原題:「THE PEOPLE VS, LARRY FLYNT」 監督:ミロス・フォアマン 製作:1996年
主人公「ラリーフリント」は、アメリカのポルノ雑誌「ハスラー」の創設者だ。彼は猥雑な内容の新聞・雑誌を出版し巨万の富を得た。裏を返せば、お金を出してまでもゴシップ・皮肉・エロなど猥雑な内容というのを多くの人々は知りたがっているということだ。それは良識ある人々・純真な子供たち・知らなくともよかった人たちにとっては悪魔のささやきならぬ隠された現実を突きつけられ、知ることでもある。当然彼は世論と戦うことになる。彼は有能な弁護士とともに戦う。アメリカの良いところだ。法廷で、このグレーな分野ではあるが「表現の自由なのだ」と主張する。
・・・この国(アメリカ)がなにより大切にしてるものに、自由な論争そして言論の自由があります・・・
・・・公共の人物の精神的苦痛を訴える権利と人々の表現の自由という公共の利益と、どちらが、より重要か・・・
・・・皮肉はこの国の伝統です。(伝道)師が精神的損害だけで訴えを起こせるなら、公共の人物は皆訴訟を起こせる。・・・
・・・たとえ不愉快な言論でも、全ての言論は健全な国家の活力です。・・・
そしてアメリカの最高裁は、猥雑な内容によって不愉快な思いに我慢できなくなった公共の人々の訴えを退け、ラリーの主張を受け入れたのだ。公共の人々は不愉快な思いに甘んじなければならない、それは国家の活力の証しなのだと判決する。
しかし良いのだろうか。アメリカの影響は大きい。日本のように無表情な国にとって、都合のいいところだけ取り入れそうな気がする。特に日本のメディアの人たちは、公共の人々を相手とした猥雑な内容を信念を持って、一般の人々に公表しているのだろうか。「売れればよい。ドギツクゆけ」だけではないのか。見なければいいだけだというには巷は猥雑に溢れていて、嫌でも目に飛び込んでくる現代ではないか、少なくとも都会は。
アメリカは論争に長じた国だ。日本とは違う。
アメリカ合衆国憲法修正第1条:「連邦議会は、国教を樹立し、あるいは信教上の自由な行為を禁止する法律、または言論あるいは出版の自由を制限し、または人民が平穏に集会し、また苦痛の救済を求めるため政府に請願する権利を侵す法律を制定してはならない。」