goo blog サービス終了のお知らせ 

川柳・ボートっていいね!北海道散歩

川柳・政治・時事・エッセイ

現代川柳『泥』・・抜き足・差し足『泥』まみれ

2007年08月27日 | 川柳
続き・・・

            創刊号を読んで     稲月 蛍介

 以前に較べると、川柳と俳句を隔てている垣根は低くなったとは言われているが、そう聞かされても、前述の如く、川柳に就いては低いレベルでの認識しか持ち合わせていないので、いったい何が垣根なのかさえも判然とはしないのだけれども

           二の腕をぷるんぷるんと春爛漫  容子
           逆行の机上 増殖する枯野 

  指折りのあとの奢りよレモン噛む   テイ子
  おどろなる血いざなうように花石榴

                  芒もう崩れて風のその先に  さとし
                  冬の絵に小さな夢の帆を上げる

 これなどの作品に接していると、おのずから自分を俳句の側の人間として、安心して腰を据え、川柳世界に浸かり作品を鑑賞出きるような気がしてくるのだった。

 「それが罠かも知れないぞ」との、内なる声が聞こえて来ないで訳でもない。
「それならそれでいいじゃないか」と、もう一度作品に対峙し直してみると、これらの作品に満ち溢れる人間諷詠===人生の哀歓に取り組む姿勢の有り方には、慈味溢れるものがあり、視点や手法には、ある種の異変があるとは言え、同一詩型が故にもたされる内的必然のようなものが、強烈な要請となって心に迫って来るのであった。

 時間・魂・自然そして鳥獣虫魚との共棲の中で形成されて行くのが人間社会なのだから、世の中抜き差しならぬことばかり、だからこそ「うた」が必要不可欠なものになり、従って、その為の声も、次第に多面性を帯びて来るとしても、何の不思議も無い。話を
冒頭の作品に戻すことにする。

 人生七曲り、何時、何処で何が起こっても不思議ではなく、平和日本と言ってみても所詮は借り物の平和。同時多発テロだって、当初は「前例に見ない予測のつかない大事件」と言って置きながら、結果が鮮明になってく来ると今度は甲論乙駁、何が正論なのか判らなくなってしまう。明朝必ず目が覚めると信じているから、眠りに就けるものの、眠っている間の生命の保証なんて有りやしない。人によっては杞憂は止せと言うだろう。でも人生にはかなりの確立「どんでん返し」は発生してい、そのタイミングこそ、正に神のみぞ知る処なのである。

 その虚を衝くように「後編は」と容子さんは詠う。舞台装置も完璧で、背景に春の淡雪がたっぷり心憎い。すでに一幕目は始まっており、三人の呼吸もぴったり。何時からが「泥」の後編かは知らないが、「どんでん返し」は計算して出来る物ではない。だから二番三番目が愉しみで、今から埃たれるものも極めて大きい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする