5月4日
ゴールデンウイークも終盤の5月4日、三年ぶりに北鎌倉から鎌倉駅まで歩く。不景気の影響で手短なところで余暇を楽しむ方が増えたのか、北鎌倉で降りると朝9時過ぎにも関わらず、すでに多くの人が改札の内外に溢れている。人ごみを避け踏み切りの際で一休みし、円覚寺(えんがくじ)の石段を登る。
総門へ続く石段を上がるともみじの若葉がやわらかな日差しを浴びて輝いている。三門へ続く石段に向かう途中、松籟院の入口からのぞく牡丹の花が見事でだったので、帰りに見て行こうときめ、広大な境内最奥の黄梅院まで向かう。途中普段は見ることが出来ない国宝の舎利殿が特別公開されていた。鎌倉時代の唐様様式とでもいう佇まいは別所温泉安楽寺の八角三重搭との共通点が多い。
再び山を下り、黄梅院には入ると牡丹は見ごろをやや過ぎていた。回遊路に従って、急勾配の坂道を上がると墓地に出る。ここは田中絹代やオウム事件の被害者の坂本弁護士の墓もあり、焼香の煙が絶えないところであるが、その中で一際異彩を放つ墓石が作家「開高健」の墓である。そこには越前産の渓流の角張った目の粗い長方形の石がどっしり置かれている。かつての庶民の墓石は川原のつるつるとした人が持てるほどの大きさの石ころの時代が近年まで続いていたが、こちらは直径1mほどの堂々とした自然石で、いかにも開高の豪放磊落な人生を顕すに相応しい気もするのだが、やはり調った墓地に違いなく、人工的なにおいがするのが残念な気がした。果たして開高が生前に用意したものなのだろうか。
円覚寺を後しに、東慶寺へ向かう。しっとりとした趣の境内を過ぎ墓苑に入ると、4~5人の女子大生が「和辻哲郎‥‥!?」といいながら小林秀雄の墓地を横切り墓苑内を探していた。西田幾多郎ではなく、和辻というのに好感が持てたが、哲学科の学生なのだろうか。 小林秀雄の墓に向かい五輪搭を良く見ると、中心にある石に仏像らしきものが浮かびあがっていた。これは前回気が付かなかったことである。なるほど見るということはこういうことなのかと思い、「いかに私達はものをみていないか」という小林の話を思い出す。大作「本居宣長」を脱稿した小林秀雄が、伊勢にある宣長の墓の前で花を供え真剣に手を合わせている写真を見たことがあるが、小林は宣長と何を話したのだろうか。
墓石の近くには宿根草の青葉が生命力の強さと美しさを見せていた。
ゴールデンウイークも終盤の5月4日、三年ぶりに北鎌倉から鎌倉駅まで歩く。不景気の影響で手短なところで余暇を楽しむ方が増えたのか、北鎌倉で降りると朝9時過ぎにも関わらず、すでに多くの人が改札の内外に溢れている。人ごみを避け踏み切りの際で一休みし、円覚寺(えんがくじ)の石段を登る。
総門へ続く石段を上がるともみじの若葉がやわらかな日差しを浴びて輝いている。三門へ続く石段に向かう途中、松籟院の入口からのぞく牡丹の花が見事でだったので、帰りに見て行こうときめ、広大な境内最奥の黄梅院まで向かう。途中普段は見ることが出来ない国宝の舎利殿が特別公開されていた。鎌倉時代の唐様様式とでもいう佇まいは別所温泉安楽寺の八角三重搭との共通点が多い。
再び山を下り、黄梅院には入ると牡丹は見ごろをやや過ぎていた。回遊路に従って、急勾配の坂道を上がると墓地に出る。ここは田中絹代やオウム事件の被害者の坂本弁護士の墓もあり、焼香の煙が絶えないところであるが、その中で一際異彩を放つ墓石が作家「開高健」の墓である。そこには越前産の渓流の角張った目の粗い長方形の石がどっしり置かれている。かつての庶民の墓石は川原のつるつるとした人が持てるほどの大きさの石ころの時代が近年まで続いていたが、こちらは直径1mほどの堂々とした自然石で、いかにも開高の豪放磊落な人生を顕すに相応しい気もするのだが、やはり調った墓地に違いなく、人工的なにおいがするのが残念な気がした。果たして開高が生前に用意したものなのだろうか。
円覚寺を後しに、東慶寺へ向かう。しっとりとした趣の境内を過ぎ墓苑に入ると、4~5人の女子大生が「和辻哲郎‥‥!?」といいながら小林秀雄の墓地を横切り墓苑内を探していた。西田幾多郎ではなく、和辻というのに好感が持てたが、哲学科の学生なのだろうか。 小林秀雄の墓に向かい五輪搭を良く見ると、中心にある石に仏像らしきものが浮かびあがっていた。これは前回気が付かなかったことである。なるほど見るということはこういうことなのかと思い、「いかに私達はものをみていないか」という小林の話を思い出す。大作「本居宣長」を脱稿した小林秀雄が、伊勢にある宣長の墓の前で花を供え真剣に手を合わせている写真を見たことがあるが、小林は宣長と何を話したのだろうか。
墓石の近くには宿根草の青葉が生命力の強さと美しさを見せていた。
「大村はま」という中学の国語教師の名前を今まで聞いたことがなかったのだが、この夏、菅平高原で行われたある研修会で、その人となりや生涯、仕事の内容について話をうかがう機会を得た。講演を行ったのは大村はまの教え子の一人で苅谷夏子さんという東大国文科出身の才媛で、ご主人は教育社会学者でオックスフォード大学の苅谷剛彦教授である。短い講演であったため、大村はまの業績の一旦を知るのみであったが、会場で販売されていた、「教えることの復権」(大村はま、苅谷夏子、苅谷剛彦共著 ちくま新書2003年) を後日読み、感慨を新たにする。
大村は「中学校」は、大人になるための準備をする学校であるという考えのもとに、国語教育は人と人とのコミュニュケーションの手段である言葉の力をつけることが目的である。と明快に断じていた。こころの中の気持ちを素直に言葉や文章にできることが国語力であり、どうしたらそれを身につけさせることができるのかという問題意識を生涯持ち続けた。
具体的には、教科書通りに授業を進めるのでなく、自ら探してきた題材をもとにそのテーマを深く追求させる単元学習を行いながら生徒自らが考える力を養うよう授業を行った。その中で大切なことは、生徒の自主性に任せるといった一見耳障りの良い、実は教師の怠慢に他ならない授業姿勢ではなく、生徒一人一人の特徴や個性といったものを数値化し、この子にはこういうところがあるから、それではここのところを助言すれば伸びるなど積極的に生徒に関わり、しっかりと教えてきたことにある。「静かにしなさい」と教師が生徒に言うのは教師の敗北宣言である、という大村は毎回授業にあたっては入念な準備を行い、また話す言葉は事前にテープに吹き込みチェックを行ったという。
大村の授業振りを垣間見る資料として、苅谷さんの講演時に資料として昭和46年に実際に生徒に配られていたプリントが添付されていた。大村国語教室通信と題されたもので、生徒に対してこと細かく指示事項が出ている。「使うまい、こういう言葉は」と言う欄にはいわゆる下品であったり蓮っ葉な言葉が羅列紹介されている。また間違って使いやすい、以下、以上、未満などがわかりやすく解説されていた。また同じく講演会資料であったテストの答案の解説用紙には解答の他に注意が書き添えられており、「(ケアレスミス)などは、ほんとうに注意深くしていないとせっかく育ってきた力が台無しになってしまいます」「大人にも多いのですが、作者(相手)の言わんとしているところを受け止めないで、自分の主張ばかりしている人がいます。」「1文字空ける、段変をしないなどは、もちろん減点です」など抽象的でなく具体的に教えている。
現在上映中の「剣岳、点の記」の作者新田次郎の妻で、同じく作家の藤原ていさんはかつて諏訪高等女学校で、大村に教えを受けている。敗戦時幼い子供を連れ、満州から朝鮮半島を1年かけて引き上げてきたとき、辛酸の中で心の支えになったのは、大村先生であったという。ていさんの次男で数学者の藤原正彦さんはそのときの息子さんの一人。
苅谷夏子さんは現在「大村はま記念国語教育の会」の事務局長をされています。大村は96歳の最後まで教師として生き続けたが、晩年は苅谷夏子さんが大村の仕事の手伝いをされていました。大村がある小学校で短い講演を行ったあと、生徒会長の女の子が気転を利かせたお礼の言葉を述べたあと、次の言葉に詰まってしまい支離滅裂になりながらもなんとか自分の話をまとめた際、会場はその雰囲気を察し静まりかえったとき、車イスの大村が司会にマイクをといい、「大変立派な挨拶でした」とその女の子を誉めたそうです。その言葉にまず担任の先生がぼろぼろ涙を流し、女の子も泣いていた。苅谷さんはその様子に大村は最後まで授業をなさっていると感動したそうです。子供には教えないとただの犬っころと変わらない。敗戦後、ガレキの中で大村が自分に誓ったことは、苅谷さんらの手により引き継がれています。
標高1400mの高原で買ったのは「教えることの復権」ともう一冊、苅谷剛彦さんの教育改革に関する著作で、教育社会学の専門家が混迷する教育改革について明快になたを振るった本で、こちらも一気に読み終えた。先日、月島にもんじゃを食べに行った帰り道、東京駅の地下街の喫茶店にタバコを吸いに入ると、隣の席に屈強そうな若者が苅谷剛彦さんの他の著作を読んでいた。自分も暇であったので地下街には書店もあったことから、どこでその本買ったのか聞こうとしたが、読み込んであるような本であったことと、苅谷剛彦教授は東大の教授も現在兼任されているので、もしかしたら東大の学生かと思い、聞くのを止めた。文系の学者が書いた本は言葉を選ぶので読みやすい。大村が願っていた日本語という「ことば」の大切さが判っているからだ。
大村は「中学校」は、大人になるための準備をする学校であるという考えのもとに、国語教育は人と人とのコミュニュケーションの手段である言葉の力をつけることが目的である。と明快に断じていた。こころの中の気持ちを素直に言葉や文章にできることが国語力であり、どうしたらそれを身につけさせることができるのかという問題意識を生涯持ち続けた。
具体的には、教科書通りに授業を進めるのでなく、自ら探してきた題材をもとにそのテーマを深く追求させる単元学習を行いながら生徒自らが考える力を養うよう授業を行った。その中で大切なことは、生徒の自主性に任せるといった一見耳障りの良い、実は教師の怠慢に他ならない授業姿勢ではなく、生徒一人一人の特徴や個性といったものを数値化し、この子にはこういうところがあるから、それではここのところを助言すれば伸びるなど積極的に生徒に関わり、しっかりと教えてきたことにある。「静かにしなさい」と教師が生徒に言うのは教師の敗北宣言である、という大村は毎回授業にあたっては入念な準備を行い、また話す言葉は事前にテープに吹き込みチェックを行ったという。
大村の授業振りを垣間見る資料として、苅谷さんの講演時に資料として昭和46年に実際に生徒に配られていたプリントが添付されていた。大村国語教室通信と題されたもので、生徒に対してこと細かく指示事項が出ている。「使うまい、こういう言葉は」と言う欄にはいわゆる下品であったり蓮っ葉な言葉が羅列紹介されている。また間違って使いやすい、以下、以上、未満などがわかりやすく解説されていた。また同じく講演会資料であったテストの答案の解説用紙には解答の他に注意が書き添えられており、「(ケアレスミス)などは、ほんとうに注意深くしていないとせっかく育ってきた力が台無しになってしまいます」「大人にも多いのですが、作者(相手)の言わんとしているところを受け止めないで、自分の主張ばかりしている人がいます。」「1文字空ける、段変をしないなどは、もちろん減点です」など抽象的でなく具体的に教えている。
現在上映中の「剣岳、点の記」の作者新田次郎の妻で、同じく作家の藤原ていさんはかつて諏訪高等女学校で、大村に教えを受けている。敗戦時幼い子供を連れ、満州から朝鮮半島を1年かけて引き上げてきたとき、辛酸の中で心の支えになったのは、大村先生であったという。ていさんの次男で数学者の藤原正彦さんはそのときの息子さんの一人。
苅谷夏子さんは現在「大村はま記念国語教育の会」の事務局長をされています。大村は96歳の最後まで教師として生き続けたが、晩年は苅谷夏子さんが大村の仕事の手伝いをされていました。大村がある小学校で短い講演を行ったあと、生徒会長の女の子が気転を利かせたお礼の言葉を述べたあと、次の言葉に詰まってしまい支離滅裂になりながらもなんとか自分の話をまとめた際、会場はその雰囲気を察し静まりかえったとき、車イスの大村が司会にマイクをといい、「大変立派な挨拶でした」とその女の子を誉めたそうです。その言葉にまず担任の先生がぼろぼろ涙を流し、女の子も泣いていた。苅谷さんはその様子に大村は最後まで授業をなさっていると感動したそうです。子供には教えないとただの犬っころと変わらない。敗戦後、ガレキの中で大村が自分に誓ったことは、苅谷さんらの手により引き継がれています。
標高1400mの高原で買ったのは「教えることの復権」ともう一冊、苅谷剛彦さんの教育改革に関する著作で、教育社会学の専門家が混迷する教育改革について明快になたを振るった本で、こちらも一気に読み終えた。先日、月島にもんじゃを食べに行った帰り道、東京駅の地下街の喫茶店にタバコを吸いに入ると、隣の席に屈強そうな若者が苅谷剛彦さんの他の著作を読んでいた。自分も暇であったので地下街には書店もあったことから、どこでその本買ったのか聞こうとしたが、読み込んであるような本であったことと、苅谷剛彦教授は東大の教授も現在兼任されているので、もしかしたら東大の学生かと思い、聞くのを止めた。文系の学者が書いた本は言葉を選ぶので読みやすい。大村が願っていた日本語という「ことば」の大切さが判っているからだ。
胸の振り子さんのブログで坂本龍一の本の話が出ており、思ったことがあったので記す。
坂本はドビュッシューの生まれ変わりと自ら信じているのだが、その豊かな才能を駆使し取り組んだ作品は売れず、制約の中、短時間で仕上げた音楽「ラストエンペラー」「戦場のメリークリスマス」などはヒットしているというもの。
小林秀雄が昭和17年に発表した、中世古典に関する文章群の合間に、「ガリア戦記」と題した一文がある。
それによるとカエサル(シーザー)の「ガリア戦記」は兵馬倥偬の間、非常に短時間で書き上げた元老院への現地報告書に過ぎないものであったそうである。
ところが非常な名文で、最後まで一機に読み、特に読後感もなく、理想的な読書をしたとあるが、理由は簡単でローマの兵隊が最後まで休んでくれなかったからと述べている。
また文字というものは、現在では日常無くてはならないものであるが、それは輪転機が発明された以降のことで、かつては、文字というものは石碑に刻まれた記念碑のようなもっと重い存在であったとこのガリア戦記を読み思ったという。
(ローマ軍の)靴音(サンダルの音)が聞こえる。時間が飛び去る。
との記述でこの一文は終わっている。
ラストエンペラーが売れたのは、無意識の天才の欠片の表出であり、売れない作品は意識的な工夫や、理論といったドグマに坂本が入り込んだ結果なのかも知れない。
昨夜、NHKで白洲次郎のドラマをやっていた。
小林秀雄の回想によると、彼は本物のジェントルマンで鶴川に住まいしていたとき、白洲家に行くとイギリスの貴族から贈られた当時だれも持っていない本物のスコッチウィスキーが沢山あり相伴に預かったと述べていたことを思い出す。
坂本はドビュッシューの生まれ変わりと自ら信じているのだが、その豊かな才能を駆使し取り組んだ作品は売れず、制約の中、短時間で仕上げた音楽「ラストエンペラー」「戦場のメリークリスマス」などはヒットしているというもの。
小林秀雄が昭和17年に発表した、中世古典に関する文章群の合間に、「ガリア戦記」と題した一文がある。
それによるとカエサル(シーザー)の「ガリア戦記」は兵馬倥偬の間、非常に短時間で書き上げた元老院への現地報告書に過ぎないものであったそうである。
ところが非常な名文で、最後まで一機に読み、特に読後感もなく、理想的な読書をしたとあるが、理由は簡単でローマの兵隊が最後まで休んでくれなかったからと述べている。
また文字というものは、現在では日常無くてはならないものであるが、それは輪転機が発明された以降のことで、かつては、文字というものは石碑に刻まれた記念碑のようなもっと重い存在であったとこのガリア戦記を読み思ったという。
(ローマ軍の)靴音(サンダルの音)が聞こえる。時間が飛び去る。
との記述でこの一文は終わっている。
ラストエンペラーが売れたのは、無意識の天才の欠片の表出であり、売れない作品は意識的な工夫や、理論といったドグマに坂本が入り込んだ結果なのかも知れない。
昨夜、NHKで白洲次郎のドラマをやっていた。
小林秀雄の回想によると、彼は本物のジェントルマンで鶴川に住まいしていたとき、白洲家に行くとイギリスの貴族から贈られた当時だれも持っていない本物のスコッチウィスキーが沢山あり相伴に預かったと述べていたことを思い出す。