将人とともに together with Masato

For the parents in the world, whose children have autism.

光の村卒業に際し

2014年03月20日 | 光の村

早いもので、結局8年間もお世話になることとなった光の村とも本当にお別れの時が来ました。


小学校特殊学級時代の散々な状況を何とかしたいと、寮生活を通して生活指導までしていただける養護学校はないかとインターネットで探し回り、ついに光の村を探し当てた時の感動は忘れることができません。

小学6年生の夏、約1週間体験入学させていただき、上中尾のプールに水筒を投げ入れたり、朝礼台であぐらを組んで一人お茶盛りをしてみたりとやりたい放題でしたが、秋の入学試験の日に15分だけ先生と二人っきりになった後は目を疑うくらいにシャキンとしていました。床に突然寝たり、奇声を上げたり、くにゃくにゃ状態がなくなっていたのです。光の村の先生に魔法をかけられたかのようでした。

入学式の後、12歳の将人を3時間も離れた山奥に置いて行く時の後ろめたさ、切なさは、自動車で立ち去る我々を体育館2階の窓から見送る将人の無表情な顔とともに、今も脳裏にくっきりと残っています。冷たい雨の降る中学入学式でした。


1回家庭学校の後、暗く無表情なうつむき加減の顔でトボトボと帰る姿に胸がまた切なくなりましたが、それくらい当時は親の言うことをよく聞く子でした。また、一方、平日、学校に見学に行った時、我々を見つけた将人が猛然とダッシュして走りより、うれしそうに体を前後に揺する例のダンスをして、生き生きした表情で迎えてくれたのには胸がジンとなりました。

数ヶ月たった夏前には、だんだん逞しくなり、何かあると、「光の村、帰る!」と口答えしたのには驚きました。同じ釜の飯を食うことで、そんなにも強いきづなと信頼感がわずか数ヶ月でできたんだなと感心しました。


それからは驚くことの連続です。ろくに自転車にも乗っていなかった将人が、夏前には7時間耐久自転車レースをやり遂げたというファックスをいただきました。ハーモニカも文化祭で演奏しました。しかも嬉しそうにです。小学校時代は歌も楽器もまるで参加しませんでした。運動会にいたっては、ヨーイドンで逆向きに走り出す始末でした。運動会といえば、みんな参加の光の村ですので、演目の合間は待つことになるわけですが、何とじっとみんなに混じって待っていられるではないですか。これが実に長い間できずに困り果てていましたから、本当に唸りました。やはり光の村に来たのは良かったなと思いました。公立の場合は時間を切って預かるだけの、保育園のような場所という印象がありましたから。

中学卒業旅行の北海道は我々の時には中止となり残念でしたが、代わりに第1回の荒川徒歩下りでした。先生といっしょに葛西臨海公園まで100キロ以上を歩き切るのです。先生方の熱い思いを感じました。思えば、私も柔道をやっていた12年間は、体育会系の乗りで、似たことを率先してやっていました。それを年配の先生方もが、伸び盛りの生徒と一緒になって汗を流してくださるのです。並大抵なことではありません。

基礎生活は何とか自立させていただいたので、高校からは地元もありかなと思い、いろいろ将人と一緒に見学に行きテストも受けましたが、一人で通学できることが絶対条件でしたので、散歩ばかりしてしまう将人には時間通り登校することは困難なため断念し、中学卒業式に続いて高校入学式に並ばせたら、目をむいて「こりゃ、話が違う」とばかりに抵抗し、怒って出て行ってしまったのが昨日の事のようです。

高校からは光岩に移転となり心機一転となりましたが、父の転職、学校への送迎も代理の人でまかなうようになってからは、中学から高校1年までの将人中心の我が家の生活が不可能となったため、果たして卒業までこぎつけられるか非常に不安でしたが、中学とは打って変わっただらしない家庭学校でも、終日散歩という形で結果的に将人は体力を伸ばしていきました。そして、懸案だった宮古島トライアスロン卒業旅行もいい成績で立派に成し遂げました。パラリンピックで感動したのにも勝る身近な金メダルでした。

中学後半からてんかん発作が多くなり、最近は1ヶ月に1〜2回はあります。決まって自宅での寝不足が誘引となっているのがかわいそうです。


予算の関係でマラソン大会が次々と廃止となったため、その炊き出し等もあわせ、学校に行く機会が減り、親どうしの交流が以前ほどできなくなったのは少し寂しい気がします。その分、卒業してからも事ある毎にまた秩父に来させていただきたいと思っています。

高校後半から専攻科は、就職を意識して職場実習も行いましたが、通勤も含め、なかなかうまくいきませんでした。いったん作業に入ってしまうと、忍耐力、技能ともに悪くないものを持っているのに、余暇に脱走してみたり、通勤途中に寄り道ばかりということが多く、そういう意味で仕事に就けないのは実に不憫でした。

幸い私の職場で近くの特別支援学校の知的障害の生徒さんの職場実習を受け入れていることもあり、更にまた近くに大規模・知的障害者施設があることもあって、職場作りだけはうちでもできそうなため、昼間の仕事というより、夜の突然の脱走防止のため夜の居場所、生活場所としてのケアハウスを探しており、難しければ自前で作る事もやむなしと思ったりしています。

病院とコラボした、障害者(慢性腎不全、知的)の社会的・物理的居場所の確保、障害があるからこそできることの開発をライフワークにしたいと思っています。

その時に、先ごろ亡くなられた光の村創始者である西谷先生の足跡を真摯に参考とさせていただき、くじけず、尺取虫でいいから、少しでも前向きに這いずってでも進んで行きたいと思っています。

埼玉県を端から端まで移動する、実に遠かった通学の道のりは、将人の自立への一番の近道だったと確信しています。長い間、本当にありがとうございました。




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