この歴史に対する態度を小林は論じている一方、いわゆる現代の歴史認識についても、苦言を呈している。つまり歴史は進化するものだ、発展するものだ、進歩するものだというという考え方は間違っているということはっきり言っている。多くの歴史学者は歴史は発展するものと定義する。また我々も新しいものほど良いものと考えがちである。この唯物論の思想は深く人々に浸透しているのだが、それでは、源氏物語以上の小説が出てきているのだろうか。万葉集以上の歌集が出てきているのだろうか。徒然草以上の評論文が出てきているのだろうか。多くの人々は唯物論の登場により本来人間の持つ健全な自ら考える力を捨ててしまったかのように見える。「時間という蒼ざめた思想」はこのように二つの意味で使われ、一方は誤った人々の歴史への態度、そしてもう一方は誤った歴史認識を語っているのである。
永遠なるものを失った現代的視点で見てはならない。
先日述べた「自由精神」であるが、明治以降近代文学が輸入され突如現われた、個性に関する標榜や自由という言葉ではなく、人として営々と繋がっている一つの感情であり、新しいものではない。特に個性化については、近年更に諸所教育の場面で謳われそれがあたかも正義の如く扱われている傾向にあるが、本来習慣に培われ続けている人間生活上においては、個性化というものは必要がなく、順番が逆である。教育とは忍耐を伴う訓練の結果初めて成果が現われるもので、更にその上を目指す志がある者にとって個性ということが重要になってくる。自由の問題も又然り。我々の習慣というものは、秩序を伴うものであり、その中での自由意志のみ認められる。これが一般的な庶民の姿である。何年に一人、大天才が現われ、この秩序を超えたものを創造することがあるが、その結果新しい秩序が生まれるだけで何も人々の行動規範は変わりはしない。
「伝統について」という小林の文章で法隆寺の救世観音像を見た志賀直哉が、そこには作者というものをまったく意識させず、フェノロサの言う、聖徳太子が製作者であるという伝説を信ずる気持ちを自分も信ずるという話があり、歴史学者や国文学者達はその時代背景や作者の心理状況を調べ、作品に隠された秘密を探すことに多忙であるが、それでは優れた芸術作品が永遠に残る意味は解決しようもなく、また解決は不可能であると述べている。志賀直哉の感想は、そうではなく、製作者としての発言であり、このような名作が残せるならば、自分は作品に名を残そうと思わないとまで述べている。永遠とは今この時点という概念がなければ、存在しないものなのである。永遠の作品とは、すなわち人々の感性も永遠であるということの証明であろう。時流とは関係なく、過去、現在、未来を貫く永遠なる美への探求が小林の創作態度であった。
第147段
「最近人が言い出したことであるが、お灸を据えて治療したことある人は神事(祭事)には障りがあると言う人がいるが、どこの規定にもそんなことは書いていない」
第206段
「徳大寺故大臣殿(藤原公孝公)が検非違使庁の長官であった時、徳大寺家の中門で評定(裁判)が行われていると、管使(職員)の中原章兼の牛が牛車から離れて邸内(庁内)に乱入し、長官が座る台座の上に登りそこにひいてある畳を食べながらしゃがみこんだことがあった。「これは大変怪しい気配の出来事である」と陰陽師の所へ牛を連れて行くようにと、そこにいた人々が言い出したことを父の太政大臣(藤原実基)がお聞きになり、「牛に分別なし。足があるのだから、どこにでも登るだろう。薄給の管使からたまに出仕するときに使う痩せた牛を没収するようなことはしないように」と申して、牛を持ち主に還し、牛がしゃがみこんでいた畳をお取替えになられた。陰陽師に引き渡さなくてもその後悪いことは起こらなかった。」
「不吉なことや、怪異なことがあっても、相手にしなければ、向こうから去ってゆく」
第207段
(第九十一段)の「赤舌日といふ事」に代表されるように兼好は、徹底的に俗説やいわれ無き迷信を批判しています。これは逆説的ではありますが、それだけ迷信に支配された時代であったことの裏返しとも読み取ることができます。当時最高の有識者であった兼好ははっきりそういった迷妄を否定する態度を持っていたのですが、それは以下の段に登場する極一部の人々の考え方であって、当時の大方の人の心には深く魑魅魍魎を畏れる気持ちがあった時代だということで、あえて繰り返しそうした風潮を批判する兼好の態度には、並々なるものを感じます。現在の常識を持って読むのではなく、そういった中世人の心持を常に思いながら徒然草を読まないと、本当に兼好の言いたかったことが理解できません。
第147段
「灸治、あまた所に成りぬれば、神事に穢れありといふ事、近く、人の言ひ出せるなり。格式等にも見えずとぞ。」
第206段
「徳大寺故大臣殿、検非違使の別当の時、中門にて使庁の評定行はれける程に、官人章兼が牛放れて、庁の内へ入りて、大理の座の浜床の上に登りて、にれうちかみて臥したりけり。重き怪異なりとて、牛を陰陽師の許へ遣すべきよし、各々申しけるを、父の相国聞き給ひて、「牛に分別なし。足あれば、いづくへか登らざらん。わう弱の官人、たまたま出仕の微牛を取らるべきやうなし」とて、牛をば主に返して、臥したりける畳をば換へられにけり。あへて凶事なかりけるとなん。
「怪しみを見て怪しまざる時は、怪しみかへりて破る」と言へり。」
第207段
「亀山殿建てられんとて地を引かれけるに、大きなる蛇、数も知らず凝り集りたる塚ありけり。「この所の神なり」と言ひて、事の由を申しければ、「いかゞあるべき」と勅問ありけるに、「古くよりこの地を占めたる物ならば、さうなく掘り捨てられ難し」と皆人申されけるに、この大臣、一人、「王土にをらん虫、皇居を建てられんに、何の祟りをかなすべき。鬼神はよこしまなし。咎むべからず。たゞ、皆掘り捨つべし」と申されたりければ、塚を崩して、蛇をば大井河に流してンげり。
さらに祟りなかりけり。」
もちろん私はここで、徒然草についての感想及び自分の言葉による通訳文を書き始めているのだが、動機は単純で、一つの短文も読者により様々な観点、解釈がありいづれも読み物としては面白いのだが、何か違うような感じがしていた。もちろん自分が上手に思い出すことなど出きるはずもないのだが、最初に持ちえた直感に従い感じたことを述べてゆきたい。
話しはまた戻りますが、第105段において登場する「なみなみにはあらずと見ゆる男」ですが、一体誰なのでしょうか。兼好自身とする説もあるようですが、それは、第43段、44段に登場している方ではないでしょうか。
「春の暮つかた、のどやかに艶なる空に、賎しからぬ家の、奥深く、木立もの古りて、庭に散り萎れたる花見過しがたきを、さし入りて見れば、南面の格子皆おろしてさびしげなるに、東に向きて妻戸のよきほどにあきたる、御簾の破れより見れば、かたち清げなる男の、年廿ばかりにて、うちとけたれど、心にくゝ、のどやかなるさまして、机の上に文をくりひろげて見ゐたり。 いかなる人なりけん、尋ね聞かまほし」
(第四十三段)
「あやしの竹の編戸の内より、いと若き男の、月影に色あひさだかならねど、つやゝかなる狩衣に濃き指貫、いとゆゑづきたるさまにて、さゝやかなる童ひとりを具して、遥かなる田の中の細道を、稲葉の露にそぼちつゝ分け行くほど、笛をえならず吹きすさびたる、あはれと聞き知るべき人もあらじと思ふに、行かん方知らまほしくて、見送りつゝ行けば、笛を吹き止みて、山のきはに惣門のある内に入りぬ。榻に立てたる車の見ゆるも、都よりは目止る心地して、下人に問へば、「しかしかの宮のおはします比にて、御仏事など候ふにや」と言ふ。
御堂の方に法師ども参りたり。夜寒の風に誘はれくるそらだきものの匂ひも、身に沁む心地す。寝殿より御堂の廊に通ふ女房の追風用意など、人目なき山里ともいはず、心遣ひしたり。
心のまゝに茂れる秋の野らは、置き余る露に埋もれて、虫の音かごとがましく、遣水の音のどやかなり。都の空よりは雲の往来も速き心地して、月の晴れ曇る事定め難し。」
(第四十四段)
この2段は続いているので、若き男は同一人物の描写と考えるのがスタンダードな解釈だと思います。どういう事情か解りませんが、春の夕方、田舎ではあるが、大変由々しき屋敷に住まいする眉目秀麗な若者を兼好は目撃し、一体どういう方だろうと興味を憶えます。(四十三段)さらに秋になり、その若者がまだ童の小姓を引き連れて笛を吹きながら田の小道を歩いて行くところに遭遇し、後をついて行くと、山の際にあるお屋敷に入って行く。そこで、近くの方に聞くと「宮様がいらっしゃる頃だから」との答え。つまり、その若者は何かの事情でこの山里にいらっしゃる天皇の公子だったのです。この公子こそ、第百五段に登場する若者です。
「春ののどかな夕暮れ時に、田舎には似つかわしくない由緒ある佇まいのお屋敷の大きな木立の桜花が散っている様を見たくてその庭に入って行くと、南に面した格子戸がすべて降ろしてあり、家にはだれもいない様子であった。東側に回ってみると、妻戸が少し開いており、簾の破れたところから中が見える。そこには、年の頃20歳くらいの美しい若者が清らかな面持ちで、机の上に書物を開いて見ている。
一体どのような方なのだろうと、大変気になったものである」(第四十三段)
「月夜の晩、粗末な竹の網戸から出てきた若者は、童の小姓を引き連れて田の中の細道を稲の葉についた露に濡れながらも、笛を吹き歩いて行く。色は定かではないが、艶やかな狩衣に濃い紫※の袴姿という出で立ちでその高貴な様がいわくありげである。笛の音を聞く人もいないのに、どこに行くのだろうと後を付いて行くと、いつしか笛の音は止み、門のある寝殿作りのお屋敷に入って行った。榻※(しじ)に立てかけた牛車が見えるが、都よりも目立つので、その屋敷の下人に聞くと、「○○の宮様がいらっしゃり仏事を執り行う」と言う。 中に入ると、御堂の方に法師がやってくるのが見える。夜寒の風にのってきた、たきもの薫りが身に染み入る心地がする。寝殿から御堂に繋がる廊下を行き来する女官達の残り香も山里にも関わらず、大変気が利いたものであると感心した。 庭園内にこころのままに茂る秋の草野は夜露に濡れ、虫の音も大きく、鑓水の音ものどかである。都よりも雲の流れが速いような気がして月も雲で見え隠れしている。」(第四十四段)
※服装で色を言わない場合は通常男性は紫、女性は紅を表します。
※牛車のなげしを立てかける台(神輿の手前に置く台のようなもの)
四十四段の最後の風景描写がすばらしいのですが、この段においても「御堂」「匂ひ」といった百五段との共通点が見受けられます。御堂は仏事を執り行う建物で主殿である寝殿と渡り廊下で結ばれています。百五段に出てくる御堂も、同じものかも知れません。春(四十三段)に見かけた美しい若者を秋(四十四段)に偶然見かけ、そして冬(百五段)にまた見かける、兼好の清清しくも優しいまなざしを感じ取ることが出来ます。「赤舌日といふ事、陰陽道には沙汰なき事なり。昔の人、これを忌まず。この比、何者の言ひ出でて忌み始めけるにか、この日ある事、末とほらずと言ひて、その日言ひたりしこと、したりしことかなはず、得たりし物は失ひつ、企てたりし事成らずといふ、愚かなり。吉日を撰びてなしたるわざの末とほらぬを数へて見んも、また等しかるべし。 その故は、無常変易の境、ありと見るものも存ぜず。始めある事も終りなし。志は遂げず。望みは絶えず。人の心不定なり。物皆幻化なり。何事か暫くも住する。この理を知らざるなり。「吉日に悪をなすに、必ず凶なり。悪日に善を行ふに、必ず吉なり」と言へり。吉凶は、人によりて、日によらず。」(第九十一段)
赤舌日というのは、陰陽道における考え方で6日に一度訪れる、羅刹という人を食らう鬼神が支配する日ということで、平安時代からこの日は忌み日とし、何事もうまくいかない不吉な日とされていた。仏滅のようなもの。ところが兼好によると、そもそもの陰陽道においては、この日が不吉な日などという考え方はなく、主に仏教関係者からこの忌み日の風習が広がったという。当時の人はこの赤舌日に何かことを起こすと必ずうまく行かないとしていた。今は使われなくなっている風習の一つであるが、現在も暦を見ながら日を決めたり、占いを気にしながらことを行うことは鎌倉時代と変わりはない。兼好は言う。「不吉な日と吉日において、うまく行かなかったことの数を数えてみよ。同じである。」「何故ならば、この世は無常、同じ状態が長く続くものはなく、志は遂げず、願いはかなえられたためしはない。それは人の心は常に変化し、物も皆変わって行く。どこに同じまま存在するものがあるだろうか。そういう真理を知らないためである。」つまり「日の良い日に悪をなすことは、必ず凶となり、日の悪い日に善をなすことは、必ず吉である」そして力強い言葉で締めくくっている。「吉凶は日の良し悪しではなく、人の行いから起こるものである」(吉凶は人によりて日によらず)
「北側の屋根の下に消え残る雪が凍りつき、堂近くに寄せて停めてある牛車の轅も霜が降り、朝方の月がぼんやりと輝く頃、人気のない堂のなげしに高貴な佇まいの男女が腰掛て話をしている。男女とも容姿端麗で、また良い薫りがしていることこそ情趣がある。話声も飛び飛びに聞こえてくるのが奥ゆかしい。」(第百五段)
兼好が実際に見た情景の描写です。冬の早朝、兼好が何故ここにいたかは触れていませんが、亡き恋人との最後の別れを描写した段の後に続く文章となっているところをみると、この情景に若き日の思い出が蘇った瞬間だったのでしょう。徒然草といえば、教訓めいた硬い文章が多いのですが、今までご紹介したような平安王朝文学の薫りも魅力のひとつとなっています。
「荒れたる宿の、人目なきに、女の憚る事ある比にて、つれづれと籠り居たるを、或人、とぶらひ給はむとて、夕月夜のおぼつかなきほどに、忍びて尋ねおはしたるに、犬のこと々しくとがむれば、下衆女の出でて、「いづくよりぞ」といふに、やがて案内せさせて、入り給ひぬ。心ぼそげなる有様、いかで過すらんと、いと心ぐるし。あやしき板敷に、暫し立ち給へるを、もてしづめたるけはひの若やかなるして、「こなた」と言ふ人あれば、たてあけ所狭げなる遣戸よりぞ入り給ひぬる。内のさまは、いたくすさまじからず。心にくゝ、火はあなたにほのかなれど、もののきらなど見えて、俄かにしもあらぬ匂ひいとなつかしう住みなしたり。「門よくさしてよ。雨もぞ降る、御車は門の下に、御供の人はそこそこに」と言へば、「今宵ぞ安き寝は寝べかンめる」とうちさゝめくも、忍びたれど、程なければ、ほの聞ゆ。
さて、このほどの事ども細やかに聞え給ふに、夜深き鳥も鳴きぬ。来し方・行末かけてまめやかなる御物語に、この度は鳥も花やかなる声にうちしきれば、明けはなるゝにやと聞き給へど、夜深く急ぐべき所のさまにもあらねば、少したゆみ給へるに、隙白くなれば、忘れ難き事など言ひて立ち出で給ふに、梢も庭もめづらしく青み渡りたる卯月ばかりの曙、艶にをかしかりしを思し出でて、桂の木の大きなるが隠るゝまで、今も見送り給ふとぞ」(第百四段)
冒頭の「荒れたる宿の」という言葉は、三十二段に出てくる、「荒れたる庭」と同義で、男性が通わなくなって久しい家ということです。(この決まりごとは光田さんの本で知りました)次のある人というのは、「心ぼそげなる有様、いかで過すらんと、いと心ぐるし。」など一連の文章から推察するに間違いなく兼好自身です。中盤に出てくる「俄かにもあらぬ匂ひいとなつかしう住みなしたり」でも三十二段同様、来客を受けて急に炊いてたものではない香の薫りが出てきます。この「なつかしう」という言葉は間違えやすいのですが、高校の古文ではちゃんと教えています。「懐かしい」のではなく、「親しみやすい」とか、「心ひかれる」という意味です。このように三十二段と深夜女性宅を訪ねる様子は共通していますが、三十二段においては、家の内部や会話の内容までは書かれておらず、自分はあくまでも傍観者です。一方この段は、死の床についたかつての恋人を見舞った時の体験を描いた哀切溢れる文章です。
「薄雲がかかる月明かりの下、長く患っている女性の家を訪ねた。番犬に吼えられながらも、取次ぎの女中に話をして、家に入れてもらう。家の貧しげな様子は、どのように暮らしているかが思われて大変心苦しい。床板もこわれそうな部屋で待っていると、意外と明るく若々しい声で「どうぞこちらへお入りください」との声。狭い遣戸から中へ入ると室内は思いのほか華やいでおり、調度も揃っている。また急に炊いたのではない香の薫りもとても好ましい。部屋の外で、女中達が「門はよく閉めてよ。雨も降りそうなので、牛車は門の下へ、お供の方はここそこへ」などと言いまた「今晩はよく眠れるわ」などのひそひそ話も聞こえてくる。
さて二人で今までのことや、これからの事を話していると時間の経つのも早く、鳥の声が聞え、夜が明けて来たようだ。人目を忍び暗いうちに帰らなければならないところではないので、ゆっくりとしていると、隙間から朝日がこぼれてくる。最後のお別れの言葉を述べ立ち去ったのだが、家の外は5月の新緑が曙の光に照らされて美しく輝いていた。
この家の近くを通りかかるたび、この事が思い出されて、その家にある大きな桂の木が見えなくなるまで見送りをしている。」(第百四段)
訳文にすると本文のもつ言葉の韻律が失われよくありませんが、おおよそこのような意味になるかと思います。今は亡き恋人を思い出しながら兼好は二十九段から三十一段そしてこの百四段を書いたのではないでしょうか。そして月を見る女の三十二段は似てはいますが、意味合いが違い、別の女性のことを書いたことが解ります。続いて次の百五段も、また名文で、若い二人の逢引の様子を描いています。こちらは、今は亡き女性との最後の別れを描いた前段に続いていますので、関係があるようにも思えますが、兼好はこの場面に遭遇し、若い頃の自分と姿を重ねたのかもしれません。しかしながらそのことには一切触れていないところが、徒然草の名文たる所以に思います。
さて、この第三十二段の「月を見る女」については、最近、光田和伸さんという国文学者が「恋の隠し方― 兼好と「徒然草」」(青草書房)という本で新説を展開しています。それはこの三十二段に出てくるある方と兼好は同一人物で、月見る女は結ばれなかった兼好の恋人だったということ。更に彼女との思い出についての記述は徒然草の他の段にそうとは気が付かれないよう散りばめて挿入しているということ。これについての歴史的理解の中での根拠も示され説得力のあるおもしろい本になっています。けれども兼好自身は何も語っていません。そういう見方も出来るのだということはいいのですが、私達の前にある徒然草は、くしくも小林が指摘しているように多くを語らず、それを読者が自分の体験したごとくに思い出し、理解して行くというのが一番いいやり方のように思えます。ですので、光田さんの理解はそれは光田さんの理解であって正しいものであり、他の研究者の方もその人自身の経験や知識の程度により理解して行っていることもまた然りだと思います。ただ一般的には古語辞典をそのまま当て嵌めて訳文を作りこれが徒然草の意味だと言っているのは、甚だ意味不鮮明というか明らかにおかしい。私にとっての月見る女は、兼好が垣間見た好ましい女性であり、あきらかに前三十一段の雪の美しさを書かないといって拗ねている女性とは別人なのです。
「雪のおもしろう降りたりし朝、人のがり言ふべき事ありて、文をやるとて、雪のこと何とも言はざりし返事に、「この雪いかが見ると一筆のたまはせぬほどの、ひがひがしからん人の仰せらるる事、聞き入るべきかは。返す返す口をしき御心なり」と言ひたりしこそ、をかしかりしか。 今は亡き人なれば、かばかりのことも忘れがたし。」(第三十一段)
「雪が情趣深く降った朝、所用があり手紙を書くと、その内容に「雪の事が一言も書かれておりません。そういう趣を解しない無粋な方の願いは聞き入れません。」と言われたことがあった。今は亡くなった人であるが、そういった些細な事も忘れられない。」(第三十一段) この三十一段は明らかに兼好の恋人との思い出話です。