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川柳・ボートっていいね!北海道散歩

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現代川柳『泥』言語空間へのさすらい・・・池さとし

2007年08月07日 | 川柳
  2002・4創刊号『泥』 言語空間へのさすらい 池 さとし

 続く・・・

 水面に小さな石を投げたときの波紋の広がりにも似た光景から、それが思わぬ成果へと結びつくことすらあり、結果よければ全てよしなどと嘯く心境になれることもある。

 どこからどう手をつけてよいのか、そんな状態で存在する脳内イメージなのだが、確かに『何か』が生きている。まさに変幻自在とでも言える、掴みどころのない脳内イメージを、言葉を通して目鼻をつける思考過程、しかもできるかぎり、観たり聞いたりの前例の無い表現にたどりつくまでの、言葉探しの一人旅をつづけることになる。

 そして時には、支離滅裂、自己満足型とも言えるような、ひとりよがりの作品にたどり着くことさえままある。
 この世に生のうぶ声をあげて以来の、一個の生命体を取り巻くありとあらゆる体験・記憶・そして環境などで形成されたであろう潜在性の脳内イメージは、ときとして精神風土と同値相・同位相にありを思わせる。

 知らず知らずのうちに、作家ひとりひとりの体質となり、誕生する作家の影や皮膚の如き存在で滲み出てパーソナリティーを反映させるもとになる。

 そんな捉えどころのない、アメーバー状とでも表現できる脳内イメージは、意識、無意識の混濁で、心の奥底に隠れている目に見えない物体であり、ひょっとしたら魂の一部とでも考えら得るのではなかろうか。

 確たる資料の持ち合わせはないが、イメージ・印象・連想吟を取り上げる大会、句会が浸透しつつあるような気がする。

 道内に限って言えば進藤一車氏中心の「どん底の会」は、結成以来このスタンスを保ち続けており、意欲的である。また海のむこうでは、野沢省吾氏中心の『雪灯の会』の活動が特筆される。昨年六月の北の広場札幌大会での新風は、今でも心地よい風となっている。

 いちまいの絵からの誘発であったり、ひとつの旋律からの触発であったり、いわゆる視覚・味覚・聴覚・触覚・嗅覚などの刺激を受けて、データーベースに潜在している無意識は、意識化への動きを見せるなかで、言葉を大切に扱いながら思いをふくらませる。

 
(イメージは生体の知恵である。遺伝子がイメージそのものである。生存そのものがイマジネーション。)等それぞれに納得させられる表現ばかりで、総合すると、脳内イメージは内的な現実である。その内的な現実を秩序あるものに統一化する。川柳はその営みの一端を、言葉という道具を使用する方法で担っていることになる。

 いうなれば、内的現実の自己現実とでも言えようか。
心の眼に映る世界を、言葉という表現形成のなかで、どのように具現化を図るかは、人間が「芽生え」から携帯を獲得するまでのプロセスそのものに、すっぽり重複するかのようでもあり、興味をそそられるものがある。
 
 
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