川柳・ボートっていいね!北海道散歩

川柳・政治・時事・エッセイ

歪な壺・・・佐藤容子

2007年08月31日 | 川柳
         現代川柳『泥』二号 

            沈黙の箱の深さへ放つ魚 

確かめておこうと箱を振る 寡黙
花溢る箱の広さをまなうらに
孵化をする気配かすかに揺れる骨壷
                      さらさらと星を雫して魚 帰天
                      逝く魚のかたちに濡れてゆく夕陽
                      喫水線 別れ上手な魚たち
       いつまでも歪な壺と戯れる
       半身を濡らし二章の一行目
       さすらうて候ページ繰り続き
                         辞書のない言葉に溺れ秋の脈
                         ナーバスな言葉に揺れている芒
                         ポケットの深さへ落とす比喩暗喩
火の雫つぎつぎ雫し惰眠する
祭から祭り人語獣語を響かせて
本日は晴天ゴッホの耳が咲く
               ハーブ群生 呪縛の解けぬ身半分
               血族もスギナも地下へ累々と
               イントロの長さ石榴はすでに熟れ
犬の高さを越えて鬼頭は
一本の何を殺めて洗う指
秋は其処 白紙に戻す足の裏
                        銀の雨さむい冷たい 極刑か
                        昴ぶりは有ったか黄楊で髪を梳く
                        魚臭の手 性善説を曖昧に
        闇深くいよいよ光る背も指も
        満開の絵手紙並べ ゼロ番地
        蜘蛛は糸光らせ見事なエピローグ

           神無月ならば鏡を伏せ あ そ ぶ
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月並みから瑞瑞しさへ・・・池さとし

2007年08月30日 | 川柳
       ・・・続き   現代川柳『泥』二号

 小さな子どもが発する言葉に、新鮮なきらめきを感じるのは、大人のような殻や枠に縛られていない本音を吐き出すからである。
 
 観念とか風習、更に価値観などにも一歩踏み込んで殻を打ち破ったり、壊したりしてみる。そんな営みの中から、創造や再生などの芽は育ってくる。

 これは夏目漱石の小論からの引用だが、(人間という者はどんな特色、どんな性質を持っているか。第一に模倣ということを挙げたい。人は人のまねをするものである)というように、模倣の意義を認めているからおもしろい。又、小林秀雄は、(模倣は独創の母である唯一人のほんとうの母親である。模倣してみないで、どうして、模倣の出来ぬものに出会えようか。)と述べている。

 良く引き合いに出される言葉に、「守・波・離」がある。もっぱら形を真似する時期の
「守」、形をものにした後の独自の工夫をする時期の「波」。そして形を離れて自分独自型を完成させる時期の「離」川柳に限らず芸事というのは、このような道筋のなかで自分のものを獲得していくに違いない。

 人間性、独自性のある川柳の価値、コピー川柳と呼ばれる作品の価値観に囚われていること自体が、従来の観念に縛られてしまっている日本人の体質であり、そこを打破しなければ、独創性などあり得ないことなのかも知れない。

 日本語だけが持っている日本の文化、日本人の深い心を書くことのできる川柳の奥の深さは、次のような作品に出会うたびごとに、しみじみ感じさせられる。

 ひかりごけだろうか母が光りだす  矢本 大雪
 ほらここよ天使の降りる停留所   広瀬 ちえみ
 梯子にも『』死体にもなれる春   石部  明

 これらの作品が、何の抵抗もなく心の中に、ストレートに伝わってくるのは、作者の想いが作品の中に確実に存在するからであろう。どの作品にも、最優先させなければならない個の想いが歴然としている。現代の川柳が自分の主張ある個性の存在を問うようになってから久しいが、この潮流は今も変わりはないようだ。
 
 前二句は、六月十六日、青森市で開催された、第七回「北の広場」大会で発表されたものであり、三句目の作品は、石部明の句集「遊魔糸」におさめられている中の一句であり、すでに何人かの川柳人がこの作品について触れている。

創造・再生の既成の殻を打ち破ることが必須の前提条件にはなるのだが、既成の殻や観念や概念が、そのいしずえに有るのは言うまでもない。

 「月並み」と言う言葉から離れるためにも、「創造」「再生」に、強く拘ってみたいものである。

 
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月並みから瑞瑞しさへ・・・池さとし

2007年08月29日 | 川柳
    現代川柳『泥』二号 池 さとし

 詩的な感興を、人々に感じさせる、魂の世界とでも表現できるような素晴らしい川柳に出会うことがある。

 そんな時、どこからこのような瑞々しい発想が生まれるのだろうなどと考えこんでしまう。読む人の魂をゆさぶるような作品、そんなことを胸に川柳人は、日々戦い続けているのであろうか。

 表面的には、言葉の順序組合せ的な要素を、多分に含んではいる短詩の世界だが、やはり川柳にはそれだけではない何かがある。

 言葉の奥に付着している、人間の体臭とでもいうのだろうか、人間の心の響きのようなものを感知できる愉しさがある。

       感じあえるもの、繋がりあえるものの内在する川柳。

ここに少しでも接近したいものである。
 いうまでもなく川柳は言語表現のエリアに位置しているのだが、ともすると、ことばの持つ観念とか、概念のようなものに膠着してしまうことが、ままある。この線上に安住を決め込んでしまうと、この位置からの脱却が非常に難しい。

 とはいえ、この位置からの脱却をなおざりにしていたのでは、いつも同じ枠の中での表現を繰り返すことになり、新しい光は見えてこない。

 観念との膠着から抜け出す世界に、創造とか再生がある。創造や再生は、何も川柳のみに限らず、文化と名のつくもの全ての分野にわたって存在する。

 創造などというと、何か大げさに聞こえるが、そんなに仰仰しいものではない。
 なぜなら、新しいことを発見することとは、いささか意味が違うというように考えるからである。新しいことの発見ともなると、これはもう、はるかに日常性を越えた遠い所に存在することになり、日々の実存する現実からは見えてこない夢ものがたりのような気がする。

 ひとりの川柳人が、一生涯川柳をつくり続けるところで、その人間の使用した「コトバ」の数などには限度がある。ことばは有限でありながらも、一人の川柳人が川柳に使用するコトバなどは、その中のほんの一部でしかあり得ない。

 人間性などというものは、ひとりひとりが微妙な違いを具備しているはずである。

 にもかかわらず類想・剽窃などと思われる作品が出現するのは、川柳人がいつまでも在来の観念・概念・価値観などに縛られているからに相違ない。そのようなひとつの枠での建前論的な拘りのようなものが、体臭・体液になってしまっているが為に時として類想、類似と思われるような作品に結びついてくるような気がしてならない。

                             続く・・・
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陽を抱く・・・池さとし

2007年08月28日 | 川柳
        現代川柳『泥』二号・・池さとし

           小さい波の原発夜話炎えている

           原発反対ぼくも芒も旗を振る
         原発の森きょうもホタルが死んでいる
           原発水漏れ朝の眩しい風景に

八・十五静脈瘤と向かい合う
八月の陽を抱け永遠に千羽鶴
カメラのむ 切り立つような崖が胃に
                    朝が来ても工場のシャッター降りたまま
                    弔旗にも風にもなれぬわが痩身
                    有事だ有事だ蟻の巣をつつく
団欒の木を根こそぎ奪った 棺
羽化を待つ未来宣言してみよう
ぽつねんと風 ぽつねんと僕 都市砂漠
                    痩身一個今夜も月に濡れている
                    サランラップ一巻 目鼻のない凍魚
                    くもの巣に唯物論がぶらさがる
居酒屋の暖簾をくぐる 句読点
だれも知らないこうもり傘の明るい死
携帯の波に溺れているにんげん
                    風すこし囚人服のポケットに
                    白樺の木を描くひとり花粉症
                    しあわせの尾は掴んだかに見えた
折れた矢をふところ深く持っている
抱き続けた夢のその後に逢いに行く
ペガサスになれアイウエオ点字打つ
                    朝市が光る歯切れのいい啖呵
                    白い月手負いの傘を見て通る
                    海に出よう死後流木になりきって

            インターネットわが魂を検索中
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現代川柳『泥』・・抜き足・差し足『泥』まみれ

2007年08月27日 | 川柳
続き・・・

            創刊号を読んで     稲月 蛍介

 以前に較べると、川柳と俳句を隔てている垣根は低くなったとは言われているが、そう聞かされても、前述の如く、川柳に就いては低いレベルでの認識しか持ち合わせていないので、いったい何が垣根なのかさえも判然とはしないのだけれども

           二の腕をぷるんぷるんと春爛漫  容子
           逆行の机上 増殖する枯野 

  指折りのあとの奢りよレモン噛む   テイ子
  おどろなる血いざなうように花石榴

                  芒もう崩れて風のその先に  さとし
                  冬の絵に小さな夢の帆を上げる

 これなどの作品に接していると、おのずから自分を俳句の側の人間として、安心して腰を据え、川柳世界に浸かり作品を鑑賞出きるような気がしてくるのだった。

 「それが罠かも知れないぞ」との、内なる声が聞こえて来ないで訳でもない。
「それならそれでいいじゃないか」と、もう一度作品に対峙し直してみると、これらの作品に満ち溢れる人間諷詠===人生の哀歓に取り組む姿勢の有り方には、慈味溢れるものがあり、視点や手法には、ある種の異変があるとは言え、同一詩型が故にもたされる内的必然のようなものが、強烈な要請となって心に迫って来るのであった。

 時間・魂・自然そして鳥獣虫魚との共棲の中で形成されて行くのが人間社会なのだから、世の中抜き差しならぬことばかり、だからこそ「うた」が必要不可欠なものになり、従って、その為の声も、次第に多面性を帯びて来るとしても、何の不思議も無い。話を
冒頭の作品に戻すことにする。

 人生七曲り、何時、何処で何が起こっても不思議ではなく、平和日本と言ってみても所詮は借り物の平和。同時多発テロだって、当初は「前例に見ない予測のつかない大事件」と言って置きながら、結果が鮮明になってく来ると今度は甲論乙駁、何が正論なのか判らなくなってしまう。明朝必ず目が覚めると信じているから、眠りに就けるものの、眠っている間の生命の保証なんて有りやしない。人によっては杞憂は止せと言うだろう。でも人生にはかなりの確立「どんでん返し」は発生してい、そのタイミングこそ、正に神のみぞ知る処なのである。

 その虚を衝くように「後編は」と容子さんは詠う。舞台装置も完璧で、背景に春の淡雪がたっぷり心憎い。すでに一幕目は始まっており、三人の呼吸もぴったり。何時からが「泥」の後編かは知らないが、「どんでん返し」は計算して出来る物ではない。だから二番三番目が愉しみで、今から埃たれるものも極めて大きい。

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現代川柳『泥』抜き足・差し足『泥まみれ』

2007年08月26日 | 川柳
         創刊号を読んで   稲月蛍介

           後編はどんでん返し春の雪 容子

 右の作品が目に止まった。俳句に就いてなら、関わりを持ってから約50年、それなりの認識も無いわけではないが、詩型を同じくしているとは言え、ことが川柳になると、そう簡単に話をすすめる訳にはいかない。ましてその第一の理由が、自分自身の不勉強にあるのだから、何をか言わんではある。

 そんなボクの手元に一冊、川柳に関する本がある。題して「川柳漫画と番附いろいろ社会百面相」報知新聞社発行で非売品、決して川柳を織りたくて入手したものではなく、その発行が昭和6年、僕の生まれた年と同じなことに惹かれての衝動買いであった。それを読み「泥」に触れるとき、隔世はあるものの、倶に感じるのは、川柳に於ける時代に向けるまなざしには、いつも批判精神が横溢し、それが世相を浮かび上がらせる事に、極めて効果的であると言う事であった。

 勿論この様な発言は、実に幼稚な認識である事ぐらいは、ボクにも判ってはいる。
でもそんな浅薄な知識の、中ででも、川柳と俳句の違いを際立たせている要因のひとつには、世相への怒り、哀しみ、おかしさ等に向ける、視点の相違にあると思うだけに、「花鳥風月」の世界に遊ぶ事で心満たしてている長閑な人たちの俳句とは別で、川柳では視界が大きく社会に拡げられていることに、関心事が高まるのであった。

 湾岸戦争の時に言われ、アメリカの同時多発テロの時にも語られて来た事だが、短歌と川柳では、それなどの事件が大きく社会問題にして取り上げられ、個々の意思を鮮明にした作品となり、数多くの人に読み綴られて来たのに、何故俳句ではそれが出来ないかという発言は、反省の文も含めて、決して小さなものではなかった。

 そして「泥」に於いても

        雪の変容にも似ておぼろなる戦   テイ子
        まあだだよ瓦礫の奥のかくれんぼ  さとし
        花咲かぬ大地 地雷を摘んでいる   容子

 と、その舌鋒は鋭い。勿論猛々しい雄叫びを押し通す事だけが総てではあるまい。でも人が人を殺し、異文化を邪悪なものと決めつけ、人間の尊厳を脅かす暴力への、遣り切れないまでの怒りと絶望感を、何と訴えたら良いのだろうか。

 決定打にこそならない事かも知れないが、そんな時にこそ、川柳ならではの良質な発言が極めて有効ではと、考えさせられてしまうのだった。

 穿ち、皮肉、滑稽、それを逃げの姿勢と言う人がいるかも知れない。

 でも手に何の武器も持たない平凡な市民にとって、お互いの智恵と言葉での訴えこそが、常に最強の武器ではと思われ、譬えそれが力不足であったとしてもごまめの歯ぎしりとは言ってもらいたくない気持ちになるのだった、成熟度に就いては、意見の分かれる処もあると思うが、ボクは三人の作品にそれを強く感じていた。
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現代川柳『泥』馬喬るヒト科

2007年08月25日 | 川柳
___テロ・報復戦争にまつわる一句____ 2002・10 2号

巨大な壁の 煙りに消えた 殉教者       尼崎市  森田栄一
報復だ報復だ花粉症              追分町  氏家たかし
難民の子にふたつの瞳ふたつの耳        青森市  野沢省悟

にんげんも神も仏もテロの墓          札幌市  岡崎 守
安全地帯で叫んでいる平和           札幌市  茶畑夢休
ワイングラスの上の地球儀が揺れる       青森市  高田寄生木 

文明の究極に棲むテロリスト          江別市  松田一州
にんげんがいるからテロだ!報復だ!      室蘭市  五十嵐万依
地球の丸さ信じていないテロリスト       埼玉県  てじま晩秋

目には目を血が血を誘うかぜの音        札幌市  鎌田チヨ
目耳口骨砕いて嗚呼正義            登別市  北村遼子
テロ多発思想がひとつユダヤ人         登別市  斉藤真智雄

にくしみの連鎖夜よ終わりなさい        札幌市  平井詔子
無差別のテロへ地団駄ふむばかり        小樽市  松田竹生
デパートの色彩ふいにビンラディン       江別市  一戸涼子

鮮血ポタポタテロリストの宴       江別市  引木詠路
ヴィンラディンの声聴く平和遠くなる   札幌市  大橋百合子
ころされるころす砂漠に川の痕      弘前市  矢本大雪

テロ、報復地球の自転血だらけに     岩手県  佐藤岳俊
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現代川柳『泥』・・縄文都市・墨作二郎

2007年08月24日 | 川柳
           『縄文都市』墨 作二郎 (青森)

           アテルイ幻想 栗の木のめり込む

北狐眸の碧 見果てぬ<思想>の地
                     若者は捜神の旅 戦うか苦しむか
えぞたんぽぽ明るい空 板状土偶片
                     竪穴住居あばら骨 うす蒼い時間
子供の墓 うたた寝 虹色円周率
                     堀立柱はまかない 鯨の見張り台
耳枯れ椎の実 森閑と火を雫す
                     縄文都市に遠い心音 抒情の視野
万象フランスパン 石斧と翡翠の勾玉
                     稜線に火を吐く山 大地を叩く祭
風通る土杭墓 縄とび山斜面
                     行列埴輪の先頭 鬼は迷い蝉
地層くらがり 焚火の猥語液状化
                     縄文ポシェット かの語り部の茜雲

                              (三内丸山遺跡)
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現代川柳『泥』・・・希望と信念と情熱と

2007年08月22日 | 川柳
      現代川柳『泥』二号 『希望と信念と情熱と』池 さとし


 「生きる・死ぬ」は、人間のだれもが避けて通ることのできない必須のテーマである。
 特に最近は、どの柳誌を開いても、老齢化問題に触れた文が目につく。大会・柳社運営のありようを危惧する声が頻繁であり、しかも相当悲観的である。情としては理解できる。だが何か淋しい。

 こんな詩がある。

  (サムエル・ウルマン「岡田義夫訳」)
 青春とは人生のある期間を言うのではなく、心の様相をいうのだ。
 優れた創造力、たくましき意志、炎ゆる情熱・・・
 こういう様相を青春というのだ。
 年を重ねただけでは人は老いない。
 歳月は皮膚のしわを増すが、情熱を失う時には精神はしぼむ。
 人は信念とともに若く、疑惑とともに老いる。
 人は自信とともに若く、恐怖とともに老いる。
 希望ある限り若く、失望とともに老い朽ちる。

 希望と情熱を燃やし続けている限り、青年であり青春であることに、自信を持って、いつまでも川柳と膠着状態を保ち続けたいものである。

 現在、各地の柳誌・大会などで活躍している川柳人達、彼等はみな、そのような意気込みで川柳に打ち込んでいるに違いない。

 自信と信念と情熱を持っての活動、柳誌「泥」の発刊これが読み手の発憤の起爆剤になったとしたら、こんなに嬉しく勇気づけられるものはない、寄せられた中からの一文、

 (このところ作句することに戸惑いがちで、続けていけない心境になっておりましたが、皆様の意気込みに「ハッ」とさせられました。経験の浅い、わたしのいたらなさと思い当たりました。私もこの先三年、何も考えずひたすら作句していこうと思いました。)

 常に第一線で、情熱を燃やし続けている先輩川柳人から、勇気とエネルギーをもらい、躊躇することなくゴールのない川柳の道を、走り続けたいものである。

 今、川柳界は、各地でマグマのような核活動が盛んである。身近な所では、『アングル』が終刊し、新たに『水脈が』八月芽を吹いた。今後の積極的な活動への期待は大きい。又、青森の『かもしか』も、来年の一月には『双眸』に生まれ変わる。同じ一月に岡山からは、石部明を中心に『バックストローク』が創刊される。
みなそれぞれに希望と情熱に裏打ちされての活動である。
 
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現代川柳『泥』・・・プレッシャーこそが!

2007年08月21日 | 川柳
  現代川柳『泥』2号 プレッシャーこそが!(佐藤容子)

 エイプリルフールに産声をあげた。「泥」も六ヶ月が過ぎた。あっという間だったというのが正直な気持ちである。

 創刊号の反響は想像を超えるものがあり、小誌の部数が足りなくなるというアクシデントまで起こり、大変に失礼をしてしまったことを先ずお詫びしなければならない。
 有形無形の身に余るご厚情に胸を熱くしながら二号目の出来栄えは?
 
 いよいよ三者三様のカラーが彩濃く表出されてきたのではないだろうか。

 満身創痍の覚悟のスタートが満身に温かなエールを受け、今大いなるプレッシャーこそが創作意欲の源であることを実感している。

 「全ての創作品は未完成である。」という言葉があるが、読者の中でしか完成しない作品を読者はどのように読んで下さるのだろう。

 忌憚のないご意見、ご感想を!是非!
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