前の敗戦について、原因は色々云われているが、寡聞にして誰かが言っているか知らないので、自分の意見として一つ述べてみる。明治維新以後の教育が国民をエリートと、愚民の両極端に分け、エリートが、愚民を盲従させていたが、優れているはずのエリートが、実は愚民以下だったことによるのではないか。エリートが、愚民に対してスローガンを投げ与え、それを善しとする教育により、盲従したスローガンが、実は子供だましだった。その程度の方針しか示せなかった。あるいは、それだけのことで、利権を貪れた。エリートが単に利権にありつくゴキブリだった。その構造は、戦後もそのまま残され、今や批判を許さない社会になりつつある。明治維新がそのまま今日に生きている。明治維新を、大化の改新になぞらえるが、結果的に外国勢力に征服されたと云う点では確かに似ている。壬申の乱を経て朝鮮半島、大陸からの勢力よる支配は確立したし、現在も外国による支配は確立している。国民はそんなこととは関係なく生きてきている。それにあまり眼を向けるとかえって又エリートに利用されるだけのことだ。
『竹取物語』は壬申の乱から、二百年ほど後に書かれたものだが、壬申の乱の勲功者たちを登場させている。それによって、壬申の乱について書かれている『日本書紀』や『続日本書紀』の意図的な歴史の改竄に眼を向けてくれる。壬申の乱以後政治の中枢にいたエリートたちが、自己に都合の良い歴史を書いていることに気付かせてくれる。『竹取物語』『かぐや姫』と云うと、子供の絵本程度に思われるが、実はそれだけではない。昨年、私が訳し、大澤和泉が絵画を描いて
小社、ハガエンタープライズから出版した『竹取物語』とははそのような含蓄のある内容なのだ。