芳賀明夫の思いつくままに

フィジーから帰国して

自動車・道路省

2005年11月14日 | Weblog
登米病院に母の入院代を払いに行って来た。土日切符を利用して行った。登米市になってから、路線バスが廃止され、市民バスになり、一率100円になったのはいいが、柳津から登米への連絡が悪くなり、土日はうまく連絡するのが、14:54柳津発登米経由黒川行き一本だけで、しかも JR気仙沼線で柳津に着いてから30分待ちである。帰りは、一日やはり一本だけで、JR柳津発9:10の快速に連絡するバスはなくなった。前回登米に行った時、輝ちゃんとカラオケしていた飲み屋で前登米町長中沢氏と出会い、その話をしたところ、「11月半ばから登米、仙台直通バスが三陸道経由で一日六本走るようになり、往復2000円だ」とのことだった。「片道一時間半だが、三陸道が完成すると一時間で仙台まで行ける」と云う。鉄道より道路優先である。私には長旅は鉄道のほうが楽であるが、日本中こうなるのだろうか。バスは時間が当てにならない。今回も柳津駅にバスが10分遅れて来た。40分待ったことになる。全国の町村が目の前に融資の餌をぶら下げられて、合併に走り、「効率」と云う実は「不便」をかこつことになる。国家も市町村も財政をスリム化しないで「効率」を追い求め、税金を増やすだけでは、先が思いやられる。明治維新の失敗がこんなところにも表れている。
インドのヒマーラヤの山道をジープで悪路に揺られて、疲れ果てて帰って来たが、日本は、キノコ採りに行く道までも鋪装されていて、普段使われない道路が舗装される、道路と自動車中心の行政だ。田圃の鋪装道路にもいずれぺんぺん草が生える時が来るだろう。国民の税金が道路と車にすり減らされているのだ。かつては、鉄道省と云う独立した省がある鉄道中心の行政だったが、自動車・道路省と云うのを作ると国民には分かりいいかもしれない。
輝ちゃんとカラオケをして、日曜の朝、9:10の快速に乗るため彼の車で柳津駅に送ってもらうことにして別れた。朝、姉が植えた野菜が伸びきっているので、たくさん収穫しているところに植木屋と草取りのおばさんたちが突然4人も来た。前回来た時に私の植えた野菜が芽を出しているので、それまで雑草と間違えられて摘まれないように注意したり、畑に置いた銀杏の皮肉を取ったりして草取りからの防御をしているうちに輝ちゃんが迎えに来て、慌てて家を出た。
快速電車の中で、野菜とゆで卵をガス台に載せたままで来たことを思い出した。火を消して来たかどうか不安になり、新幹線から姉が頼んだ植木屋にガスの元栓を止めさせてくれるように姉に電話した。新幹線のカード電話はNTT以外のカード電話にかからないことが分かった。駅に最近設置された灰色公衆電話は、以前に求めたテレホンカードが使えないことも分かった。テレカが使える緑色公衆電話を探して、輝ちゃんからもらった瓦煎餅の大きな包みと大量の野菜をぶら下げて仙台駅の新幹線ホームを走り回った。結局緑色公衆電話は見つからず、新幹線に滑り込みで乗ってから中で見つけた。昔買ったテレホンカードはこれでは私蔵させられることになるのだ。NTTは、民営化してから電話債権も反古にしようとしている。これも国家的詐欺だ。国営だった企業を効率優先という名目で民営化しては、安全と国民の権利を破棄するのが最近の国家政策だ。
土日切符の予約席は、4号車という乗り場から遠く離れた不便なところにあった。はやてにやっと乗って10号車から列車の中を歩いて4号車にたどり着いた時には、私の席には隣席の人が荷物を置いていて座りにくくなっていたので、私も荷物が多いから、空いている席に荷物を置いて姉に電話してきてから座った。やれやれひと安心と思う間もなく検札が来たので、思わず、「予ヤグしてるせぎさ隣の人が荷もづ置いでだがら、こごさ座ってもいがすか?」といいそうになった。前夜から輝ちゃんとばかり話をしていたから、すっかり登米弁になっていたのだ。この検札は登米弁を解さないかもしれないと思い登米弁を飲み込んだ。もう、標準語と云う共通語で話さなくてならないのだ。

おじいさんは故郷に銀杏拾いに

2005年11月04日 | Weblog
母が入院したので、登米病院に行って来た。姉が、頑固で被害妄想の酷い母をよその街の病院に連れて行って、精神鑑定した結果、貰った薬に麻酔薬がはいっていたため、朝まで寝込んで、起きて直ぐ、あわてて小用に行こうとしたが、転倒し額を打った上に、我慢できなくて、漏らしたのが原因と思うが、食欲が無くなり、点滴を受ける破目に陥ったのだ。年をとって漏らすと、心理的に耄碌を意識させられ、精神的にかなり追い込まれるのかもしれない。
40代初めの、スキーの習いたてだった頃、よく貸し切りバスで仲間とスキーに行ったが、車中でビールを飲みながら盛り上がり、我慢ができなくなって、ビニール袋に小用を足して車窓から放り投げた者がいた。若くてもこうなのだから、80歳を超えたら我慢できなくて当然である。自戒しなくてはいけない
母は、この十月で89歳になり、最近、夜中に何度も小用に起きるようになっていたから、麻酔薬を与えるなら、おむつをさせるべきだったのだろう。いや、薬等与えるべきでなかった。母は、20代で、寡婦になり、比較的早くに被害妄想に捕われるようになっていた。介護をヘルパー等に委せきっていたのもまずかった。
点滴の所為なのか、「足が弱り、食欲は出たが、一人暮らしは、もう無理だから、老人ホームを申し込むように」と石井院長に云われ、輝ちゃんの運転する車に乗せてもらい、北上園、光風園、登米支所福祉課等をかけずり回り、入園手続きをした。光風園は入園希望者が百人以上も待っているとのことだ。
早朝、銀杏を大量に拾ってその皮肉を畑に捨ててから、輝ちゃんの車に乗せられて、キノコ狩りに出かけ、ムラサキシメジを沢山採った。輝ちゃんが採ったヤマドリとオリミキ(輝ちゃんの登米弁では、ネッコモダスと云うが、ネッコモタシかもしれない)は、いつも食べているからと私にくれた。夕食後、彼を招いて、ムラサキシメジは味噌味の、ヤマドリとネッコモダスは醤油味の吸い物を作って赤ワインと共に供したが、彼は、ムラサキシメジしか食さなかった。彼は、遠慮深いから、ヤマドリとネッコモダスは量が少ないので、私だけに食べて欲しかったのだろう。彼は自分では食べないで、「あんだ、食べさい。毒ではないす、ネッコモダスはシャキシャキとすた歯触りだべ」と、しきりに自信を示して、勧めてくれた。いずれにしろ、久しぶりに自分で採ったキノコを食べた。
「おらも、すっかり味にも満足すたのしゃ」
輝ちゃんに送られて、鳴子温泉郷、川渡温泉の藤島旅館に行った。前回のインドで疲れた身体を癒すためである。昨年3月のスキーによる捻挫がまだ痛むから、「脚気川渡」で知られる、足にいい温泉で療養するのもある。また、銀杏の皮肉を大量にとったので、指がまけて荒れたのを直すためでもある。藤島旅館は、母に婿入りしてきた父の実家だ。ここでも、輝ちゃんは前回同様、遠慮しているのか、送ってくれただけで入浴せずに帰った。
広さ二千坪の庭園の背景に藤島旅館所有の山があり、その遊歩道でキノコを探して歩いていたら、クリがたくさん落ちていた。大半が虫食いだが直径四、五センチもあるでかいクリだ。時期が過ぎているから、すでに拾った後なのだろうけれども、あまりに沢山で二日がかりで拾い、その近くでは、ムカゴも大量に摘んだ。これはご飯と一緒に炊き込むと美味しい。
藤島旅館は今、私の父の兄の息子、すなわち従兄の孝雄氏が経営しているが、藤島家の私の父の兄弟姉妹は、男5人、女子5人の10人兄弟姉妹だったのだそうだ。しかしその中で会ったことがあるのは父の兄の嘉孝伯父さんだけだ。父の妹で、青山学院に行き結婚して東京に住んでいる竹下よしみ叔母さんが、東京から息子桂さん規子さん夫妻と一緒に来るというので、よしみ叔母さんは98歳だから千載一遇のこの機会を逃したらもう遇えないだろうし、これが一期一会かもしれないと思い、待った。14:30に到着の予定が、待つこと3時間、17:30にやっと現れて、お会いできた。よしみ叔母さんは杖をついて耳は遠いが、頭もしっかりしていて矍鑠としている。従兄弟の竹下桂さん夫妻は、「母はともかく頑固で、それが長生きの秘訣のようです」と言っている。父は私の3歳のとき亡くなったから私の記憶に全くないくらいだが、父の妹でもある親類にこんな元気な長寿者がいるというのは心強い。桂さんの長女道子さんとその連れ合い南聖一郎氏が明日来て、三陸海岸の津谷に住んでいるよしみ叔母さんの妹佐藤米子さん93歳に会いに行くのだそうだ。私の叔父叔母にあたる父の兄弟姉妹で存命なのは、この二人だけなのだそうだ。
翌日の朝食時にまた、よしみ叔母さんに会い、私の父が「兄弟中で一番頭がよく、東北学院中学の時に背は高いけれど華奢な体なのに仙台の柔道大会で一番になり、夏休みに福島の海岸に兄弟姉妹で一軒家を借り与えられている時、福島の若者たちからまで『藤島嘉道柔道三段』と通りからはやされていた」とも云っている。また父が慶応大学に入って東京にいる頃によしみ叔母さんが「仙台の女学校から青山学院に入った時の世話をされた」とも云う。
朝食後、応接間で、よしみ叔母さんを中心に記念撮影をさせてもらった。道子さん夫妻とは、桂さん夫妻が出迎える車に乗せていってもらい、古川駅でお会いした。道子さんは、マブチ・モーターに勤務する同級生の南聖一郎氏と、つい最近、結婚して約18年勤めた伊勢丹を退社したのだそうだ。
桂さんは、父の兄弟姉妹10人のことを覚えていて、上から順に書いてくれた。
小倉みどり(4)、嘉孝(4)、芳賀嘉道(1)、嘉武(2)、田口嘉子(2)、竹下よしみ(2)、嘉男(1)、佐藤米子(0)、嘉伸(0)、青野季子(1)。( )内の数字は子供の数だから、私には父方の従兄弟が16人もいることが分かった。また、私の両親が下北沢のアパートに住んでいた頃小学生だった桂さんが近くに住んでいて、アパートがあった場所を今度教えてくれることを約束して古川駅で別れた。