芭蕉は、西行に憧れ、かつ、木曾義仲に引かれていたことは、遺言であろうが、木曾義仲の葬られている義仲寺に、芭蕉も葬られた。しかし、その憧れの西行が、木曾義仲を嫌っていたことは、次の歌で明らかだ。
木曾ともうす武者死に侍りけりな、
木曾人は、海の怒りをしづめかねて死出の山にも入りにけるかな
もし、憧れの西行が木曾義仲を嫌っていることを知っていたら、芭蕉は木曾義仲をやはり嫌ったかもしれないが、この西行の歌が出てきたのは、昭和になってから、伊達家の私蔵文書から出てきたのだから、芭蕉はそれを見る機会がなかったのだから、そこまでは、西行には入れ込めなかったのだ。
芭蕉も京都の文化を大事に思っていたが、西行もそうで、木曾義仲が、京都を、蹂躙したことを許せなかったとこの歌からは見える。
木曾ともうす武者死に侍りけりな、
木曾人は、海の怒りをしづめかねて死出の山にも入りにけるかな
もし、憧れの西行が木曾義仲を嫌っていることを知っていたら、芭蕉は木曾義仲をやはり嫌ったかもしれないが、この西行の歌が出てきたのは、昭和になってから、伊達家の私蔵文書から出てきたのだから、芭蕉はそれを見る機会がなかったのだから、そこまでは、西行には入れ込めなかったのだ。
芭蕉も京都の文化を大事に思っていたが、西行もそうで、木曾義仲が、京都を、蹂躙したことを許せなかったとこの歌からは見える。
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