言葉のクロッキー

本とかテレビその他メディアから、
グッと感じた言葉・一文などを残してゆきたい。
その他勝手な思いを日記代わりに。

第48回のうのう能 

2016-02-15 | 能・芸能

「義経と弁慶」    2月11日    国立能楽堂

番組

●-解説- 「義経と弁慶 ~長刀の能~ 」    中村健史

●能『橋弁慶』
         武蔵坊弁慶: 観世喜之  弁慶の従者: 中森健之介  牛若丸(子方): 観世和歌
         都の者: 善竹十郎  善竹富太郎     後見: 観世喜正  永島充
         地謡: 桑田貴志 坂真太郎 小島英明 佐久間二郎 鈴木啓吾 奥川恒治 遠藤喜久 遠藤和久
         笛: 一噌幸弘   大鼓:柿原弘和   小鼓: 大倉源次郎
●狂言『柿山伏』
         山伏: 善竹大二郎    畑主: 善竹十郎       後見: 野島伸仁
●能『船弁慶』
         静御前・知盛の霊: 観世喜正  源義経(子方): 桑田潤之介  武蔵坊弁慶: 森常好
         従者: 館田善博 森常太郎  船頭: 善竹富太郎     後見: 桑田貴志 遠藤和久
         地謡: 中森健之介 坂真太郎 小島英明 佐久間二郎 永島充 遠藤喜久奥川恒 治 鈴木啓吾
         笛: 一噌幸弘    小鼓: 大倉源次郎   大鼓:柿原弘和     太鼓: 観世元伯 

今回は義経と弁慶を主題とした能2番。解説によれば、弁慶という人物はいろいろと逸話が多く、どこまでがほんとのことなのかよくわかっていない不思議な人物であるという。弁慶について確かなことは、3点しかなく、それらは・僧であったこと・義経の家来だったこと・奥州で亡くなったこと、なのだという。その他の言い伝えはみんな作り話らしい。それだけ弁慶は庶民に人気があったということの裏返しだともいえるとのこと。まず最初の能「橋弁慶」は牛若丸と弁慶が京都五条の橋の上で丁々発止とやりあい、打ち負かされて主従の約束をするお話。能「船弁慶」は、成人した牛若が義経となり、平家との華々しい戦に勝利したが、あまりの鮮やかな戦ぶりに恐怖を感じた総大将の兄頼朝に警戒され、結局命を狙われるまでになり、落ち延びて行く。その時義経の愛妾白拍子の静が、自分も一緒につれていってほしいと懇願するのだが、それはできない話。揺れ動く義経に代わり弁慶が静に別れを説得するのだ。中入り後、舟で落ち延びてゆく途中、にわかに嵐になり、海上に現れた平家一門の亡霊が義経主従を海に引き込もうとする。ここは武力ではなく、祈りでもって対抗する弁慶。海上に現れた平知盛の幽霊と対峙し、祈りでもって退散させ無事海を乗り切ったのだというお話。
舞台では、牛若丸・義経役は子方が務める。橋弁慶では、喜之師の孫が務め、年の差は70あまりある。観ていてしかつめらしい能ということでは全然しなくって、ホンワカとしたものを感じた。今回は子供が出演するということで、学童が多数見に来るよう企画されているとのことで客席にかなりたくさん小学生が観に来ていた。3時間あまりの演能だが、騒ぐでもなく、声上げるでもなく、行儀よかったので、事前にかなり説明がされていたのだろうと推察する。良い企画と思う。また狂言「柿山伏」も、テレビの日本昔話しみたいで、わかりやすい演目なので、楽しめたと思う。

映画「白いたてがみのライオン」

2016-02-08 | 映画 音楽
原題「LEV S BILOU HRIVOU」 1986 チェコ映画 136分  監督 : ヤロミル・イレシュ
2016年2月2日 新国立劇場中劇場/チェコセンター後援   (オペラ「イェヌーファ」日本上演記念に先立ち)

ロシアとヨーロッパ諸国とに挟まれた国チェコ。スラブという言葉の響は、なにか郷愁のような愁いを含んだ風景を連想させる。バターを溶かし込んだような風景、空に溶け込んでしまかのようなくすんだ建物、丈の高い木々。映画にはそういう風景がふんだんに盛り込まれている。物語を除けば良い観光映画になるかもしれない。音楽はヤナーチェクものだろうけど悪くはない。しかしこの30年くらい前にチェコで製作された映画。何の予備知識もなくこの映画を観た感想は、子供2人を失い、忠実な妻と召使にめぐまれながら、としがいもなく人妻・遊牧の女、歌手などに入れ上げ、頑固に自分の曲を作り上げていった男の自叙伝ということになるのだが、チェコでは、スメタナやドボルザークに並ぶ大作曲家ということなので、映画の背景を知るためにWikipediaを参照する。

-ズデンカと結婚。翌年に娘のオルガが誕生したが、直後に母アマリアとの同居を望むヤナーチェクに反発したズテンカが娘を連れて2年間実家に戻るなど、当初から夫婦関係は不安定。また、民族主義者のヤナーチェクは「きわめてドイツ的」なズデンカの親族に当惑を覚えていた。ヤナーチェクのもとへ戻ったズテンカは長男ヴラディミールを出産したがヴラディミールは猩紅熱にかかり、2歳半で死去した。ヴラディミールの死により、結婚・同居関係こそ解消されなかったものの、ヤナーチェク夫妻の結婚生活は事実上破綻。
-『イェヌーファ』はガブリエラ・プライソヴァーによる戯曲『彼女の養女』の翻案を基にした作品で、この戯曲はモラヴィアの村を舞台とし、さらにモラヴィア方言で書かれている点に特徴があり、ヤナーチェクは1893年にこの作品のオペラ化を打診。プライソヴァーはこの題材がオペラ向きでないことを主張したが、ヤナーチェクは作品に固執。1897年頃に第1幕が完成したが、当時ヤナーチェクは音楽学校の教師の仕事や民謡の研究活動などで多忙をきわめており、作曲は一時中断。1902年の夏に第2幕完成。そのまま第3幕の作曲に取りかかるが、1903年完成の直前、娘のオルガを病で失っている。死の間際の願いは『イェヌーファ』の全曲の演奏を聴きたいというもので、願いが叶え られた5日後にオルガは死去した。ヤナーチェクはこの作品をプラハで上演することを望んでいたが、当時プラハ国民劇場のオペラ部門の責任者であったカレル・コヴァジョヴィツは、10数年前に自作のオペラをヤナーチェクに酷評された怨みがあり、上演は拒否されてしまう。結局初演は1904年1月21日にブルノの国民劇場でシリル・フラズディラ指揮のもと行われた。
-『イェヌーファ』はヤナーチェクが独自の語法を確立した作品として知られる。『イェヌーファ』は子供の死にまつわる悲劇を描いた作品である。初演における地元での評価は極めて高かったが、「プラハの批評家たちはほとんど公然と敵意を示した」。当時のヤナーチェクについて、「プラハにおいては、彼はいくぶん冷やかに作曲家とみられていたが、それよりもわずかに敬意をこめて民俗学者と考えられていたのだった」、「オペラ劇場やコンサートホールでの手ごわい競争者というよりも、民俗学者としての知識を身につけている二流の地方の作曲家であるという見方がプラハではなおも一般的であった」と評されていた。
-1917年ヤナーチェクは二人の子供を持つ38歳年下の既婚女性カミラ・シュテスロヴァーと出会い、魅了された。以降ヤナーチェクは生涯にわたりカミラに対し熱烈に手紙を送り続け、その数は11年間で600通以上に及ぶ。カミラが住む南ボヘミアを訪れ、家に泊まることもあった

映画は大作曲家の素晴らしさを表現したものではなく、いかに人間臭かったのかを映像化しような思いがする。2時間を超える作品ではあるけれど、なにか物足りない感じが残った。

閑さんの死

2016-02-03 | 能・芸能

宝生閑さんが2月1日にお亡くなりになった。

閑さんがワキを固める舞台は、それだけで正座して観るようなそんな気がしていた。

それだけに、もうこれからは閑さんを舞台に見ることは無いのだと思うと、寂しい気がする。

2005年9月にテレビで観た能「小原御幸」。閑さんはワキの万里小路中納言をつとめた。

建礼門院が、ひっそりと住む大原の寂光院を後白河法皇に伴われ訪れる。そしてその風景風情を謡う。

あれは良かった。あのような謡があるのかと思った。閑さんだからの謡なのだろうと思う。

閑さんを観た最後の舞台は、去年の4月、「石橋」だった。

 ご冥福をお祈りします。