春休みが終わり、将人が帰校し、そのまま大阪出張、そして入学式と大変忙しかったため、今頃になってやっと一息ついている。春休み中の写真もようやく整理する気になった。そのくらい、春休みの家庭学校は「大事(おおごと)」だった。精根尽き果てた・・・。何とかやり終えて、命からがら何とか生き延びて、光の村の学校の先生にバトンタッチしたという感じ・・・。
将人の成長カーブは右肩上がりだが、こっちはもう既に体力、気力ともに横ばい、もっと正直に言えば右下がりなのだ。全てが面倒くさい。
ホームセンターの駐車場に買ったばかりの車を停めておいて、帰ってみたら傷を付けられていた事があったが、もう事故の手続きも面倒くさいし、そのうちどうせ将人がその程度の傷は付けるだろうと放置してしまう位なのだ。若い時だったら大変だっただろうが・・・。
中2に進級した新しい学級会で、7月末の雲取山登山の話が出た。
去年30年ぶりに登山したはいいものの、速度を決めてどんどん登っていく生徒たちを尻目にやはり遅れて行った。そして、圧巻は、途中のお清(教)平から白岩山までだ。急に勾配がきつくなり、こんな急勾配の登山は生まれて初めてだったので、もうここでやめようと思ったのもつかの間、一緒に歩いてこられた70歳過ぎの女性はそれにもひるむ事なく、平然と登り始められるではないか。・・・。
本当に目が点になった。まるでロッククライミングでも必要そうな急勾配の崖がそびえ立っているというのに・・・。光の村のご家族はそんじょそこらの親ではないのだ。
70過ぎの方が登るのだ。50才前の、昔の体育会系にできない訳はないと、こっちもやおらやる気を奮い起こし登り始めた。数十メートル登るとさすがに先ほどの女性も息を切らして休んでおられ、もう下山しますとの事だった。
私も急に気が楽になって、後数十メートル上がった所で食事休憩した後、下山する事にした。そして、この休憩中に白岩山まで行った将人たちの一行が食事もとらないで、Uターンしてきたのに出くわした。みんな息も切らさず、颯爽と下山して行った・・・。その差はあまりにも歴然だった。
いつまでこの学校でやっていけるかなと正直なところ思う・・・。子供を体育専門学校のような所に預けて、親はのほほんと知らんぷりのというのもどうかとは、もちろん思う。しかし、できる事とできない事がやはりある。このままだと、発達真っただ中の中学生の体力と競争しなければならないみたいだ。どうするか。
仕事に影響の出るような事をしては、本末転倒、職にあぶれて親子心中という事にもなりかねない。よく皆さん、やっていると本当に思う・・・。
学生時代、12年間も体育会系でならしてきた私でもこの有様なのだ。運動をあまりしていなかった親御さんは一体どうしているのだろう。特に肥満体の、自分のような親には本当にこたえる・・・。太りたくて太った訳でもなく、やせようと頑張ってもみた。しかし、どんなに食べても太らない体質の人がいるのと同じで、かなり努力してもやせない人間もいるのだ。
・ ・・・。・・・・。自分の努力は、それを言う程にはまだまだ到達
しておらず、もっと頑張る余地があるのは重々知ってはいるが・・・。
世の中、不公平である。肥満体は格闘技をするには良かった。有利だった。しかし、年をとると腰痛、膝痛などろくな事にならない。挙げ句の果てに、この年でマラソンだ。
これが、やせ形の人だと、状況は大きく変わっていたはずだ。本当にうらやましい限りである!! 格闘技をしている時にはこんな事は一度も思った事がなかった。
このまま、はみ出しもの、できない親、という屈辱的なレッテルを負ったまま後5年間を過ごさないとならないのかと思うと、新学期早々またもや気が重くなった。
光の村理想の親コース、光の村通常親コース、光の村ハンディキャップ(最近外国では、障害にもめげずいろんな事に果敢に挑戦していく人たちという事で、Challengedと言い換えるらしいが・・。)の親コースなどと、親像をある程度作っていただけたら、この苦しみもないのだろうが・・・。
柔道もそうだった。3級にはここまで、1級にはここまで、初段、2段はここまでという明確な基準があって、精神的にメリハリ付けた生活が可能だった。もちろん、最終的に10段をみんな目指して頑張るという構図に違いはないのだが・・・。
このままだと、のんべんだらり、高き目標を目指しながらも、できない自分に妥協し、精神的に落ちこぼれのような、日陰で裏街道を歩む5年間をかつかつ過ごす事になってしまうのか・・。どこかで割り切って、自分のいい所を出しながら頑張って行ける親の道はないのだろうか。
夏休み、出身の小学校に、光の村の先生と将人の近況報告に行った際、開口一番、「お父さんも体を大事にしないとね。」とさりげなく校長先生が言われたのが今頃になって響いてきた。教育関係者の間では、そういう風に光の村は認識されているのだろう。
・・・・。しかし、老体に鞭打って頑張るしかないのだ。将人だって頑張っているのだ。既に人生そのものが、そういう風に追い込まれているのだ。今更、何だ。悪あがきというものだろう。
将人の成長カーブは右肩上がりだが、こっちはもう既に体力、気力ともに横ばい、もっと正直に言えば右下がりなのだ。全てが面倒くさい。
ホームセンターの駐車場に買ったばかりの車を停めておいて、帰ってみたら傷を付けられていた事があったが、もう事故の手続きも面倒くさいし、そのうちどうせ将人がその程度の傷は付けるだろうと放置してしまう位なのだ。若い時だったら大変だっただろうが・・・。
中2に進級した新しい学級会で、7月末の雲取山登山の話が出た。
去年30年ぶりに登山したはいいものの、速度を決めてどんどん登っていく生徒たちを尻目にやはり遅れて行った。そして、圧巻は、途中のお清(教)平から白岩山までだ。急に勾配がきつくなり、こんな急勾配の登山は生まれて初めてだったので、もうここでやめようと思ったのもつかの間、一緒に歩いてこられた70歳過ぎの女性はそれにもひるむ事なく、平然と登り始められるではないか。・・・。
本当に目が点になった。まるでロッククライミングでも必要そうな急勾配の崖がそびえ立っているというのに・・・。光の村のご家族はそんじょそこらの親ではないのだ。
70過ぎの方が登るのだ。50才前の、昔の体育会系にできない訳はないと、こっちもやおらやる気を奮い起こし登り始めた。数十メートル登るとさすがに先ほどの女性も息を切らして休んでおられ、もう下山しますとの事だった。
私も急に気が楽になって、後数十メートル上がった所で食事休憩した後、下山する事にした。そして、この休憩中に白岩山まで行った将人たちの一行が食事もとらないで、Uターンしてきたのに出くわした。みんな息も切らさず、颯爽と下山して行った・・・。その差はあまりにも歴然だった。
いつまでこの学校でやっていけるかなと正直なところ思う・・・。子供を体育専門学校のような所に預けて、親はのほほんと知らんぷりのというのもどうかとは、もちろん思う。しかし、できる事とできない事がやはりある。このままだと、発達真っただ中の中学生の体力と競争しなければならないみたいだ。どうするか。
仕事に影響の出るような事をしては、本末転倒、職にあぶれて親子心中という事にもなりかねない。よく皆さん、やっていると本当に思う・・・。
学生時代、12年間も体育会系でならしてきた私でもこの有様なのだ。運動をあまりしていなかった親御さんは一体どうしているのだろう。特に肥満体の、自分のような親には本当にこたえる・・・。太りたくて太った訳でもなく、やせようと頑張ってもみた。しかし、どんなに食べても太らない体質の人がいるのと同じで、かなり努力してもやせない人間もいるのだ。
・ ・・・。・・・・。自分の努力は、それを言う程にはまだまだ到達
しておらず、もっと頑張る余地があるのは重々知ってはいるが・・・。
世の中、不公平である。肥満体は格闘技をするには良かった。有利だった。しかし、年をとると腰痛、膝痛などろくな事にならない。挙げ句の果てに、この年でマラソンだ。
これが、やせ形の人だと、状況は大きく変わっていたはずだ。本当にうらやましい限りである!! 格闘技をしている時にはこんな事は一度も思った事がなかった。
このまま、はみ出しもの、できない親、という屈辱的なレッテルを負ったまま後5年間を過ごさないとならないのかと思うと、新学期早々またもや気が重くなった。
光の村理想の親コース、光の村通常親コース、光の村ハンディキャップ(最近外国では、障害にもめげずいろんな事に果敢に挑戦していく人たちという事で、Challengedと言い換えるらしいが・・。)の親コースなどと、親像をある程度作っていただけたら、この苦しみもないのだろうが・・・。
柔道もそうだった。3級にはここまで、1級にはここまで、初段、2段はここまでという明確な基準があって、精神的にメリハリ付けた生活が可能だった。もちろん、最終的に10段をみんな目指して頑張るという構図に違いはないのだが・・・。
このままだと、のんべんだらり、高き目標を目指しながらも、できない自分に妥協し、精神的に落ちこぼれのような、日陰で裏街道を歩む5年間をかつかつ過ごす事になってしまうのか・・。どこかで割り切って、自分のいい所を出しながら頑張って行ける親の道はないのだろうか。
夏休み、出身の小学校に、光の村の先生と将人の近況報告に行った際、開口一番、「お父さんも体を大事にしないとね。」とさりげなく校長先生が言われたのが今頃になって響いてきた。教育関係者の間では、そういう風に光の村は認識されているのだろう。
・・・・。しかし、老体に鞭打って頑張るしかないのだ。将人だって頑張っているのだ。既に人生そのものが、そういう風に追い込まれているのだ。今更、何だ。悪あがきというものだろう。