言い訳は、日本は米国に戦争で負け、自信を失って、米国の言いなりにならざるを得ない。米国の指導者と同じ考え方で、言いなりになる人だけが、日本の指導者になれるのだ。と、日本の現状を説明した。若者も、教育で同じ考え方を植え付けられていて、要するに救いようがない。
日本には、国破れて山河在りという中国の詩があるが、その山河も放射能でやられているから、山河もないのだ。放射能禍は、全てを失わせる。
通常兵器での敗北なり、惨状は、数年で元に戻るが、放射能禍は、イラークでも、アフガーニスターンでも、劣化ウラン弾を使用していて、それを発射した米兵自身も被曝しているのに、米国政府は隠している。それを被弾したイラークやアフガーニスターンの一般人は、とんでもない病気にかかってしまっている。
日本の場合は、被弾は1945年のことで、続いて福竜丸、そして、この3月11日の原発事故である。

自分個人の部屋の準備

2011年07月29日 | Weblog
昨日、ヒンディー語の履歴と、今後の抱負をヒンディー語で書いたのを印字してもらったが、私のマックのパソコンが、葉書大の設定であったため、なかなかうまく行かず、面倒に思った職員が、私の打った文章を訂正しながら、打ち直してくれた。ほぼ午前中一杯かかった。
これからすると、私が、ざっと打ったのを清書風に今後も打ち直してくれるのではないかと思われる。
昨日、私の部屋の什器の請求をするように言われたが、結局、書類を必要として、今日になって戸棚や、椅子、机、パソコン、印刷機などを請求した。全部が揃うのは、月曜日だと言う。
それでは、気の毒だと、スペイン語教師が、取りあえず、椅子とパソコン棚の有り合わせを用意するように、現場に話しをしてくれ、部屋に坐ることが出来るようになった。
私は、昔から、椅子は、後に動かない、固い背中のを好むので、それを何度も説明して、請求したら、明日、店に見に行くように言われた。
自分の部屋というのは、学生時代に日本で研究室と呼ばれた、教師達がいた部屋のことである。
私自身はもう研究などしたくないが、部屋があるのは何かと便利であろうし、10畳以上あると思われる広い部屋だから、そこに椅子を沢山置けばそこで授業が出来て便利だろうと思い、椅子を6個頼んだら、サインをもらって行くうちに、減らされて、4個になった。要するに自分用1個と来客用3個である。それが通常の請求なのだそうだ。
やむを得ず、教室用の机椅子の余っているのを現場の係に6人分入れてもらった。

ジャワハルラール・ネルー医学大学で日本語教育の宣伝

2011年07月28日 | Weblog
夕べ、私に取材したいという人が、明朝までに、ヒンディー語で履歴とこの大学で何を教えたいか、2ページお分量で書いておくように言われ、夜中の2時近くまでかかって書いた。
手書きだと大変なので、パソコンで打ち込んだ。
遅かったわりに、早朝目が覚めたので、いつも通りに散歩して、ジムでベンチプレスをして、朝の紅茶を飲んでから朝食を摂った。
今日は、南インド料理のイードリー、サンバルだった。
ヒンディー語の履歴を打ち出してもらうために語学科の事務所に行って打ち出してもらったが、葉書大の設定になっていたため、何ページにもなり、仕方なく、それを渡した。三時から、ジャワハルラール・ネルー医学大学で、日本語を教える宣伝をするようにいわれていて、車で送り込まれた。外科の専門医で学部長のサンディープ・シュリワスタワ医師の世話でホールに一杯に集まった医者の卵達に話をした。私がここにライ学長に呼ばれて来た理由を、放射能から身を守るためという話しで始めて、日本の製薬会社がインドにどんどん進出してきているので、日本語が役に立つと言う話しをしたのだが、中国語や、スペイン語の説明より受けたようで、スペイン語の教授に学生に一番受けていたと言われ、帰ってから学長に報告したときも、学長から感謝された。
半年で2400ルピーという授業料は、約4000円か。

責任者の責任を取らない、取り方

2011年07月27日 | Weblog
11時に事務所に銀行口座開設用証明書をもらいに行ったら、案の定出来ていなくて、それから、しばらく待たされてやっと出来た。それをまた別の事務所に持って行くというので、私が届けると言うと、持ち運ぶ人は決まっていて、それの運び先で、署名をもらうのだそうだ。仕方なく、その運び屋について行き、そこでサインをもらい、さらにそこの責任者の署名をもらってから、その運び屋について元の事務所に帰ったところで、また、そこで受け取ったという事務所方の署名をもらい、さらに私が署名して証明書をやっともらった。事務方の署名、責任者の署名と、何回も署名がされるから、ついて行って、他の書類の上に私の書類を載せて一番目に署名をしてもらってやっと30分もかかって出来た。
それを大学構内のBANK OF INDIAに持って行き、書類を書いて、顔写真を2枚つけて提出し、午後4時に取りにくるようにと言われた。
コチラも客が多かったと、午後4時には出来ていなくて、4時に銀行を閉めてから、通帳を作ってくれた。通帳に私の写真が1枚はってあり、それに割り印がしてあった。
それをまた事務方に持って行き、口座番号を届けると言うと、学内の銀行だから必用ないと言われたが、それでは、給料を振り込む口座番号が分からないのではないかと、財務担当のシンさんのところに行って話すと、銀行口座の1ページ目をコピーしたのを、部下の係に渡してくれた。
こんな日常業務が分からないのでは、ヴィザ用書類がさっぱりできなくて当然であった。
毎日事務方の仕事にかかずりあって、出かけるたびに、大汗をかいて帰ってきてシャワーを浴びる。それだけで何となく疲れて昼寝である。
あとは、外人登録がちゃんとされるかどうか確認する必要がある。署名をする責任者の一人が、一度登録してあるからもう必用ないなどと言っていたからだ。前のは、観光ヴィザであり、今回のは、雇用ヴィザで、今回こそ外国人登録が必要だとうことがわかっていない責任者だ。ちょっと足りないのか、お粗末なのか。責任者というのはどこでも、上司の鼻息ばかりをうかがって、こんな程度なのかもしれない。それが、原発事故や中国製新幹線事故に結びついているのであろう。

大学に雇用登録など

2011年07月26日 | Weblog
ライ学長に申し渡されたのは、直ぐに大学に参加するようにと言い、係を呼んで一緒に関係部署に行くようにということだった。先ず、副学長に副学長室に連れて行かれ、係が作ってくれた参加の書類に署名した。この参加というのは、joinと言っていたが、実際の文章は全てヒンディー語で書かれていて、私は署名するだけだった。要するに大学に日本語教師として7月25日11時半に登録されたのだ。そのあと、語学科の学部長の部屋に連れていかれ、事務方の係を伴って、学部長の案内で、個人用に予定されている部屋に案内された。学長命令で広い部屋を用意してくれて、二つのどちらかということであったが、一応涼しそうなほうを選んだ。10人程度の学生ならそこを教室にも使える広さである。二、三日でパソコン、電話などの什器を備え付けてくれ、そのあとは、毎日そこで昼間過ごせるようになるようだ。
毎日行くところが出来るのは良いことだ。朝の散歩だけでは、まだ足りない。それから、銀行口座の開設よう証明書を申請して宿舎に戻った。昼食後、なかなか出来たという連絡が来ないから、夕方催促に行くとまるで手がつけられていなくて、明日11時に来いと言う。FRROというところに、外人登録しなければならないが、それも大学がすることになっていて、旅券を預けてはあるが、まだ書類を作っていなかったので、コピーは済んでいるというから、旅券を返してもらって宿舎に戻り、夕食を食堂で済ませた。

中国の新幹線事故と日本の原発事故

2011年07月25日 | Weblog
ライ学長にメールで帰着を報告したところ、月曜の11時に学長室に来るようにという返事をもらった。副学長もいつもこの時間を指定して来るから、11時からという時間が、会議も何もない時間帯のようだ。
早朝に起きた。といってもここの5時は、日本時間の8時半だから、日本時間で考えれば、それほど、早朝に起きているわけではない。
昨夜は、畳表を持って来て敷いたので、汗をかかずにすんだ。畳表を持ってくる時に丸めて筒状になっていたから、あやしまれたが、軽いし、持ち運びが楽で、これのお陰でベッドの上で汗だらけにならないですんだ。
ベッドは、夜中になると、マットが熱を持って暑苦しいので、畳表を持って来たのだ。
畳という家具の優れているのを再認識した。
雨がなかなか止まないから、ジムに行って、走行器で20数分走り、ベンチプレスをして、部屋に戻り汗を流したが、汗が止まらない。走行器で走るほうが、道を走るよりきついのかもしれない。
走行器で走っているうちに、また、中国製運動靴の底がはがれた。どうも中国製は信用できない。一昨日の中国の新幹線事故もその延長上にあるのかもしれない。この大惨事を中国製だからと言うと直ぐに、原発の事故にも同じようなことだと跳ねかえってくる。日本の原発事故はもっと広範囲に悪影響を与えているから、中国より優れているなどと言えた筋合いではない。鉄道事故は、尼崎でも余目でもつい先だって起きたばかりだ。
要するに、効率を重視するあまり、安全がそっちのけにされているのだ。原発の場合は、それが起こった時の影響の大きさが認識されていないから、原発事故は起きないという前提だけが先走っている。


久しぶりで大学食堂のカレーを食べる

2011年07月24日 | Weblog
ともかく、デリー経由で、大学に帰り着いた。
デリーはさほど暑くなく、東京の暑さよりはましである。
日曜日で大学のほうがどうなっているか分からないが、それにしても、直ぐには授業は始まらないであろう。
これまで大学側との話し合いは、ヴィザについてだけであったから、これからの授業をどうするかは、今からの話しである。
久しぶりにジャワハルラールネルー大学のゲストハウスで夕食をとったら、美味しかった。ここのは、ちょっと辛いがいかにもインド的な味付けである。
ヒンディー語大学の食堂で昼食を摂ったところ、味は、辛くないし食べやすい。
大学財政責任者のシック教徒のシンさんとは、良く話しをする仲だが、今日も昼食に職場から戻ってきたので、久しぶりでの再会を祝った。
彼の息子が遊びにきていたのだが、今日いなかったところを見ると、もうチャンディ-ガルに帰ったのかもしれない。

白のコンコルディア・キャップを初めてかぶる

2011年07月23日 | Weblog
朝一番で、インド大使館領事部のヴィザ担当責任者にお礼の電話をしたところ、「これは自分の仕事です」と言ってくれた。
「これほど早くヴィザを出してくれたので、来週から授業を始められる。これは印日の関係を深める」というと、「そうだ。関係を強める」と応じてきた。
先日、舘次郎君の日本ボート協会理事長退任慰労会の時に、同期の斎藤攻君から受け取ったコンコルディア・キャップを初めてかぶって、午前中に、神保町の古本屋街に行って、本を探して歩いた。あまり荷物が重くならないように、『雪国』『宮柊二歌集』『歌舞伎の美』の3冊だけを買った。
この帽子は、白の地に大学の校章にオールを交差させたしゃれたデザインで、なかなかカッコいい。去年亡くなった外林先輩やアフリカでナッツ会社を起こした佐藤芳之先輩と同期の池田孝至先輩が中心になって、私と同期の斎藤攻君がこの帽子作りに関わった。
ワルダの大学では、毎日、早朝散歩するのでその時にかぶろうと思う。カッコいいので、散歩仲間から羨ましがられるのではないか。
『歌舞伎の美』を買ったのは、劇を教えている教授が、東大に留学した時に、歌舞伎の研究をしたと言い、日本語を忘れたから、また私の授業で日本語を習いたいというので、それも参考書に使おうと思ったからだ。
学長によると、20人くらいの学生が日本語を習うのではないかと言う。
私としては、あまり多くないほうが良いのだが、斎藤攻君とやはり同期の立花栄治君に聞くと、高等学校の英語教師もしていたので、20人は、語学教育の最大適正人数だと言っていた。

奇跡が起こる

2011年07月22日 | Weblog
19日にヴィザセンターで、申請を受け付けられなかった時、その日が、22日にヴィザ発給を受けられる最後の日であったから、諦めて、観光ヴィザで行かせることを考えたのだが、エアーインディアの木下さんが、ヴィザ発給の責任者に連絡するように名前と電話番号を教えてくれたので、20日に申請をする前に、電話で明日21日ににも直ぐに発給してくれるようお願いしたところ、書類がそろっていれば、明日21日にでも発給すると言ってくれた。規定によれば、土曜日の発給はないから、来週の月曜日に発給されることになるのだが、責任者が、明日にも発給してくれると言っているのに、ヴィザの係の年を食った東南アジア系の女性は、21日とはしないで、22日発給という判子を押してよこした。そして、21日に電話で発給されたか確認してから来るようにと言う。
21日の指定された1時半過ぎに一応電話したが、ずっと話し中で、2時過ぎてから器械の応答にやっと繋がったら、インド人男性の声で、夕方大使館からヴィザが送られてからでないと分からないと言われた。
半信半疑で、21日の夕方にヴィザセンターに行ってみた。
5時前に着いたため、台風のあと急に寒くなった建物の外の長い行列の後ろに並び、やっとB窓口に辿り着くと、東南アジア系の年を食った女性がいなくて、前に私の雇用ヴィザを受け付けてくれた日本人女性がいる。これは幸先がいいと思いつつ、明日22日の発給の判子が押してある受け取りを見せると、直ぐに、見つけてくれて、手渡された。間違いではないかと思い、その場でヴィザの中身を確認したところ、発給日は、私のとは違っても、私と同じ失効日が記されている。奇跡が起こったような気分である。しかも、この日本人女性は、東南アジア系の年を食った女性が休んでいた時に、私の雇用ヴィザ申請の書類を受け付け、発給もしてくれた縁起のいい女性である。
ヴィザ発給のインド人責任者は、2日も早めて発給してくれたのだ。10回目のヴィザセンター通いで完璧にヴィザが貰えた。人間、相性の良い人というのはあるものだ。
もし、今日発給されなければ、折角出てきたのだから、床屋にでも行こうと思っていたが、これをなくしたり、盗まれたりしてはいけないと思い、大事にズボンのポケットに入れて、そのポケットから落ちないよう手で蓋をして真っ直ぐ帰った。
インドに行ったら、出来るだけ、相性のいい人とだけつき合って行こう。折角俗世間に戻ったのだから、気持ちよく生きなくては。