芳賀明夫の思いつくままに

フィジーから帰国して

竹取物語あとがき3

2005年09月11日 | Weblog
朝鮮半島では既に六世紀から、新羅が勢力を伸ばして来ていたため、大伴金村は統治の難しくなった任那の四県を、百済の希望に沿って、百済に与えている。それだけの決定権を大伴氏は持っていたと云うことだ。又、武蔵の秩父で初めて銅が発見され、朝廷に献上されたため和銅元年(708年)と改元した元明朝には、古来、武門としての物部氏を代表してきた石上氏の石上麻呂は左大臣まで昇りつめていた。その時の右大臣は藤原不比等であった。藤原不比等以後に藤原氏が権勢を伸ばすと、石上氏も大伴氏も没落して行く。伴大納言絵巻がその象徴である。

これから10月初めまでインドに行くので、暫くこの覧はお休みします。

竹取物語あとがき2

2005年09月08日 | Weblog
当時の日本を取り巻く国際情勢は、斉明女帝の五年(659)百済と高句麗の連合軍が新羅を攻め、日本からは、遣唐使を派遣しているが、翌年(660)、新羅の救援に派兵された13万の唐軍に百済王は敗北、捕獲された。百済の救援に向かった斉明帝は福岡の筑紫で、661年に急死したため、天智帝はその翌年、朝鮮に渉り、百済王子・豊璋を王に立てて戦うが、白村江の戦いで大敗を喫した。これにより日本は唐に朝貢する属国化を強めたと思われる。現代も首相に当選すると直ぐ米国参りをしている。日本の朝廷が新羅に対して要求していた任那の税が海外派兵に見合う程の利権だったのか、あるいは他にもっと大きな理由があっての軍事行動だったのか分からない。天智帝の七年(668)に高句麗も唐・新羅連合軍に亡ぼされた。671年天智帝が没した翌672年、壬申の乱により、天武帝が大友皇子ら近江朝から実権を奪い、以後百年間天武系の支配となった。白村江の敗北が顕著に影響していると考えられる。天智帝の間に二回の遣唐使送られるが、天武一族になってからは、新羅との国交が中心になり、遣唐使は派遣されていない。天武一族は新羅派と云っても良いだろう。おおとものみゆきの先祖は軍人の系統で、大伴金村をはじめ、この任那の利権にも深く関わっていたから、『竹取物語』でも、弓の名手の英雄を自称させられている。

竹取物語あとがき

2005年09月05日 | Weblog
1993年、『寂聴源氏』の編集を担当することになり、私は「編集者はまずプロデューサーとしての仕事をする」と宣言して、「日本全体を紫色に染め上げる」という構想の基に「源氏大学」を始め様々な企画を立ち上げ、『源氏物語』を日本ばかりでなく世界に広める活動をした。それと平行して、『源氏物語』を原文でも読み、訳の善し悪しを判断する事に努力を傾注した。その過程で、紫式部が『源氏物語』の「蓬生」と「絵合」の帖で、『竹取物語』に言及しているのに出会った。
「蓬生」では、末摘花が『かぐや姫』の絵本を古い厨子に入れていた。「絵合」では、「物語のいできはじめの祖なる『竹取の翁』」そして「絵は巨勢の相覧、手は紀の貫之書けり」と、『竹取物語』が日本の小説の元祖であると認識されていた。天慶九年(946)に没した紀貫之は書写しただけと考えられる。『竹取物語』の最終章「ふじの山」末尾では富士山から煙が立ち昇っていると記されている。延喜十年(910)の古今集でも、富士は「けむり立たす」とあることから、それ以前に書かれたことが分かる。清和帝の貞観(859~77)、陽成帝の元慶(877~85)頃から延喜十年までの西暦900年前後にに書かれたのであろう。作者は空海、僧正遍照、後撰集の撰者の一人である源順、光源氏のモデルの一人・源融、菅原道真の弟子・紀長谷雄(845~912)、斎部氏などの名前が上げられている。『源氏物語』が書かれる百年前のことだ。
書名は『かぐや姫』とも『竹取の翁』の物語とも云っていたようだ。かぐや姫への五人の求婚者、石作りのみこ、くら持ちのみこ、右大臣あべのみうし、大納言おおとものみゆき、中納言いそのかみのまろたり、は壬申の乱の勲功者であるとは、既に江戸時代に言及されていた。田中大秀(1777~1847)が、右大臣阿倍御主人、大納言大伴御行、中納言石上麻呂について触れ、加納諸平(1806~57)が、石作りのみこを多治比嶋真人に、くら持ちのみこを藤原不比等に比定している。石作りのみこが十市の郡の山寺から石のはちを持って来たことと、多治比嶋真人が、十市王の孫というのを関係付けたようだ。また、くら持ちのみこについては、「車持」を「くら持ち」と読ませているが、天智帝が妊娠させた地方豪族、車持家の女を忠臣、中臣鎌足に下賜して出来た子供が藤原不比等と伝えられていることによるようだ。
いずれも、大宝元年(701)と年号を定めた式典が藤原京で挙行された時に出て来る名前だ。
唐・新羅連合軍に敗北して、同盟国・百済から大挙して亡命して来た百済の貴族たちによるハイカラな文化が隆盛していた頃である。これは、やはり前の敗戦の直後に怒濤のように流入した欧米文化に飛びついて行った時と現象が似ていると想像できる。

前の敗戦2

2005年09月02日 | Weblog
前の敗戦について、原因は色々云われているが、寡聞にして誰かが言っているか知らないので、自分の意見として一つ述べてみる。明治維新以後の教育が国民をエリートと、愚民の両極端に分け、エリートが、愚民を盲従させていたが、優れているはずのエリートが、実は愚民以下だったことによるのではないか。エリートが、愚民に対してスローガンを投げ与え、それを善しとする教育により、盲従したスローガンが、実は子供だましだった。その程度の方針しか示せなかった。あるいは、それだけのことで、利権を貪れた。エリートが単に利権にありつくゴキブリだった。その構造は、戦後もそのまま残され、今や批判を許さない社会になりつつある。明治維新がそのまま今日に生きている。明治維新を、大化の改新になぞらえるが、結果的に外国勢力に征服されたと云う点では確かに似ている。壬申の乱を経て朝鮮半島、大陸からの勢力よる支配は確立したし、現在も外国による支配は確立している。国民はそんなこととは関係なく生きてきている。それにあまり眼を向けるとかえって又エリートに利用されるだけのことだ。
『竹取物語』は壬申の乱から、二百年ほど後に書かれたものだが、壬申の乱の勲功者たちを登場させている。それによって、壬申の乱について書かれている『日本書紀』や『続日本書紀』の意図的な歴史の改竄に眼を向けてくれる。壬申の乱以後政治の中枢にいたエリートたちが、自己に都合の良い歴史を書いていることに気付かせてくれる。『竹取物語』『かぐや姫』と云うと、子供の絵本程度に思われるが、実はそれだけではない。昨年、私が訳し、大澤和泉が絵画を描いて小社、ハガエンタープライズから出版した『竹取物語』とははそのような含蓄のある内容なのだ。