一生

人生観と死生観

矢内原忠雄

2009-02-23 11:18:32 | 人生人間
2月23日 雨
 世の中に偉大なXと言うものがある。近くで暮らしている人でさえ容易に理解できない。偉人ほど多面性がある。偉いと尊敬している人の隠れた欠点を暴きだすことを趣味としている人もいる。政治家や学者、女優、俳優、花形アナウンサーなどが一たんこういう人たちに摑まったら大変だ。
 矢内原忠雄、偉大な教育者、キリスト教伝道者。内村鑑三の弟子。かっては東大教授をつとめ、1931年の満州事変を調査して日本軍部の犯罪を確信した経済学者、矢内原事件(ある講演会で愛国精神のあまり日本を葬ってくださいと弁じたことが公になり、東大を追放された)後は特別高等警察の監視が厳しく、家庭集会で若者に決死の思いで聖書を講じ、軍国主義との戦いの日々を過ごし、戦後は東大に復帰して東大教養学部長、ついで東大総長をつとめ、その間も伝道の務めをやめなかった人。
 息子の矢内原伊作は父の伝記を書いた。それは父もまた継母恵子夫人も亡くなった後、朝日ジャーナル誌上だった。父忠雄は秀才で親元を離れて神戸一中に学んだ。その頃の日記が残っていた。それを公開したのだ。その中には普通なら公開できないひどいことが書いてあった。偉人にふさわしくない過去に見えるのだが、若者には恐らく普通のこと。恋愛ごっこだった。
 矢内原がキリスト教に入信する前には立派な顔して偽善的な振舞いをした。その後彼はいろいろな人生を体験し、内村の集会に学んで己の罪を深く反省し、悩んだに違いないが、そのことは息子は取上げないうちに急逝した。まるで親の恥を曝すのはもうこの辺でよいと言わんばかりの出来事だった。
 人は誰でも罪にまみれた存在だ。キリスト教の救いが徹底的なのはそうした隠れた罪まできよめる十字架の福音があるからだ。矢内原自身死の前に本当に己の罪を顧みて泣きに泣いたと恵子夫人は伝える。その後晴れ晴れとした顔になり、もう許されて天国の望みに生きる人になったと言うのだ。偉人を尊敬するのはかまわないが、偉人を絶対と思うなかれ。偉人の中の人間的欠点はかえってわれわれに真理を教え、偉人の中の卑小な人間に憐れみと親しみを覚えるかもしれない。

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