涼風野外文学堂

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9月11日だそうです。

2006年09月11日 | 政治哲学・現代思想
 十年ひとむかし、という考え方に論理的な根拠はないかもしれませんが、経験則的にはそんなに大きく外れていないのではないかと思います。また、いわゆる「9・11」は、その出来事それ自体が歴史を大きく動かしたというような言説には注意深く疑問符をつけておくにしても、ひとつの象徴的な事件として記憶することには異論がないように思われますし、そのこと自体がこの5年間においてある種の言説を抑制し、またある種の言説を加速する力として機能している面もまた否定できないと思います。
 そんなわけで今日は「あれから5年」ということで、ひとつの時代の折り返し点ということを意識して涼風的小括。

 ところで「テロとの戦争」という用語には、本来的に矛盾が内包されています。一般的に戦争とは「主権国家同士の」交戦状態を指すものではなかったでしょうか。主権国家・正規軍・戦闘員と非戦闘員の区別といった、歴史的に「戦争」の語が内包していた(そして近年急速に力を失いつつある)概念は、国家の枠組みを超え・非正規の武装勢力と親和的で・無差別的な、「テロ」の概念とは概ね対極を成すものです。
 このような異様な言説が、このような異様さそのものは大した問題とならないままに流通すること。それこそが、9・11以後の言説空間を支配する、ある種の制約的な力の発露であるのかもしれません。つまり、テロというものは、決して単一的で自己統治的な主体から発生するものではない。それなのに、「テロとの戦争」という言説においては、「国家」と対峙することが可能であるような「テロ組織」という単一的な主体が堅固な一枚岩のようにして存在してあることが、前提とされている。物事を「敵」と「味方」に区分し、その中間に明確な線引きを行うことが可能であると(根拠もなく)信じる乱暴な二分法が、本来はより複雑であったはずの問題系を解きほぐすために有効な言説たちを、封じ込めている。この5年で失われてしまったのは、そうした言葉たちだったのではなかったでしょうか。

 もちろん「テロとの戦争」という二分法的思考方法によらないような、われわれが世界を読み解くために必要であった言説が、失われていくことの萌芽は、「9・11」に初めて現れたものではありません。例えばコソヴォにおけるNATO空爆をハーバーマスが、ソンタグが、(結果的に)支持したことを、言説空間の「転回」を表すひとつの象徴的なエピソードとして、想起することもできるでしょう。
 しかし「9・11」が、多くの象徴的なエピソードの中で際立った存在感を示しているものであるとするならば、9・11とその他のエピソードとを決定的に分かつものは、やはりその映像的展開、世界貿易センターのビルディングがパニック映画のワンシーンのように崩れ落ちるその姿が、一大スペクタクルとして受容されたこと。そのことにあるのではないでしょうか。
 あの映像の前でわれわれが「テロとの戦争」という言説に抗しようとするならば、その際われわれの口をついて出る言葉は「確かにテロは許されないものだ、しかし……」という出だしから始められなければならない。そのような制約を課したのが「9・11」だったのではないかと思います。崩れ落ちるビルの映像を前にして、「そんなことを言うなら、具体的にどうすればいいって言うんだい?」と尋ねられたとき、「テロとの戦争」を批判しようとする言説は、口をつぐまざるをえない圧力にさらされています。

 そうであるからこそ、これからの5年に必要な緊急の課題は、「それでも、声を上げる」ことなのではないかな、と個人的には思います。「テロとの戦争」に代わる、テロを抑止する具体的で有効な手段など思いつきもしませんが、しかしそれでも図々しく、こう言い張るのです。「テロ組織にいくら武力攻撃を加えても、テロは減りはしない」と。


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