茂野基春『あの子は今どこに』(原題・罪に罰)の記録の事実性を補強.証明するために、いくつかの既刊の本から引用がされているので、私もそれを読んでみた。羅英均著・小川昌代訳『日帝時代、我が家は』(みすず書房)、高崎宗司『植民地朝鮮の日本人』(岩波新書)、池東旭『韓国大統領列伝』(中公新書)、赤羽礼子・石井宏『ホタル帰る』(草思社)などだ。このなかで特に涙と、感動なしに読めなかったのは、散華前のわずかなひととき、若い特攻隊員たちが赤羽礼子の母トメに世話をされ、トメおばちゃんたちとの交流を胸に秘めて知覧を飛び立っていった記録の『ホタル帰る』だ。石井宏の抑制された文章が事実を引き立たせてもいる。茂野基春の被圧迫民族としての朝鮮人ゆえに体験した波瀾万丈の戦中、戦後の苦難の記録『あの子は今どこに』(原題・罪に罰)は、今話題の靖国神社問題をも考えさせるし、前の敗戦についての日本人自身の反省がないまま、再軍国化することの危うさへの国民的認識の欠乏はなんともしようがないことなのかもしれない。前の大戦で、250万人もの日本人が生命を失い、戦後の動乱も入れると朝鮮人、中国人もほぼそれに近い死亡者を出しているにもかかわらず、明治維新と云う改革が肯定的にのみ捉えられていることには疑問を感じる。日本ばかりでなく、近隣アジア諸国にも招いた戦死者の数は最悪である。有史以来の失策と云える改革だ。遠藤周作は私の「封建主義はいけない」と云う浅はかな考えにたいして、「芳賀君、封建主義のすべてが悪いわけではないよ」と言っていた。そのデンから云えば、「明治維新のすべてが悪いわけではない」が、これほど多くの人々を殺しても肯定できる面は、少ないのではないか。前の敗戦にいたる全ての根本は明治維新に存在するのだから。反省はここからしなければならない。
最近、登米市で、派出所の巡査が、石巻市の中学生に拳銃を強盗されかける事件があった。私の町で起こったのかと良く聞かれるが、米山町での出来事だ。私の町、登米はとよま、米山は、よねやまと云う。どちらにも米と云う字が付くから紛らわしいかもしれない。十六日の地震と云い、この事件と云い、世間を騒がせたには違いない。しかし、私自身は今、大田区の池上医院の茂野基春院長から依頼された自伝の原稿を編集するのに余念がなく、それどころではない。茂野医師は朝鮮北部生まれで、東大在学中に焼夷弾で焼出され、北の実家に疎開中に敗戦を迎えたため、北でも南でも日帝協力者として何度も殺されかけて、最後は日本に密航して戦後と朝鮮戦争を生き延びた自伝を書いた。どうしても書き残したいと云うので、診察の合間にPCの鍵盤で打ち書いたというその二千枚もの原稿を読んでみると、その波瀾万丈の人生に驚愕させられ、小社、ハガエンタープライズで単行本化することにした。原題は『罪に罰』だったが、『あの子は今どこに』と改題させて頂こうと思っている。長すぎるので、相当削ることになる。そのためあまりに夢中になり、昨日もヨットに行く途中の電車のなかで、何度目かの校正を始めたら、視界の左下に大きな円が出来て、キラキラと光り、文字がところどころ見えなくなったので、恐怖を感じて読むのを止めた。バッテリーの電気をあげてしまった森秀樹氏に手伝ってもらい、25日の台風でふっこんだ、水を大汗をかきながらヨットから掻き出して夕方帰る時には、眼が直っていたが、大事をとって、PC画面を一日見なかった。編集に夢中になり過ぎ、眼を酷使したせいだと思ったからだ。運動不足もあるようだ。
9月11日から、インド・ヒマーラヤのスピティ、ラダークへ出かける。ダルマサンガの会員たちを案内しての旅だ。マナーリーから行くから、5千メートル以上の峠を三回程越える旅だ。三年程前にレーからマナーリーまで車で下った時は、乗鞍岳に登って、高度順応してから行ったにもかかわらず、高度障害で気持ち悪くなる人がいた。
スピティ、ラダークの旅の後、ラージャスターンのジャイプル等を旅してから、デリーで私が訳した改訂ヒンディー語版『竹取物語』の出版を記念して、大澤和泉『竹取物語』原画展をデリーのトリウ゛ェー二・カラー・サンガムで9月末に三日間開催する。
スピティ、ラダークの旅の後、ラージャスターンのジャイプル等を旅してから、デリーで私が訳した改訂ヒンディー語版『竹取物語』の出版を記念して、大澤和泉『竹取物語』原画展をデリーのトリウ゛ェー二・カラー・サンガムで9月末に三日間開催する。
私の生家は、登米町の御小人町にある。とよままち、おこびとまちと読む。市の場合はとめしと云う。この四月に、それまでは、とめ郡だった町村が合併して、桃生郡から津山町も加わり登米市になった。全国難字難訓地名辞典に載っている。津山町は、社会党の佐々木更三代議士の出身地で、ズーズー弁で国会を押し通したことで有名だった。伊達政宗に殺された実の弟小次郎の墓が山奥にあるところでもある。日本三大虚空蔵菩薩の一つを擁する寺もある。私はいつも仙台まで新幹線で行って、東北線、石巻線を経て、気仙沼線の柳津で降りるが、柳津は横山と合併して津山町になったのだ。そこからバスで十分程の、登米町の三日町停留所で降りる。とよま小学校の校庭を通って我が家に入るのが近道だ。小学生の頃は、小使いさんがカランコロンと振る始業の鐘の音を家で聞いてからでも、先生より先に教室に入れた。雨の日など大事な自転車を小学校の廊下に持ち込んで走り回ったのだが、今は、国の重要文化財に指定されていて、そんなことは出来ないし、町の重要な観光資源になっている。御小人町は、館山に属したから、直ぐ眼の前の山の上に伊達家の館があり、その広い庭とその下の校庭が遊び場だった。家の裏手にとめ高校の校庭もあり、チャンバラごっこに格好の場であった。
「いなががらけって来たがら、まだブログはずめっからっしゃ」
龍源寺にお盆の墓参りに行ったら、葛西家供養塔の前に2本の角塔婆が立っていた。その前を通って、奥隣の石垣の上にある我が家の墓にお参りを済ませてから、住職に供養塔の意味を聞いたら、この寺の初代住職の450回忌と、先代住職の3回忌をするのに併せ、総檀家とこの寺の開基に関わった葛西家の供養をこの6月にしたのだそうだ。檀家も葛西家の子孫を称する人も呼ばずに寺独自に催行したという。右が総檀家、左が葛西家の角塔婆と云う事だ。
龍源寺にお盆の墓参りに行ったら、葛西家供養塔の前に2本の角塔婆が立っていた。その前を通って、奥隣の石垣の上にある我が家の墓にお参りを済ませてから、住職に供養塔の意味を聞いたら、この寺の初代住職の450回忌と、先代住職の3回忌をするのに併せ、総檀家とこの寺の開基に関わった葛西家の供養をこの6月にしたのだそうだ。檀家も葛西家の子孫を称する人も呼ばずに寺独自に催行したという。右が総檀家、左が葛西家の角塔婆と云う事だ。
私の田舎は、北上川の河畔に、今ではひっそりと静まりかえっている登米という伊達藩の城下町だ。
葛西氏が支配していた地方だが、伊達政宗が、騙し討ちで、その一族の老若男女を皆殺しにした所だ。伊達政宗は、抵抗勢力の葛西と大崎の有力家臣に職場を保証すると偽り、一か所に集めて、支倉常長ら刺客を使って殺し、安々と葛西、大崎の一族を子供も殺して根絶やしにしたのだ。天正十九年(1591)頃、十六世紀末の事だった。
生き残った家臣たちは、登米の町はずれに密かに隠れ住み、伊達家が明治維新で無力化したのを見届けた、亡ぼされてから約三百五十年後の1938年にその家臣団の子孫たちが、我が家の菩提寺でもある龍源寺に葛西家の鎮魂のための五輪の供養塔を建てたのだった。三百五十年もの永きに亘って子々孫々に機会を待つように伝えて実現するという思想は、百年の計を遥かに凌ぐ見上げたものだ。学ばねばならないことだ思う。
百年後や、千年後の心配をするだけでも迂遠な話しなのにそれを遥かに凌ぐ数字を持ち出している宗教がインドにはある。百年、千年の目先の事ではなく、天文学的数字の未来に人間を救うのだと云う。そんな先には、地球がないかもしれないのに。
弥勒は釈迦の入滅の五六億七千万年後に衆生の救済に現れる事になっているそうだ。さすがゼロという無や、劫という無限の時間を考えるインド人である。
では、「このなづもおら、いながさけっから、すばらぐはこのブログもお休みっしゃ」
葛西氏が支配していた地方だが、伊達政宗が、騙し討ちで、その一族の老若男女を皆殺しにした所だ。伊達政宗は、抵抗勢力の葛西と大崎の有力家臣に職場を保証すると偽り、一か所に集めて、支倉常長ら刺客を使って殺し、安々と葛西、大崎の一族を子供も殺して根絶やしにしたのだ。天正十九年(1591)頃、十六世紀末の事だった。
生き残った家臣たちは、登米の町はずれに密かに隠れ住み、伊達家が明治維新で無力化したのを見届けた、亡ぼされてから約三百五十年後の1938年にその家臣団の子孫たちが、我が家の菩提寺でもある龍源寺に葛西家の鎮魂のための五輪の供養塔を建てたのだった。三百五十年もの永きに亘って子々孫々に機会を待つように伝えて実現するという思想は、百年の計を遥かに凌ぐ見上げたものだ。学ばねばならないことだ思う。
百年後や、千年後の心配をするだけでも迂遠な話しなのにそれを遥かに凌ぐ数字を持ち出している宗教がインドにはある。百年、千年の目先の事ではなく、天文学的数字の未来に人間を救うのだと云う。そんな先には、地球がないかもしれないのに。
弥勒は釈迦の入滅の五六億七千万年後に衆生の救済に現れる事になっているそうだ。さすがゼロという無や、劫という無限の時間を考えるインド人である。
では、「このなづもおら、いながさけっから、すばらぐはこのブログもお休みっしゃ」
キリスト教には千年王国と言う言葉がある。キリストが復活して、千年間世界に平和が来ると言うが、そうだろうか。現状は、イスラーム教国で、破壊の限りを尽くしている。これは今に始まった事ではなく、十字軍以来、大航海時代を通して世界中を席巻して来たのであり、その行動を支える思想だ。こんなやり方がまかり通るなら、千年王国を渇望するキリスト教とは一体何か。たんなる金儲けの戦争に走る政治屋たちを擁護する思想でしかないのではないか。百年の計より十倍長い千年単位で物を見つめるキリスト教は長さにおいては優れているであろう。しかし百年の計は、文字どおり百年後を見越して計画を立てる事だ。少なくても百年先を考えて物事を進める必要性はあるが、千年単位で考える宗教の思想に裏打ちされた破壊と略奪を凌げる思想はないか。
中国には百年の計と言う言葉がある。四百年掛けても他国を征服すると云う計にはかなわないのではないか。そもそもが、そんな年月を掛けても征服・収奪しようと云う宗教とは一体何なのか。そもそもが、宗教と云う方法で、他の人間を征服する人間がいるのだから、抵抗する人間を抹殺するための宗教戦争は不可避か。遠藤周作は私に、「キリスト教を変えれば良いのだ」と、言ったが、その意気や良しと認めても、私にはそんな大それた事は出来ない。遠藤周作の『沈黙』も『深い河』も欧米のキリスト教とは違うものを意図している。彼は、「日本的キリスト教があって好い」と言い切る。
遠藤周作氏とインドの話しをする時は、どうしても、インドの宗教を避けて通れなかった。インドと中国はキリスト教国の植民地になり、インドでは、ゴアがその布教の基地になり、中国では、マカオが、そうであった。精神的に植民地を支配する基地、今風には、アルカーイダだったわけである。キリスト教の征服の歴史は、千年単位で見ないと現状を見失う。私も、その当時、キリスト者として、いかにあるべきか等と考えていたが、遠藤氏は、そのような欧米のキリスト教を攻撃的と認識した上で、神を受容していた。忍耐強い人だと思った。インドの宗教も攻撃的なヒンドゥー教徒がいる一方で、忍耐強いヒンドゥー教徒もたくさんいる。インドのイスラーム教徒も然り。私が親しくしている人たちは、我慢強くない私に対して、実に忍耐強く付合ってくれていると思う。親切に私に耳を貸してくれるのだ。私は、彼等に注意深く見られているのだ。そこがインドの、宗教を感じさせるところだ。フランシスコ・ザビエルが来てから、四百年で日本は占領された。これからどうしたら、インドや中国のようにその桎梏から抜け出せるか。
堺谷夫妻とは銀座のアップル社の3階で待ち合わせた。ここは、大澤和泉の油絵と私の現代語訳・ヒンディー語訳で昨年11月に出版した絵本『竹取物語』を造るため、MACの扱い方を習いに、昨年の春以来、数え切れない程通ったところだ。お蔭で、ヒンディー語をMACで打てるようになったが、それをInDesign に取り込む事は、遂に出来ない事が分かった。インドでもMACよりWindows中心な事も分かった。それはそれとして、一部のSanskrit の文字を探せないままヒンディー文字で代用する事で、装丁も含めて全てMACで完成する事が出来た。堺谷氏を散々待たせた上に、その『竹取物語』を買って貰ってしまった。
韓国の友人の本は,幻冬社で出版して一年以上も経っていると云う事は、もう書店から返品されているから、韓国ではベストセラーで、テレビ化もされる予定なら、そのテレビを日本に紹介するところと、それを取り上げてくれそうなメディアを見つけるよう助言したに留まった。それでも、私の行きつけのカフェ、カヅマで2時間も話した。
私が堺谷ご夫妻の参加した「遠藤周作『深い河』の旅」のガイドをしたのは、1997年だったと思う。「深い河」はインドのガンガーすなわちガンジス川の事だ。私が文庫版遠藤周作全集の編集担当をしている頃、インドに良く行っては帰って来ては遠藤周作氏にインドの土産話をしていた私の事を、その後、会わなくなってからも、遠藤氏は覚えていて、最もインド的なところを一週間で案内してほしいと自宅に電話を掛けて来たのだ。私はダルマサンガというインド愛好会を主宰していて、会員のインド旅行をガイドしていたので、毎年、数回インドに行っていた。遠藤氏はカトリックで、私は当時プロテスタントで且つ、ヒンドゥー教とインドのイスラーム教に傾倒していた。
韓国の友人の本は,幻冬社で出版して一年以上も経っていると云う事は、もう書店から返品されているから、韓国ではベストセラーで、テレビ化もされる予定なら、そのテレビを日本に紹介するところと、それを取り上げてくれそうなメディアを見つけるよう助言したに留まった。それでも、私の行きつけのカフェ、カヅマで2時間も話した。
私が堺谷ご夫妻の参加した「遠藤周作『深い河』の旅」のガイドをしたのは、1997年だったと思う。「深い河」はインドのガンガーすなわちガンジス川の事だ。私が文庫版遠藤周作全集の編集担当をしている頃、インドに良く行っては帰って来ては遠藤周作氏にインドの土産話をしていた私の事を、その後、会わなくなってからも、遠藤氏は覚えていて、最もインド的なところを一週間で案内してほしいと自宅に電話を掛けて来たのだ。私はダルマサンガというインド愛好会を主宰していて、会員のインド旅行をガイドしていたので、毎年、数回インドに行っていた。遠藤氏はカトリックで、私は当時プロテスタントで且つ、ヒンドゥー教とインドのイスラーム教に傾倒していた。