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バラとおわら風の盆と釣りなどの雑記

徒然草13  「無常ということ」1

2009年02月07日 | 徒然草
「祇園精舎の鐘の音(こえ) 諸行無常の響きあり。紗羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久しからず、唯春の夢のごとし。猛きものも遂には滅びぬ。偏に風の前の塵に同じ。」  この有名な平家物語の書き出しが多くの人を誤らせたと小林は言う。平家の作者には高邁な思想などというものはなく、無常観という当時流行の思想を言ってみただけなのである。ということは「無常ということ」の最後に出てくる有名な一節、「現代人は鎌倉時代の此処のなま女房ほど無常ということがわかっていない。常なるものを見失ったからである」との謎かけとどういう繋がりがあるのか。中世の無常観は当時流行の思想。平家の書き出しを読めば一目瞭然であるが、元々これは仏教思想である。ところが、「この世は無常とは決して仏説というものでもあるまい」と書いていて、「それはいつ如何なる時代でも人間のおかれる一種の動物的状態を言うのである」と言っている。これはどういう意味なのであるか。鎌倉時代のなま女房は一言芳談抄の中で、「諸行無常のあり様を思うに、この世のことはとてもかくても候、なお後世を助け給えと申すなり。」と言ったという。浄土宗僧侶の言葉を集めたものが一言芳談抄であるので、この後世とは死んだ後の世界のことで、なま女房とはそのまま訳せば、若い女官あるいは今風に言うと若いOLのことであるが、その女性が「諸行無常のこの世のことは‥」と言っているのである。一方、平家物語の作者には、厭人や厭世観はなく、諸行無常とはほど遠い存在であった。諸行無常とは、文字通りこの世の中には、同じ形のまま存在するものは一切ないという状態を表す仏教用語であるが、小林の言うように、中世においてこれは自明の理として、人々の日常生活に入り込んできていた。仏説ではなく、人々は常にそれを体験していた。この世は無常なるが故に、厭世観というものが生まれてくるのだが、一方永遠なる御仏の教えに帰依し来世を望むことにより、今をより良く生き抜くという健全な精神の持ち主も数多くいた。もちろん兼好のように生得に健全な精神と肉体を持つ人々もいたのである。ここで、小林の言う、人間の動物的状態というのは、人の考えや行動も諸行無常なるが故に動く者(物)と言っているのである。方丈記はほぼ同時代の作であるが、この病的なまでの厭世観は単なる愚痴話に過ぎない。未来を信じない人が現代には数多くいる。人は死ねば終わりという考え方は、それほど古い思想ではない。それは19世紀にマルクスにより広まった。この猛毒は現在も人々の意識下で猛威を振るっている。「永遠なるものを失ったからである」とはこのことを指すのである。
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