言葉のクロッキー

本とかテレビその他メディアから、
グッと感じた言葉・一文などを残してゆきたい。
その他勝手な思いを日記代わりに。

映画『ハナレイ・ベイ』

2018-10-19 | 映画 音楽
麻薬中毒で夫を失った女。そんな男との間に生まれた一人息子。女は息子が嫌いだった。
息子がサーフィンするためにハワイに行った。そしてサメに襲われて死んでしまう。
東京からハワイに飛んだ女は、冷たくなった息子を確認する。帰国しようと空港まで来たけれど、他人のサーフボードを眺めているうち気が変わり、しばらくハワイ・カウアイ島ハナレイに滞在する。
毎日、飽かずハナレイ・ベイの海を眺めた。そしてそれは10年あまり続くことになる。そのつど海を見て過ごした。深い悲しみと怒りとやり切れない思いを胸に秘めて。
忘れようと努めたけれどできなかった。女は息子を愛していたのだ。知らずに深く愛していたのだ。そのことにハナレイ・ベイの海を眺めているうちに、じわじわと分かってくるのだった。
そんなある日、片足を失ったサーファーが海辺に立っているのを見たという若者がいて、そのサーファーに会いたくて海辺を彷徨って探すが見つからない。
明るい空色をしたカウアイ島の海の色。温かく、しょっぱさを感じない海水、砕け散る白い波。そんな海に無心に波乗りに熱中する若者たち。亡き息子の面影を追い、生前ぶつかりながらも共に生活していた頃を回想する。
スコール、南国特有の木々、海辺に生育してる大木、強い海風、島の住人、島の建物、島のサルーン、島の夜の臭い・・・
いろいろ印象的な映像が写しだされるが、しかし、海のシーンがとても多かった。スクリーンいっぱいにハナレイ・ベイの海を映し出す。波の音、波の色、砕け散る波頭、夕日に沈む海。
映画を観ていて、その悠久さに癒されながらも一人ぽっちになった女の物語に共感する。日本人的には諸行無常ということか。この作品は日本人が主体だけれど、英語の会話シーンも多く洋画と言ってもよいくらい洋風なのだ。舞台が専らカウアイ島だからかもしれない。
毎日いつまでも海を見つめていた女は、ある日吹っ切れたのか、海にサヨナラをしたあと振り返ったその先に見た者は亡き息子だったのだろうか。
村上春樹の原作。原作からの解釈はいろいろだろうけれど、映画はサラッとして、不幸な女の物語を包み込み、体の中をカウアイ島の風が吹き抜けたような後味が残る。
主演の吉田羊は、ずけずけとものを言い、バリバリの英語を喋り、男勝りの強い女を演じ、説得力があってとても良かった。

映画『日日是好日』

2018-10-18 | 映画 音楽
大人になったある日、母親からお茶の稽古を勧められる。主人公は気が進まなかったけれど、従姉妹の強い誘いに抗しきれず稽古に行くことになった。古びた家に在った額に「日日是好日」と書いてあって、「どういう深い意味があるのか」と首をかしげる二人。掛け軸の架かる稽古場で先生は淡々と稽古を進めてゆく。
数百年も年を経たお茶の世界は約束事の連続。戸惑うことばかりに、師匠はさりげなく指導してゆく。「頭で理解するのでなく、体に覚えさせる。稽古は回数。」「何故そうするのかは先生にもわからない。そういうものなのです。」「形から覚えて、心を入れてゆく」「10年も稽古したのですから、そろそろ自分で工夫をしなさい。」とか「左足から部屋に入る」「畳は6歩で歩む」「畳の縁は踏まない」・・・・もう笑ってしまうほどだ。
しかし全くの初心者と長年稽古をしている者とではその所作は明らかに違う。多分、感性の向上とか、事象に対する考え方のようなものへの影響が変わってくるのだろう。それが所作に動作に自然に表れてくるのだろう。自然の移ろい、掛け軸から感じ取れるもの、水音の違いすら分かってくる楽しさ。
映画に出てくるのは女性が大半だけれど、男性にとってお茶はどうなんだろうと、ふと思ったりする。茶道が確立されたのは戦国時代。なんと支配階級に流行した。女々しい精神性で流行したわけではないと思うけど分からない。崇高な精神性を感じてのことよりも、すごく俗物的な背景に流されただけかもしれない。明日をも知れない自分の命に、武道の鍛錬もせず、お茶に埋没するはずがない。それとも男性のお茶には、殺気のようなものを隠すためだったのだろうか。
映画からは、「静けさ」静けさの中で時間が流れてゆく。というか、すごく日本人として体で分かる風景とかお話なのだ。現代に生きる若い女性が遭遇する出来事。自分を見つけられない主人公が、お茶を理解してゆくにつれ、自分をも次第に見つけてゆく。なんとなくわかりやすい映画だった。
お茶の師匠を演じた樹木希林は病で亡くなったけれど、この映画からは微塵も病を感じさせない演技で、違和感もなく良かった。惜しい役者さんだったと思う。主人公・黒木華の父親役は鶴見辰吾だったが、唯一ともいえる男役に、何故か存在感があった。

映画『散り椿』

2018-10-02 | 映画 音楽

『散り椿』   第42回モントリオール世界映画祭審査員特別賞受賞
監督・撮影:木村大作 脚本:小泉堯史  原作:葉室麟  音楽:加古隆
東宝映画   製作:「散り椿」製作委員会 市川南

新兵衛:岡田准一  采女:西島秀俊  里美:黒木華  惣兵衛:石橋蓮司  玄蕃:奥田英二

「散り椿」 とても絵画的なタイトル。さすが物書きは豊富な語彙を持っているものと思う。
「散り椿」の正式名称は「五色八重散り椿」。一本の椿の木に、白から紅まで様々に咲き分け、花弁が一片一片散っていくのだそうだ。見たことはない。
映画では満開の散り椿を背景に物語が展開するシーンがある。そういえば「椿三十郎」とか「柘榴坂の仇討」とか、椿が鮮やかに撮られていたのを思い出す。洋画ではあまり記憶にないので、椿は日本映画独自の存在感のある花なのかもしれない。故郷の家に咲く、散り椿。あの椿をまた見に帰ろうと言う、病に侵された妻。しかし故郷に帰るということは、それなりに平和だった藩にとっては歓迎されざることだったのだ。主人公はそれを承知の上で藩に帰る。それを察知した藩は刺客をどんどん差し向けるけど、主人公はそれらをバサバサと斬りまくるのだ。久しぶりに、切られると血しぶきが飛び、顔やら着物が血だらけの殺陣シーンを見た。主人公・岡田准一の殺陣は凄惨というよりむしろ美しい。構え・スピード・動作・伝わってくるもの・・・どれも腰が据わっていて様になっている。劇画チックでないところがいい。もちろん殺陣師の演出にもよるのだろうけど、殺陣師のスタッフとしても岡田の名がクレジットされてるところからすれば、殺陣師的ななセンスも十分持ち合わせてるのだろうと思う。
この映画は全編オールロケというだけあって、背景が半端ではない。故郷の山々、うっそうと茂る大木、満開の散り椿、ふわりふわり数限りなく降りしきる雪、激しい豪雨、屋敷の調度品の数々・・・どれも秀逸なのだ。加古のBGMがそれ等とともに一層引き立てる。見事すぎて、だからもっと絞り込めばもっと効果を高めたかもしれないと思う位だった。
新兵衛と里美の別れが、満開の散り椿がバックであったとしたら、また違ったストーリー展開になっていたかもしれない、などと思ったりした映画だった。