言葉のクロッキー

本とかテレビその他メディアから、
グッと感じた言葉・一文などを残してゆきたい。
その他勝手な思いを日記代わりに。

「序の舞」 四番

2022-05-08 | 能・芸能
「序の舞」を四番観た。

● 能 「姨 捨」  シテ(里女 老女の霊)  梅若 紀彰      (4月9日 横浜能楽堂)
    
      笛:松田 弘之   小鼓:大倉 源次郎   大鼓:國川 純   太鼓:前川 光長  
              
      (年老いて山に捨てられた女。中秋の名月が限りなくその光を放つ中、老女の霊が現れ若き日を偲んで舞う。)

●能 「采女」           シテ(采女) 坂真太郎   (4月10日 矢来能楽堂)

        笛:一噌 隆之   小鼓:鵜沢 洋太郎   大鼓:原岡 一之  
             
       (かつて天皇の情けを受けた采女。だがはかなくも、その心変わりを恨み猿沢の池に入水する。弔う僧の前に幽霊となって現れ、天皇への想いを込めて舞う。)

●能 「檜垣」      シテ(老女・檜垣女)  大槻 文蔵  (5月7日 横浜能楽堂)

        笛:杉 市和   小鼓:大倉 源次郎   大鼓:亀井 忠雄  
                 
        (その老婆、檜垣という名の女は若いころ美貌を誇った白拍子だった。それゆえに多くの人々を惑わした罪で成仏できずにいる。その老残を晒し、昔を偲び弱々しく舞い、僧に救いを求める。)

●能「杜若」        シテ(杜若の精)  中所 宜夫      (5月8日 矢来能楽堂)

        笛:杉 信太朗   小鼓:大倉 源次郎   大鼓:澤田 晃良   太鼓:佃 良勝  
                  
        (杜若の精が、在原業平の形見の初冠と二条后の形見の唐衣を着し、昔を偲び、舞う。)


     いずれの曲目も在りし日の罪科で成仏できず、冥界に漂う霊魂が、容を現し舞を舞うというもの。
     それぞれの背景が異なるゆえに、きまり切った「序の舞」を舞手がどのように表現するのかとても楽しみだった。
     立ち姿で、観客に主人公の「老い」を感じさせるには、演者から「老い」相応の風姿を観客が感じ取れるオーラのようなものが無いと面白くない。
     老人の仕草を真似ただけではダメなのだ。「・・もどき」ではなく「そうなんだ」と思える主人公。
     「檜垣」は良かった。また老女ではないけれど「采女」も良かった。

片耳不良

2022-05-03 | 所感折節
左の聴覚が徐々に低下して、最近は殆ど聞こえなくなった。
本来両耳で聞こえる音が、右の耳でしか聞こえてないのだから、
認識してる音の量は半減してる・・音が低いとか弱々しいのかと思うけれどそうはなっていない。
両耳が完全の時とほぼ同じなのだ。
「ほぼ」というのは、つまり左の方角からの音声が回りまわって右の耳から入ってくるからだ。
それだけだ。詳しいことは知らないけれど、人間の聴力は右に50,左に50の音量があったとして
100の音量を認識するのではなく、片耳と同じ50しか認識しないのではないかと思ったりする。
バスを待っているとき、試しに右の耳を塞いでみた。そうするとまったく音の無い町の風景になった。
これは新鮮な発見にも似た感じがした。機械の騒音・生き物の発する音・自然の音・・・
およそこれまであたり前に受け入れてきた音がピタッと止んでしまった。
音なしの生活映像が流れているのだ。日常の生活に極々当たり前にあった音が全く無いのだ。
ヘッドホンで聴いていた音楽などが突然切れて無音になった状態と似ている。
静寂という世界は音がある。しかし無音の日常生活というのは、このようになるのかと垣間見えた感じがして、
しばし風景を眺めて、感動にも似た状態でいた。

しかし耳の聞こえない人を他人が知るのは無理だと思う。
姿かたち、見たところ何の違いもないのだから。
あたりまえの社会生活に音の果たす役割は大きい。だから無音となると危険が伴う。
でも環境に恵まれるなら、聴力なしでも生活して問題は多くないと思う。
そんな思いがした。