「九月二十日の頃、さる高貴な方にお誘いいただき、明け方まで月を見て歩き回っておりましたが、その折、その方が急に思いたたれて、知り合いのお宅へ、使用人に使いをさせて入って行かれた。私は外で待っていましたが、庭は荒れており、それほど裕福ではない様子ではあったが、急な来客にも関わらず、上品な香の香りがほんのりと庭まで漂ってきており日頃の様子が想像される。また大騒ぎすることもなく静かにお話をしている模様で大変優美な方であると思われた。 さる方はしばらくして出てまいりましたが、私はその女性が気になり、少しの間、物陰から様子を見ていると、外に向って開く扉をさらに少し開き月を見ている様子であった。 すぐに扉を閉めて部屋に入ってしまったら残念な気持ちがしたであろうに、まさか自分の様子を見ている人がいるとは気がつかないのであろうから、この女性の行動は、普段からの心使いが表れ、教養の高さや上品さ優雅さを感じさせるものである。
この女性はまもなくお亡くなりになったそうです。」(第三十二段)
現代の感覚では、朝まで名月を見て歩くことなどだれもしないが当時の上流社会では美しい月を鑑賞することは、花を見るに等しい。徒然草の中でも月を題材にした文章は多い。この女性が誰なのかは知るすべもないが、一夫多妻の通い婚制の終わりの頃の話であるので、さる方の妻かもしれない。当時は結婚しても妻と夫は生計を共にせず、妻は自分の財産で暮らしていた。香は貴人のみだしなみの一つでありこの女性がある程度の身分の方であったこと、女性には教養は必要とされていない時代にあっても月をめでる気持ちがあり、更に来客を送り出したあとにも、来客への心使いを忘れない優しさに兼好は珍しく、感動し、文の端々からこの女性への好意が見受けられる文章で、徒然草では異色ではあるが、私には髄一の名文だと思われる。