最近、阿部三朗氏から、和賀忠親に関して調べた次のようなメールを頂いた。
「事件の翌年、伊達政宗は、忠親の子をさがし出して、志田郡松山の和賀山に屋敷をあたえて住まわせ、名前は義弘13才と言われているが義弘ではなく、実は和賀忠親本人であるという説。
慶長6年より75年後の延宝4年(1676)にして人前に出ることを許される。和賀義弘(松山和賀初代)、義祐(同二代)、三代目和賀義直の時、仙台藩士として召抱えられ「虎の間」詰めを仰せつかる。(藩主綱村の時)仙台の国分尼寺に和賀忠親と家臣の墓を建てたのは享保5年(1720)のことで、建てたのは、忠親のひ孫にあたる和賀義直、
(人の噂も七十五日と言うが、事件後75年とは偶然のことでしょうか、政宗からの遺言?等で)
末裔は、松山には、小田中氏、北海道名寄や札幌などに和賀氏が住んでいる、東京に西村家等々・・・」
上記のうち、義弘が忠親の息子であるという点については、義弘が江刺郡黒石(水沢市)に逃れて、正法寺の僧になっていたのを政宗が慶長7年に招いて、百十二人扶持を与え、古田内匠重直に預けた。和賀主馬義弘は古田内匠重直の知行地である松山郷千石村広岡に邸を与えられ重直の保護を受けた。翌年、重直が江刺郡岩谷堂に所替えになると、代わって松山領主になった茂庭氏の保護を受け続けたという。
しかし、この義弘は、息子ではなく、主馬祐忠親本人であるというのだ。仙台の国分尼寺で自刃したのは、替え玉だというのだ。また、正法寺は、和賀氏が没落した時に名前を遍照寺に変えたという。
以上、松山町史より
いずれにしろ、これよりは、和賀氏に関してもっと詳しいと思うから、北上市史を見てみたいと思うが、ちょっとそこまで行くのは難しい。
「事件の翌年、伊達政宗は、忠親の子をさがし出して、志田郡松山の和賀山に屋敷をあたえて住まわせ、名前は義弘13才と言われているが義弘ではなく、実は和賀忠親本人であるという説。
慶長6年より75年後の延宝4年(1676)にして人前に出ることを許される。和賀義弘(松山和賀初代)、義祐(同二代)、三代目和賀義直の時、仙台藩士として召抱えられ「虎の間」詰めを仰せつかる。(藩主綱村の時)仙台の国分尼寺に和賀忠親と家臣の墓を建てたのは享保5年(1720)のことで、建てたのは、忠親のひ孫にあたる和賀義直、
(人の噂も七十五日と言うが、事件後75年とは偶然のことでしょうか、政宗からの遺言?等で)
末裔は、松山には、小田中氏、北海道名寄や札幌などに和賀氏が住んでいる、東京に西村家等々・・・」
上記のうち、義弘が忠親の息子であるという点については、義弘が江刺郡黒石(水沢市)に逃れて、正法寺の僧になっていたのを政宗が慶長7年に招いて、百十二人扶持を与え、古田内匠重直に預けた。和賀主馬義弘は古田内匠重直の知行地である松山郷千石村広岡に邸を与えられ重直の保護を受けた。翌年、重直が江刺郡岩谷堂に所替えになると、代わって松山領主になった茂庭氏の保護を受け続けたという。
しかし、この義弘は、息子ではなく、主馬祐忠親本人であるというのだ。仙台の国分尼寺で自刃したのは、替え玉だというのだ。また、正法寺は、和賀氏が没落した時に名前を遍照寺に変えたという。
以上、松山町史より
いずれにしろ、これよりは、和賀氏に関してもっと詳しいと思うから、北上市史を見てみたいと思うが、ちょっとそこまで行くのは難しい。

